第5話:刻印は、押した者のものだそうです
「ねえ」
窓の外から、声がしました。
火の番を始めて半日、日が落ちてから、リタはずっとそこにおります。帰るように申し上げたのですが、「ここ、あんたの部屋じゃないし」と言われて、それもそうだと思いました。
「それ、失敗したらどうなるの」
「石が割れます」
「割れたら」
「戻りません」
「戻らないの」
「石は、割れたら戻りません。金は溶かせば戻りますが、石は戻りません」
リタは、しばらく黙りました。
「……じゃあ、なんでやるの」
わたくしは、炉の火を見ておりました。
「あの方が、十年持ち歩かれたからです」
「意味わかんない」
「わたくしにも、よく分かりません」
本当に、分からないのです。
十一人が断ったのは、正しい判断でした。触らなければ、灰色のまま手元に残ります。触って割れば、何も残りません。何もしないほうが得なのです。
それでも、あの方は「見てもらえるか」とおっしゃいました。
見るだけでいい、という言い方でした。
……それで済ませられるほど、わたくしは行儀のいい職人ではございませんでした。
◇
爪を起こすところから始めます。
石を押さえている四つの爪を、一本ずつ、ほんのわずかに外へ倒していく。倒しすぎると折れます。折れたら、その座はもう使えません。
鏨の先を爪の付け根に当てて、木槌の柄で押します。叩きません。押します。
一本目。
二本目。
三本目のところで、外の物音が耳に入りました。窓の下でリタが座り込んで、こちらを覗いております。息をひそめているつもりのようでしたが、聞こえておりました。
四本目。
石が、わずかに動きました。
わたくしは、手を止めて、息を吐きました。
布を敷いた掌の上に、座を伏せます。
軽く叩くと、石が落ちました。
◇
外れた石は、思っていたより小さうございました。
座に嵌まっていたときは大きく見えましたが、単体で見ると、爪の先ほどしかありません。灰色の、濁った小石。
これを、この方は十年持ち歩いていらしたのです。
わたくしは、ルーペを当てました。
濁りは、石の中ほどに層になっておりました。細い筋が幾重にも重なって、内側で光を散らしております。水です。長い時間をかけて、目に見えないひびから入り込んだ水。
抜く方法は、一つしかございません。
温めて、押し出す。
ただし、急に温めると割れます。
わたくしは、炉の口から少し離れたところに石を置きました。近づけません。近づけたい気持ちを抑えて、遠くに置きます。
そして、待ちました。
半刻おきに、指の背で近くの空気を確かめて、少しずつ寄せていく。
夜の三つ鐘が鳴りました。
窓の下で、リタが眠っておりました。
四つ鐘。
石の色が、変わり始めました。
灰色の中に、うっすらと青が滲んでまいります。上のほうから、ゆっくりと。
わたくしは、石を布で挟んで持ち上げました。
ルーペ。
筋が、細くなっております。
あと少し。
もう少しだけ。
——五つ鐘。
わたくしは、石を炉から離しました。
冷ますのも、急いではいけません。布に包んで、掌の中で。
それから、開きました。
淡い、青。
窓から入ってきた朝の光が、石の中を通って、わたくしの掌の上に小さな青い点を落としました。
返ってきた光でした。
「……うそ」
窓の外で、声がしました。
リタが、いつの間にか起きて、身を乗り出しておりました。
「それ、昨日の灰色のやつ?」
「はい」
「なんで青いの」
「元から青かったのです」
わたくしは、掌を傾けました。青い点が、板の上を滑りました。
「灰色だったのは、中に水が入っていたからです。それを押し出しました。石は、何も変わっておりません」
「……変わってないの、それ」
「ええ。元に戻っただけです」
リタは、しばらく黙っておりました。
それから、言いました。
「——で、いくら?」
「まだ嵌めておりませんので、値はつきません」
「ふうん」
リタは、窓枠に顎を載せました。
「あたし、見てていい」
「どうぞ」
◇
嵌め直すのは、外すより易しうございます。
倒した爪を、順に戻していく。四本を同じ高さで、同じ角度で。一本だけ強く締めると、そこに力が集まって、いつか割れます。
一本目。
二本目。
三本目。
四本目。
わたくしは、指輪を光にかざしました。
銀の環の中央で、淡青石が、まっすぐに光を返しておりました。
……祖母の座は、やはり良い座でした。爪の起きる角度が、外すときにも戻すときにも、ちょうど手に馴染みます。
わたくしは、石座の裏をもう一度見ました。
二本の線。
どうしてこの指輪が、北の砦にあったのでしょう。
「終わったか」
声に、顔を上げました。
父が、仕事場の入口に立っておりました。手に、刻印を持っております。
菱形の中に二本の線が入った、工房の刻印。
「……はい」
「見せろ」
わたくしは、指輪を差し出しました。
父は受け取って、窓の光にかざしました。
しばらく、そうしておりました。
父は、若い頃に指を痛めております。細かい仕事はもう二十年しておりません。それでも、石を見る目は残っているはずでした。
「……水抜きか」
「はい」
「割らずに抜いたか」
「はい」
父は、指輪を仕事台に置きました。
そして、刻印を環の内側に当てました。
「お待ちください」
わたくしは、思わず声を出しました。
「……何だ」
「その座は、うちのものではございません」
「炉を使ったのはうちだ」
「はい。ですが、座を作った者は別におります。押せば、この座もうちの作だということになります」
「そういう決まりだ」
「決まり、でございますか」
「刻印は、押した者のものだ」
父は、そう言いました。
それだけ言って、押しました。
小さな音がいたしました。
銀の内側に、菱形と二本の線。祖母が入れていた線とは、別の線が。
「……お前は、よくやった」
父は、そう付け足しました。
褒めているつもりなのだろう、と思いました。
わたくしは、頭を下げました。
「炉を、ありがとうございました」
指輪を布に包んで、袂へ入れました。
仕事場を出るとき、扉の枠に手をかけて、少しだけ振り返りました。
やすりの並びも、るつぼの位置も、四日前のままでした。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】水抜きは、温度を上げる作業ではありません。「急がない」という作業です。半刻おきに指の背で確かめて、少しずつ寄せる。近づけたい気持ちを我慢する時間が、仕事の八割を占めます。
次回、ミレイアはこの指輪をレンフォード様へお渡しします。そのとき、この物語で一番答えにくい質問をされます。




