第4話:炉を借りに行ったら、義妹が三代目になっておりました
オルスト工房の表には、新しい看板が出ておりました。
まだ木の色が明るくて、彫った跡に埃が入っておりません。
『オルスト工房 三代目 アネット・オルスト』
わたくしは、その前に少し立っておりました。
四日で看板を作らせるというのは、なかなか早いことです。彫りの職人に無理を言ったのでしょう。「い」の字の払いが浅い。急がせた仕事の跡です。
扉を押しますと、店の中は明るうございました。
燭台が増えておりました。壁に布が張ってあって、見本の指輪を並べる台に、天鵞絨が敷かれておりました。以前は木の板の上に、直に並べておりました。父が「石は自分で光る、余計なものを敷くな」と言っていたからです。
「——お義姉さま」
アネットが、奥から出てまいりました。
仕事着ではございませんでした。淡い緑の、外出用のドレスです。
「いらっしゃると思っていました」
「炉をお借りしたく参りました」
「お父さまは、奥にいらっしゃいます」
アネットは、そう言って脇へ寄りました。通してくれるつもりのようでした。
「アネット」
「はい」
「その天鵞絨は、外したほうがよろしいですわ」
アネットの動きが、止まりました。
「……どうして」
「毛足が長すぎます。石の粉が入りますと、取れません。半年で見本の石が全部くすみます」
「……そう」
アネットは、台のほうを見ました。それから、少し笑いました。
「でも、お客さまには綺麗に見えるでしょう」
わたくしは、そうですね、と申し上げました。
実際、綺麗に見えました。
◇
仕事場は、変わっておりませんでした。
やすりの並びも、るつぼの位置も、四日前のままです。誰も触っていないのが、一目で分かりました。
父は、炉の前におりました。
わたくしを見て、それから手元へ目を戻しました。
「炉か」
「はい」
「何を作る」
「作りません。直します。石を一つ、座から外して、また嵌めます」
「客の物か」
「はい」
「どこの客だ」
わたくしは、少し迷いました。
「レンフォード家の方です」
父の手が、止まりました。
「……北の、レンフォードか」
「たぶん、そうだと思います」
「たぶんとは何だ」
「爵位を伺っておりませんので」
父は、しばらく黙っておりました。
それから、炉の火を見たまま言いました。
「条件がある」
「はい」
「ここで作った物は、オルスト工房の作だ」
わたくしは、うなずきました。
「刻印を押す」
「……座は、わたくしが作るのではございません。直すだけです」
「直しでも同じだ。この炉を使ったなら、うちの仕事だ。看板を出している以上、そうでなければ筋が通らん」
筋。
わたくしは、その言葉を口の中で転がしました。
「では、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「もしその直しが失敗いたしましたら、それも工房の仕事でございますか」
父の眉が、動きました。
「……何が言いたい」
「いえ。うまくいったときだけ工房の仕事になるのでしたら、条件として分かりにくいと思いましたので。失敗も工房のものでしたら、筋は通っております」
父は、こちらを見ました。
わたくしは、父の目をまっすぐ見返しました。この人の目を見るのは、久しぶりでした。
「……失敗も、うちのものだ」
「では、承知いたしました」
わたくしは頭を下げました。
「炉をお借りいたします」
父は、刻印を布で拭き始めました。使う前に必ず拭く癖は、祖母のものでした。
「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ」
「なぜ、アネットなのですか」
拭く手は止まりませんでした。
「ヴェルナー家がそう言った」
「それだけですか」
「それだけだ」
父は、刻印を台に置きました。
「あちらは、うちの名が欲しい。うちは、あちらの後ろ盾が欲しい。看板に立つ者は、あちらが選ぶ。それで話がついている」
「工房の仕事は、誰がいたしますか」
「職人を雇う」
「雇えますか」
父の手が、止まりました。
「……何だと」
「王都の座造りで、雇えるだけの腕の者は七人おります。そのうち五人は組合に囲われております。残りの二人は年を取りすぎて、細かい仕事はもうできません」
わたくしは、指を折って数えました。数えるまでもなく、覚えておりました。
「わたくしがこの三年で組んだのは、三百九十七です。同じ数を出そうとしますと、七人でも足りません」
「……お前は」
父は、こちらを見ませんでした。
「お前は、いつもそうやって数を出す」
「数のほうが、間違いが少ないと思っておりますので」
「数で人は動かん」
それは、そうかもしれませんでした。
現に、わたくしは動かせておりません。
◇
炉に火を入れるには、半日かかります。
薪をくべて、灰をかき出して、風を送って、温度を上げていく。急ぐと石が割れますので、急げません。
わたくしが火の番をしておりますと、アネットが盆を持って入ってまいりました。
「お茶を」
「……ありがとうございます」
碗を受け取って、一口いただきました。
わたくしは、思わず咳き込みました。
「まあ、大丈夫ですか」
「……いえ。すみません。薄くて」
「薄い?」
アネットが、目を丸くしました。
「普通の濃さですけれど」
「そうですね。普通です」
わたくしは、もう一口いただきました。
祖母は、炉の前で飲むお茶を、いつも真っ黒に淹れておりました。「熱で頭がぼうっとするから、これくらいでちょうどいい」と言って。わたくしはその濃さで覚えてしまったので、普通のお茶が水のように感じます。
いまさら直すつもりもございません。
「お義姉さま」
「はい」
「その、レンフォードの方の石」
アネットは、炉のほうを見ておりました。
「わたし、見せていただこうかしら」
「……見て、どうなさいます」
「三代目ですもの。工房に来た仕事は、把握しておかないと」
わたくしは、碗を置きました。
「では、こちらへ」
布包みを開いて、指輪を仕事台の上に置きました。
「どうぞ」
アネットは、近づいてきました。
そして、指輪の前で止まりました。
手を伸ばしませんでした。
伸ばそうとして、途中で止まったのです。ほんの少しだけ。他の人なら気づかないくらいの、短い時間でした。
「……綺麗な、環ですね」
「はい」
「石は、灰色ですのね」
「曇っているだけです」
「そう」
アネットは、それだけ言って、盆を持って出ていきました。
仕事場の扉が閉まってから、わたくしはもう一度、指輪を見ました。
右手で持ち上げて、左手を下に添えました。落とさないように石を持つときは、必ず下に手を添えます。これは教わることではなく、何度か落として覚えることです。
アネットは、伸ばしかけた手を、どちらの手にしようか迷っておりました。
◇
夜になって、炉の温度が上がりました。
わたくしは、道具を並べました。
鏨、細かいやすり、押さえ、それから、石を外すための小さな楔。
息を吸って、吐きました。
外すのは、たぶん一度きりです。二度目は、座が保ちません。
お読みいただき、ありがとうございました。
今日は、ざまぁが一つもございません。もう少しお待ちくださいませ。
【今日の石】石を持ち上げるとき、職人は必ず下にもう片方の手を添えます。理由は簡単で、落とすからです。……手を添える癖がついているかどうかで、その人が今まで何回落としてきたかが分かります。
次回、ミレイアが石を外します。座に押される刻印は、父の名です。




