明るい未来は限界の訪れ
フィギュアスケーター、禰宜丈留との接触から数日も経たない内に晶は再び彼の病室に訪れた。
入る直前に鞄からファイルを取り出し資料を一枚一枚確認する。
お互いが最悪となった出会いであるが晶は既に行動を起こしていた。
その日の内に晶は中山から丈留に関する記事や動画を出来る限り集めさせ、彼のデータ収集に勤しみ彼女なりの『禰宜丈留の復活プロジェクト』の見積もりを作成した。勿論まだ晶は彼については知らない事ばかりなので、作成したプログラムは仮段階なのだが彼女にとってこの資料の作成には並々ならぬ思いが込められていた。
それは先日、晶の担当医から彼女に宣告された事も重なっていたのもあった。
ページを巡る度に晶は医師との言葉が蘇っていた。
ー「無理…?」
晶は医師に聞き直した。
ー「ええ、おそらくですけど」
医師は同じ答えを言う。
ー「腎臓の数値は確実に下がってます。まだ分かりませんがこの様子なら来月の終わりには本格的なリハビリも許可します」
ー「…」
ー「ですが、リハビリで回復するのは今が4割程度とすると…見込めて6割。良くて7割でしょうか」
ー「残りは “動けない” って事ですか?それとも “動くと危険” って事ですか?」
ー「…両方です。うーん動くと危険までは大袈裟ですが…無理の効く足にはならない。だからそこに無理を加えたトレーニングをすれば半分以上治る足が無駄になる」
ー「…」
ー「言ってみれば訓練では取り戻せない部分がありまして、リハビリをする時期が遅すぎた…のかも知れません」
「…そうですか。6割だと学校の体育は」
「出来ますよ。完全に半分以上回復するには卒業間近ですが、授業や運動は10月頃には出来ます。勿論腎臓次第ではありますけどね」
「バスケ、授業とかであったら」
「授業でやる程度なら問題は無いですね」
「…」
「ですからそれまでは絶対に今まで通り安静でいてくださいね。運動出来る身体にはなりますので」
「はい」
「今が一番大事な時期ですから。去年の様に無理をするとバスケどころかあなたの人生そのものも…分かりますよね」
「はい…」
「でしたら本日はこれで」
「ありがとうございました」
「お大事に」
6割、か…
晶は考え込む。
6割も回復するなんて思ってもみなかった。
二年、かぁ…長かったなぁ。
「…」
晶は診察室の閉まった扉の前でぺこりと頭を下げる。
バスケはもう出来ない。
…充分だった。
この言葉のおかげでやっと前を向ける。
私がやるべき事は…あの人が勝てる道筋を考えること。
鞄からファイルを取り出した晶は自分が作成した資料をソファに座って1ページづつ読み直しうなづいた。
〜…
丈留の病室。
ノックして数秒、晶が一人で現れた。数日前に激怒して追い出した筈の晶が今度は一人で来たのに丈留はギョッとした。
「こんにちわ」
前回と同じ特に表情を見せない晶。
「お前!」
( 二度と来るなと言った筈だぞ、馬鹿野郎!) と、がなりつける前に晶が淡々と語り出す。
「一応あなたの事、中山さんに頼まれてますので来ました。今日は私なりにプランを…」
「俺はお前なんかコーチに頼んでねぇ。帰れ馬鹿野郎」
「私は頼まれました」
口調を強くしても全く怯まない晶に丈留の感情はまた昂ってくる。
「テメェ…また花瓶投げられたいのか」
歯ぎしりが聞こえてきそうな程のイラつきを見せる丈留は、今にでも晶に飛び掛かりそうな状態だった。
「どうぞ」
「…」
「…」
「…」
「…投げないんですか」
「うるせぇ!…投げるもんが無ぇだけだ」
花瓶で無くても丈留の手元には枕なり携帯なり、投げようと思えば投げれる物は幾らでもあった。ただ手に取る瞬間ためらいの様なものが胸を突きそれが余計イラつきを生み、怒鳴るのが精一杯だった。
晶はそこでやっと表情が柔らかくなる。
入り口で立ちっぱなしだった足が動き出す。
「テメェ。何笑ってん…おい来んな」
晶にとって丈留の側に寄るのは実は勇気のいる行動だった。
「…」
表情こそ物怖じせずだが暴力を振るわれるかもしれない恐怖は当然あった。
ただそれ以上に自分が動かなければこの先何も生まれないと思った晶は、まずは自分が歩み寄る事が大事だと悟った。
丈留はそんな晶の行動が異常に思えた。
普通なら自分より年上の男に怒鳴られ花瓶を投げて威嚇した自分に、嫌悪感や恐怖を感じ自分とは二度と会いたくない筈。
なのに目の前のこの女は今度は一人で病室に現れて、自分の前に近寄って来る。
頭がおかしいのだろうか。
「来るな!それ以上来たらぶん殴ん…!」
気付いたら俺が怯えてる。
威嚇してるつもりが仔犬の様に俺が怯えてる。
「おいっ!来るなっつってるのが…」
手元の枕を掴んだ時、同時に晶の手が彼の手に触れた。
「!」
晶の手の温みに丈留の背筋がビクっとなる。
「…聞かせて下さい。あなたの正直な気持ち」
丈留の目を見て晶は静かに問う。
「あ?」
晶には、いや誰から見ても丈留がスケートを続けたい気持ちは分かっていた。
「スケート、やりたいですか?やりたくないですか?」
だからこそ晶は彼の口から聞きたかった。
「うるせ…」
荒れても何でもいいから意志を言葉に出して欲しい。
「勝ちたいですか?諦めますか?」
言葉に出来なければ一歩は踏み出せない。
晶の瞳は真剣だった。
そのまっすぐな目の輝きに丈留は直視出来ず逸らしてしまう。
「お前に…」
「私はあなたと同じように怪我をした人間です。あなたを笑わない」
「…」
「…」
「…お前に」
「…」
晶の掴む手がもう一度強くなる。
その時丈留は戸惑いと同時に感情が爆発した。
「お前に俺の気持ちが分かるかぁ!」
晶の手を力任せに振りほどいて丈留は吠えた。
補助杖の晶はバランスを失い転倒しサポーターをしてる左膝を強く打ち付ける。
“ あ!ウぅぅ! ”
これまでに聞いた事の無い晶の悲痛な声が丈留の耳を劈く。
それで丈留はハッとした。
「あ、お、おい…」
手を上げるつもりはなかった。
だから今の状況が呑めずにいた。
ただベッドの下でまだ蹲り、ううぅと呻く晶にどう声を掛けて良いのか分からない。
「お、お前が悪いんだからなっ」
悪態をついても晶は返答出来ず蹲っている。
「痛い目見たく無けりゃとっとと失せろ」
晶は声を掠めながら、ううぅと呻いている。
自分も怪我人だが相手も怪我人。現実怪我人に怪我を負わせたのは自分でさすがにこれはまずいのでは…
少し冷静を取り戻した丈留はナースコールを手に取る。
その時。
「…」
晶は無言でぐぐぐと身体を起こし始めた。
「お、おい…」
荒い息の中、歯を食いしばって晶ベッドに手を掛け、杖に力を込めて立ち上がる。
「お前…」
「…」
晶は何も言わない。何も言わず丈留の目を見続ける。というよりそれは睨みに近い状態だった。
その晶の睨みは圧倒的な迫力で丈留は完全に押されてしまった。
その目から何を言われるのか。罵倒されるのか、激昂されるのか。
晶に言われる前に丈留は自分の正当性を主張した。
「なんだよ、お前が悪いんだから…」
しかし晶の口から出た言葉は意外なものだった。
「聞いてない」
「は?」
「まだ聞いてない、質問の答え」
「お前…」
「答えて!スケートやるの?やらないの?」
晶は叫んだ。
その叫びは何か丈留の心の底を揺らす。
無表情で生意気な年下の事務女とばかり見た晶。その晶の手の温み、転倒した際の呻き、そして感情の爆発…
晶の自分に対するベクトルは流せるものでない。丈留はそれを汲み取った。
「…」
「…」
「…イスあるだろ、座れ」
「はい」
「俺は別に…謝らねえぞ。だいたいお前が…」
「構いません」
辛そうな声だがよろよろと椅子の場所まで数歩戻る。
「…で」
椅子に座った晶はまたいつもの口調に戻っていた。話の腰を折られた丈留は口を尖らすが、とりあえず振り出しに戻した。
「いいか、よく聞け。中山の馬鹿にも言ったが俺はお前がコーチだとか聞いても無いし認めてもない。俺にとってお前はただの部外者だ。部外者が勝手に俺の部屋に来るな」
「…私だって数日前に友人から紹介したい人がいるって言われたから、てっきり中山さんの様な素敵な人かと思ったらあなたでガッカリしてます」
「男が目的か。帰れガキ!」
「あなたが中山さんに何を言ったか知りませんが私は彼からキャンセルを受けてません」
「俺はお前に言ってんだよ」
「あなたもまだ私の質問に答えてませんよね?」
「…」
「…」
「…」
「…」
お互い一歩も引かず沈黙が続いた。
このままでは埒が明かない。
この女がここまで主張を張るのなら何かあるはず。聞くだけ聞いてどんなレベルか試してみることにした。
「お前、スケート素人なんだよな?」
「はい」
「知識とかどこまで知ってんの?」
「特に何も」
「素人で何も知らなくてどうやって俺を勝たせてくれんの?」
「さあ?それはこれからです。とりあえず中山さんに言われたのはあなたの面倒を見ろと、精神的支えになって欲しいと言われただけです」
晶は鞄から数日でまとめた資料を取り出そうとした。
そんな晶に丈留は邪な笑みをこぼす。
「へぇ…精神的ね…精神的な支えか。そりゃいいな、それならスケートの知識もいらねえわ」
「…」
「…姉ちゃんよ、ちょっとこっち来いよ」
「?」
「どうした?こっち来いよ」
「…」
不信感を抱くも晶は側に席を立ち側に寄る。すると丈留は寝巻きのボタンを上から順に外していった。
「面倒見てくれんだよな?だったら俺の体を拭いてくれや」
「…」
「どうした?俺の精神を支えてくれよ。ああ、それと…」
丈留は寝巻きの下半身も脱ぎずらした。
「!」
「勿論こっちも頼むわ。入院で溜まって勃っちまったけど、この処理もついでにしてくれ」
「…」
「ほら、頼むわ。とりあえずこの勃ってるモノからやれ」
「…」
「男が好きなんだろ?だったら抜き方くらい分かるよな…それとも初めてか、ハッ」
「…」
晶はしばらくその場に立ったままだったが、くるっと踵を返した。
その様子に勝ったとばかりにニヤニヤする丈留。
ただ晶は背を向け帰ったと見せかけ、ベッド横のナースコールに手を掛ける。
「おい、何してんだコラ」
「あなたが下半身の世話をして欲しいとナースセンターに連絡を入れようと」
「バ、馬鹿野郎!やめろアホ!」
晶の親指がボタンに触れた瞬間丈留は慌ててコードを引っ張り、ナースコールは晶から滑り落ちた。
「何考えてんだ、テメェは!」
「…下半身を処理して貰いたいんですよね?」
「俺はお前にやれと…」
「ごめんなさい。あなたは私のタイプではありません」
「!」
「従ってマスターベーションはお一人でどうぞ」
「…だったら、今すぐエロ本買ってこい!」
「はい」
「!」
「お金、私、持って無いんですが」
「…下に鞄あるだろ、そこから財布勝手に持ってけ!」
「はい」
「おいっ」
「?」
「足、足は…」
「歩けます」
「…」
晶は特に反応の無いまま仕切りの向こうへ。パタンと静かにドアが閉まる音が不気味なくらい大きく響いた。
〜…
2.
「ふざけるなぁ!この粗チン野郎!汚いもん見せやがって変態!体毛濃いんだよ!無精髭も不潔!郷内の兄貴か、お前は!二人揃ってバカみたいに髪伸ばして似合わないんだよ、バーカバーカ、子供みたいに喚きやがって次暴力したら張り倒すから覚悟しやがれ、何が氷上の荒武者だ!この、落ち武者野郎おォォ!」
近くの書店から帰って来た晶は丈留の病室にはそのまま戻らず屋上に立ち寄っていた。
誰も居ないのを確認するとフェンスから大きく深呼吸を二回したのち、丈留への悪口の思いの丈を目一杯喚いた。
買ってきた本も投げ付けてやろうとしたが寸での所で思い止まった。
何かこのままでは納得のいかない晶は、病院を抜けて近くのカフェでスイーツのやけ食いをしてストレスを発散させようと思った。
そう思った時には既に足はカフェに向かって歩き出している。
エレベーターに乗り込んだ時には携帯のサイトからメニューを決め込んでいた。
よし、これがいい。
ガトーショコラと生チョコのムース。ちょっと値段あるけどなんたって財布ならここに…笑
私へのセクハラ被害を含めてスイーツで済むなら安い話しだわ。あっ、この二種類のヨーグルトチーズケーキも美味しそう。これも追加しようかな。
丈留の財布を振りながら一人満足気な晶はエレベーターを降りた後、一度ロビーのソファに腰を下ろした。
「ん?」
その時、晶のすぐ近くで偶然にも美魚が通り過ぎる。
最初はそれが美魚であるのに理解するのに時間が掛かかったが、後ろ姿で晶は完全にそれが美魚だと分かった。
ただその後ろ姿は歩き方からして随分気が立っている様に見え、声を掛けるには何かいけないくらいの殺気が伝わった。
途中まで出た声を生唾ごと飲み込んで晶はその後ろ姿だけを黙って見過ごした。
そしていつの間にかカフェでストレスを発散するという考えも消えてしまった。
〜…
「戻りました」
「…」
丈留の病室に戻った晶。
相変わらず丈留は無愛想を決め込んだままだが、晶は何処か様子がおかしいは瞬時に気付いた。
「…どうしたんです?頬」
さっきとは明らかに顔が違う。急に虫歯に侵されたかの様な頬の腫れは晶を戸惑わせた。
すると丈留はボソっと答えた。
「お前がチクったのか…美魚に」
「?(あいつ?誰?)」
「…」
「…」
晶の表情から脈無しと踏んだ丈留は舌打ちを一回。
「違うか…じゃあ中山の女だな」
中山の女?サトちゃん?
さっきから何言ってるんだろう?
「何の話しですか。サトちゃんが何か?」
「美魚が来た…さっき」
丈留の口から美魚の名前が出て晶は先程見かけた美魚らしき女性が美魚なのだと改めて確信する。
そして丈留と美魚は知り合いだから彼女が一人でここに来るのも何も問題無いと納得した。
「ミワちゃんが…あっ、さっきミワちゃんなら見ましたよ」
「!」
「声掛けたかったけど私に気づかなかったし怖い顔してたから、そのままスルーしちゃったけど」
晶は見かけた時の事を説明する。
その差中丈留はまたもボソっと言う。
「殴られた」
「え」
「あいつにぶん殴られたんだよ」
「 ⁉︎ 」
「お前らを怖がらせたとかでな」
「!」
晶の携帯にメールの着歴。
【クソ野郎をぶん殴ってやった。今後アイツがナメた事したらいつでもあたしに言え、シメに行く】
「…ミワちゃんからメール来てます。見ます?」
「…」
「ミワちゃんって私のお姉ちゃんみたいな人なんです。サトちゃんもですよ。いつも私を気に掛けてくれて私はいつも助けられて、あの二人が居なかったら今の私は存在してないと思います」
「…」
「ミワちゃんには私から言っておきます。私からも謝ります、迷惑かけてすいませんでした」
晶は深く頭下げた。
「…」
「今日は帰ります。本はここにレシートは財布に入れてましたから確認してくださいね」
晶は本屋の紙袋と財布を丈留に渡す。
正直今の丈留にとって晶の買ってきた本の中身はどうでもよかったのだが、手持ち無沙汰で紙袋を開けた。
「でわまた」
帰ろうとする晶を丈留は呼び止める。
「待て」
「?」
「お前…本、ガイジンじゃねぇか…」
「?」
「なんでわざわざ金髪本なんか」
「え?男の人ってそうゆうのが好きなんじゃないんですか?」(※)
晶が買ってきた成人向け雑誌は金髪外国人のアダルト本で、彼女は特に迷う事無くこの本手に取っていた。
男の人がエッチな物を鑑賞する、それはバスケ部顧問の加藤の嗜好で晶はそれを知っていた為彼女の頭の中で自然に常識となっていた。
「…」
「え?何か違ってましたか?」
「…」
「?」
「…」
この女は馬鹿なのか…
純粋なのか…
丈留はここまでの晶の行動を思い返す。
ただ何て言えばいいか、こいつは何に対しても本気で向き合おうとしている、のかも…
それにしてもエロ本買ってこいって言って素直に買ってくるか?それもガイジンなんて…
頭の中で煮詰まった丈留は、ふと笑ってしまった。
「?」
晶はその笑いの意味が分からない。
そしてその表情が更に丈留の肩の力を抜けさせてしまった。
いままで硬調してた顔の筋肉が緩んだ丈留は意外な一言を投げた。
「すまなかった」
「え」
「謝るよ。手出してすまなかった」
「…」
丈留は晶に対して心を許した訳では無かった。勿論彼女が自分のコーチになることも許可するつもりはない。
ただ、目の前のこの少女は上辺だけで物は語らない。だからもし本当に自分に関わるつもりでいるならば、聞く耳だけは持っても良いのかもしれない。
と、自然に感じるようになっていた。
巻末(※)解説
外国人エロ本の件のエピソードは、前作【届け、私の60秒!】の第二話放課後その①に掲載。
次回 12話
『動く日』




