第6話:無銘の指輪
レンフォード様は、約束の刻限より先にいらっしゃいました。
わたくしが窓を開けて、仕事台を拭いて、布を敷き直しているところへ、戸口が暗くなりました。
「……早すぎたか」
「いいえ。どうぞ」
今日も、部屋の中へは入ってこられませんでした。枠の外に立ったまま、少しかがんで中を見ておられます。この方は、たぶん、狭い場所に慣れておられません。
わたくしは、布包みを仕事台に置きました。
「お預かりしておりました」
包みを開きます。
朝の光が、ちょうど窓から入る時刻でした。
銀の環の中央で、淡青石が青く光っておりました。
レンフォード様は、動かれませんでした。
しばらく、そのまま立っておられました。
それから、ゆっくり手を伸ばして、指輪を持ち上げました。
右手で持って、左手を下に添えられました。
「……青い」
「はい」
「これは」
「元の色でございます。中の水を抜いただけで、石は何もいたしておりません」
レンフォード様は、指輪を光にかざされました。
青い点が、この方の手の甲の古い傷の上に落ちました。
それを、じっと見ておられました。
「母は」
低い声でした。
「母は、これを、こういう色だと言っていた」
「はい」
「私は、母が呆けているのだと思っていた。灰色の石を青いと言うので」
「……はい」
「十年、そう思っていた」
わたくしは、何も申し上げませんでした。
こういうときに掛ける言葉を、わたくしは持っておりません。石のことなら幾らでも言えるのですが。
レンフォード様は、指輪を布に戻されました。
そして、こちらを見ました。
「訊いてもいいか」
「はい」
「これは、誰の作だ」
わたくしは、口を開いて、閉じました。
「……オルスト工房でございます」
「そうではない」
レンフォード様は、首を振られました。
「工房の名は、刻印を見れば分かる。私が訊いているのは、誰がやったのか、だ」
窓の外で、リタが座り直す音がいたしました。
「炉に火を入れたのは誰だ。石を外したのは。水を抜いたのは。爪を戻したのは」
「……」
「答えられないのか」
「答えられません」
わたくしは、そう申し上げました。
「工房の仕事は、工房のものでございます。誰がやったかは、外へは出ません。そういう決まりでございますので」
「決まり」
レンフォード様は、その言葉を繰り返されました。
それから、少し黙って、
「……それは、誰が決めた」
と、おっしゃいました。
わたくしは、答えられませんでした。
レンフォード様は、指輪を布ごと外套の内へ入れられました。
それから、少し外のほうを見て、言われました。
「北で、砦の門を直したことがある」
「……門、でございますか」
「冬の初めに凍って、閉まらなくなった。閉まらない門は、門ではない。三日で直した」
「はい」
「報告は、上官の名で王都へ上がった。当然だ。私は上官の指揮下にいた」
わたくしは、黙って聞いておりました。
「次の年も凍った。次も私が直した。三年目に、王都から書状が来た。——『レンフォード砦の門は、毎年よく保っている。管理が良い』と」
レンフォード様は、そこで少しだけ口の端を動かされました。笑ったのだと、あとで気づきました。
「管理が良い、だ」
「……」
「腹は立たなかった。門は閉まる。冬に人が死なない。それで十分だと思った」
この方は、そこで一度、言葉を切られました。
「だが、母の指輪が灰色だと言われ続けた十年は、腹が立った。同じことだと、今日気づいた」
わたくしは、顔を上げました。
「……同じ、でございますか」
「どちらも、やった者の名前がどこにも無い」
レンフォード様は、戸口の枠から手を離されました。
「答えられないのは、あなたの落ち度ではない。訊いた私が悪かった」
「いいえ」
わたくしは、そう申し上げました。
「訊いていただいて、よろしゅうございました」
自分でも、思っていたより強い声が出ました。
◇
レンフォード様がお帰りになったあと、リタが窓から入ってきました。入口があるのに、この子は必ず窓から入ります。
「なんで言わないの」
「何をです」
「あんたがやったって。あたし、ずっと見てたよ。三日も寝ないでやってたじゃん」
「刻印が押してありますので」
「刻印がなんなの」
「あれが押してある物は、あの工房の物になります」
「意味わかんない」
リタは、仕事台に腰を下ろしました。
「作った人の名前じゃないの、あれ」
「……そうですね」
わたくしは、道具を片づけながら考えました。
押した者のもの。父はそう言いました。
では、押す人と作る人が違うとき、あの菱形は何を指しているのでしょう。
◇
その日の夕方、わたくしは三番通りまで歩きました。
店には入りませんでした。
扉の前に立って、刻印を見ておりました。
菱形の中に、二本の線。木に彫られて、五十年ぶん黒くなった溝。
その下の、削られた跡。
子供の頃から知っておりました。父に訊いて「古い傷だ」と言われて、それきりになっていた跡です。
わたくしは、指でなぞりました。
傷ではありません。
削り跡には、深さの差がございます。彫刻刀を入れた向きが、まだ残っております。縦、縦、横。ここで一度切って、また縦。
文字です。
三つか、四つ。
削った人は、丁寧に削っておりました。急いで消したのではなく、時間をかけて、平らになるまで。
……祖母の名は、ヴィルマと申しました。
四文字です。
わたくしは、しばらくそこに立っておりました。
通りを人が過ぎていきました。誰もこちらを見ませんでした。扉の下のほうを見ている女が一人いるだけでは、誰も何とも思わないのでしょう。
祖母は、わたくしが十二のときに亡くなりました。
最後の三年は炉の前に立てなくなって、それでも毎日仕事場に来て、椅子に座って、わたくしの手元を見ておりました。
「ミレイア」
「はい」
「その爪は、寝かせすぎだ」
「はい」
「……いいね、直すのが早い」
それだけの人でした。
わたくしが道具箱の蓋の裏に名前を彫ってもらったとき、祖母は「そこなら誰にも消されない」と言って笑いました。
あのとき、笑ったのです。
◇
部屋へ戻りますと、リタが窓の下で寝ておりました。
起こさないように中へ入って、仕事台に座りました。
板の上に、レンフォード様がお帰りになる前に置いていかれた銀貨が並んでおります。多すぎるので、半分は次にお会いしたときにお返しするつもりです。
その隣に、わたくしは紙を一枚置きました。
書いたのは、二行だけです。
——石を、直します。座は作れません。炉がありませんので。
——五番通り、青い戸の家。
名前は、書きませんでした。
書けなかったのではございません。書いても、意味がないのです。
この五番通りで石を直している女がいる、と誰かが言ったとして。
その仕事は、どこの誰の作になるのでしょう。
……刻印を押せる者にしか、名乗る権利はないのだそうです。
わたくしは、その紙を戸口に貼りました。
風で少しめくれたので、下に石を一つ置きました。銅貨四枚の、混ぜ物の石です。
お読みいただき、ありがとうございました。ここまでが第1章でございます。
【今日の石】混ぜ物の石にも、使い道はございます。文鎮です。……本物より重いので。
さて、ミレイアには炉がなく、刻印がなく、名前がありません。困ったことに、この三つは全部つながっております。
そして王都では、ある工房の看板が新しくなったことが、少しずつ噂になり始めております。次章、その噂を聞きつけた男が、五番通りへやってまいります。名前を、買いに。
続きが気になってくださいましたら、【ブックマーク】と【評価】をひとつ。炉の薪代の足しにさせていただきます。




