二日目
ポリビウスには姪がいる。
兄夫婦は、ポリビウスが成人を迎え自ら商売を始めた頃に事故で亡くなった。ポリビウスは若かったが商売上も政治上も評判が良く、兄の死後に家父となり、姪アウグスティナの後見人となった。
ポリビウスには妻がいない。正確にいうとかつては妻になるはずの女性がいた。兄夫婦が亡くなり、自分の仕事に家の仕事も増え忙しくしているうちに別れを切り出された。今では子が2人ほど生まれているそうだ。幸せかどうかは聞いてはいない。
ポリビウスには生意気な姪がいる。
兄がいた頃から、会うたびに「よくしゃべる子だなあ」とは思っていた。ところがどうだ。一緒に暮らしてみると、よくしゃべるどころの話ではなかった。よくもまあ、あの寡黙な兄からこの子ができたものだ。引き取ったばかりの頃は、ずっとポリビウスの後ろをついて回り、相槌を打とうが打つまいが四六時中何かをしゃべっていた。
成長し教師がつくようになると、今度はポリビウスに返事を求めるようになった。会話とは、一方的では成り立たないものであると理解したらしい。適当にあしらうと、不満を言い立てる。おまけに歴史や政治を学ぶようになると、自分の意見を理路整然と話し、民会の弁士よろしく相手を打ち負かそうとするようになった。
ポリビウスもその手の話が嫌いではないので、議論にのることもある。あるにはあるのだが、楽器の練習や刺繍をちゃんとやっているのかは気になった。よい嫁ぎ先に恵まれるためには剣だけではなく防具も必要なものである。縫い物なんかは別の者にやらせればよいが、ちょっとした心配りなどに女主人が見せるべきものはできるに越したことはない。
昨日も見合いと贈り物の話をしたところ、伝説の女狩人アタランテを引き合いに反論してきた。全く、叔父の気持ちも考えてほしい。第一、アタランテとて知略にはまり結婚したではないか。
朝の仕事を終えてもまだポリビウスは気が重かった。今日の夜、姪の見合い相手を招待しているが何事もなく終わる気がしなかった。
気を取り直し、ポリビウスはテルマエに向かう。
体をいたわり、気持ちがほぐれる場でもあるが、
市民たるもの、午後のテルマエは社交上も欠かせない。
最近のお気に入りは館の南のテルマエである。以前は月の女神像があるテルマエに行っていたが、月の女神は戦の神。姪のお気に入りの女神である。最近どうもその顔を見ても安らげる気がしない。南のテルマエには古くからの友もよく来ているので、よく友人には話を聞いてもらっていた。
ポリビウスは友と並んで背中をこすりながらぼやいた。
「アウグスティナにルキウス将軍を紹介したが、一向に首を縦に振らん。軍人のような野蛮人など要りません。ケルベロスが守ってくれます、なんていうが、うちの犬なんざ地獄の番犬とは名前負け。愛想が良すぎて誰でも通してしまう役立たずだ。役に立つどころかただ飯食らいじゃないか。アウグスティナには、生活も安全も守ってくれるようなちゃんとした男が必要だというのに」
「通しちまうって、おまえの家は地獄だったのか?アウグスティナちゃんはもう17だよな。確かにそろそろ嫁いでもいい頃合いだな」
「だろう。ああ言えばこう言うし、ゴルゴー王妃やクロエリアまで持ち出す始末。」
「こまっしゃくれたところはお前にそっくりじゃないか」
「似ているからこそ危ういのだ。確かにあいつには知恵があり、自らの言葉で立ち、味方をつける。だがそういう人間は敵も作る。それは私がよく知っている。私は財で守ってやれるが、金ではどうにもならんこともある。力で守ってやる奴が必要なのだ。」
湯船を拳で叩くと湯船が揺れ、湯の表面にさざ波が起きた。
「いかん、興奮しすぎた。コンヴィヴィウムの支度があるからな、そろそろ帰るよ」
「ああ、また夜伺うよ。久しぶりにアウグスティナちゃんにも会えるのが楽しみだ。地獄の番犬さまが通してくれることを祈るよ」
ポリビウスは足早に館に向かう。
焼けたパンの匂い、少しすえたような安物のワインの香り、そこに混じる硫黄の匂い。
女たちの笑い声。子どもたちのはしゃぐ声。テルマエから帰ってきた男たちの声もまざる。
この街の平和な、日常の光景だ。
男の子が飛び出してきてポリビウスにぶつかった。
「前を見ていないと危ないぞ」
ポリビウスが注意すると、男の子は
「おじさん、ごめんなさい」と頭を下げ、早歩きで去っていった。その後ろ姿はウズウズとして見える。本当は走って友達を追いかけたいのだろう。
「アウグスティナもあの子くらい素直だったらよかったのに」。
男の子と同じ茶色の巻き毛の姪を思い出し、ため息をついた。
館に帰るとケルベロスに出迎えられた。
すごい勢いで尻尾を振って飛びついてくる。地獄の番犬ケルベロスにちなんで名をつけたが、首が三つではなく尻尾が三つあったようだ。いやこの速さは九つかもしれない。
すでに召使いたちは準備を始めている。家のものも支度をせねば。
ポリビウスは足早にアウグスティナの部屋に向かい、姪に声をかけた。
「支度はどうだ?」
「たいへんお美しくていらっしゃいます」
召使いの女がかわりに答える。
「今日は私の友人たちだけでなく大切なお客さまもお見えだ。くれぐれも失礼のないように」
やがて客たちが集まり、宴が始まった。
ルキウス将軍をアウグスティナに引き合わせるのが目的だが、ポリビウスの友人たち、取引先の夫妻も招いて気軽な場にした。
したはずだった。
「あら、女を家の中に閉じ込めようなんて狭量なことをおっしゃるのね。外に出すとその輝きで自らが見劣りするから、なんて肝の小さいお方ですこと。」
楽団の演奏のさなか、アウグスティナの声が響き渡る。
しまった、やっぱりやらかした…!
ポリビウスはあわてて姪を止めに入った。
「アウグスティナ、失礼がないようにと言っただろう」
だが止まらなかった。
アウグスティナの隣の新婚夫婦は驚いた顔をしている。テルマエで会った友人が面白がっているのがわかる。くそ、人ごとだと思って!
アウグスティナはトリクリニウムの脇に立ち、建国の英雄よろしく語り始めた。
「私には知恵があります。アグリッピナさまは自らの血筋と言葉でご自身を証明された。私も知恵と誇りで、お父さまから受け継ぎ叔父さまが大きくされたこの家を守ってみせます!」
だんだん興に乗ってきたアウグスティナは、華奢な拳を振り上げ地団駄を踏み、持っていたワインのカップを台に叩きつけた。
ドン!
そのとき地面も揺れた。カップがカタカタと揺れる。
「ほら、神々も私に応えてくださっていますわ」
アウグスティナは得意げに、鼻を膨らませてその演説を終えた。
ポリビウスはため息をついた。
この見合いはご破算だな。
商売人らしく、彼の見切りの判断は早かった。
宴も終わり、客たちも引き上げていく。ニヤニヤと騒ぎをみていた友人が去り際に、真面目な顔でポリビウスの肩をたたいた。
「まあ、頑張れよ」
片付けを召使たちに任せ、ポリビウスは自室に戻った。
空をみあけると、月の女神は完全な形でポリビウスを照らしていた。
「ワンワン!」
ケルベロスの遠吠えが聞こえる。
近所の犬たちもそれに答えている。
気のせいか、いつもよりけたたましく聞こえた。
人をみたら尻尾を振るやつだ、盗賊ではないだろう。仲間と何か話をしているのだろう。
「また明日、説得しよう。明日。」
ポリビウスは眠りについた。




