第38話:破られた頁は、捨てられておりませんでした
「ねえ、やっぱりこれ、厚いよ」
リタが、依頼帳の最後の一冊を持って立っておりました。
写しの束を仕舞い直すついでに、帳面の山を積み替えていたのでございます。二十二冊を年の順に重ね直し、一冊ずつ背を揃えて棚へ戻す途中で、あの子の手が一冊の上で止まったのでした。
「湿気だと申し上げたはずですが」
「湿気なら全体がふくらむでしょ。これ、表紙のとこだけ厚い。……あたし、こういうの、間違えないよ」
リタは帳面を横にして、灯りの下に置きました。
背を下にして立てますと、二十一冊は同じ厚みで揃うのに、この一冊だけ表紙の側がわずかに開いて見えます。言われてみれば、たしかに表紙の見返しのあたりだけ嵩がございます。
わたくしは、指の腹で見返しの紙を撫でました。
中に、何かございます。紙です。四枚か、五枚。
◇
見返しは糊で貼ってございました。
剥がすのに湯気を使いました。薬缶の口に紙を近づけて、糊を少しずつ緩めてまいります。表紙を立てて持ち、湯気の当たる場所を指一本ぶんずつずらして、紙が波打たないうちに離します。石を座から外すときと同じでございます。急いだら負けです。
リタは薬缶の火を見ておりました。沸き立ちすぎると湯気が荒くなって紙が反りますので、薪を一本抜き、また一本足すのを、言われもしないのに繰り返しておりました。
半刻かけて、見返しが開きました。
中から出てまいりましたのは、四枚の紙でございました。
綴じ目の側が丁寧に破られております。帳面の綴じ糸に沿って、一枚ずつ、定規を当てたように。
……破られた二年ぶんの頁でございました。
「捨てて、なかったんだ」
リタが小さく言いました。
「破ったのに捨てないで、いちばん新しい帳面の表紙の裏に隠してた。……なんで」
「破って見せる相手と、残して渡す相手が、別だったのです」
わたくしは、一枚目を灯りに近づけました。
祖母の字でございます。大きくて、少し右上がりの。墨の濃い字と薄い字が交じっておりますのは、炉の前で、手の空いたときに書いたからでございましょう。
◇
一枚目と二枚目は仕事の記録でございました。
『秋二十二。宮廷の使い、再び。受けた』
『座の図、三案。石は外さずに測れとのこと。無理を言う』
『蜜蝋で型。三度。石に蝋を残すな。油を薄く』
『冬に入る。爪の金、練り直し三度目。古い金は素直だが、疲れも古い』
『四度目。新しい金を一割、混ぜた。渡りがついた』
『春。座、九つ潰した。厨房の娘に、もったいないと言われた。九つ駄目と分かった。良い晩』
……マーレさんでございます。
あの晩は、帳面のこちら側にも残っていたのでございます。
『夏。住み込みに切り替え。家に帰る半刻が惜しい歳になった』
『二年目の春。座、成る。石、納まる。爪、六本とも寝た。……この石は良い石だ。二百年、人の誓いを見てきた石だ。わたしの見立てでは、あと二百年はもつ。座のほうは、もたない。金は疲れる。四十年が良いところ』
行を追うだけで手が見えるようでございました。蝋型を三度取り直したのは、石を外せない仕事では型の狂いが座の狂いになるからでございます。金に新しい金を一割混ぜたのは、古い金の粘りを生かしたまま爪の腰を戻すためでございます。
どれも、わたくしが仕事台で迷うところと同じ場所で、祖母も迷っておりました。マーレさんが盆越しに見ていた夜が、この行間に全部詰まっております。
三枚目に、約束の写しがございました。
『一、工房の名を外へ出さぬこと。
一、作りし者の名を外へ出さぬこと。
一、オルストの刻印は当代限りとし、三代目へ渡さぬこと。』
三行の下に署名がございます。
先の大公妃殿下のお名前でございました。
「……宮廷じゃ、なかったの」
リタが覗き込みました。
「宮廷が言い出したと、皆が思っておりました。ですが署名はあの家です。宝物庫を預かる、大公家」
その横に祖母の注が小さく書き込まれてございます。
『言い出したのは帳面の家。宮廷は体裁を気にし、あの家は帳面を気にした。帳面と実物が食い違うのが、あの家には何より怖い。気の毒な人だ。名前を消し続けるより他に、帳面を守る道を知らない』
◇
四枚目は記録ではございませんでした。
誰かに宛てた文でございました。
『この頁を見つけた者へ。
破られた頁を探すような物好きは、うちの筋にしかいない。だから、あんたはわたしの手を継いだ者だ。先に、それを言っておく。
名は呑んだ。手は呑んでいない。
座の爪は、四十年で疲れる。どんな金でも疲れる。そのとき、あの座はもう一度、職人の手に戻ってくる。宮廷工房は受けない。四十年前に受けなかった者は、四十年後も受けない。受けられるのは、わたしの手順を知る手だけだ。
あの人たちが買ったのは、わたしの名前だけだ。四十年後は、買っていない。
名前は、取り返さなくていい。そんなものは、どちらでもいい。ただ、座を直しに行く日が来たら、堂々と行きなさい。仕事で入る扉は、名前で入る扉より、大きい』
署名は、ございませんでした。
代わりに紙の隅に、二本の線が引いてございました。
交差せずに、少しだけ間を空けて。
◇
わたくしは、四枚の紙を長いこと見ておりました。
なぜ彫れないのか、とわたくしはずっと問うてまいりました。誰が封じたのか。なぜ祖母は呑んだのか。
答えは、全部ここにございました。
封じたのは帳面を守りたかった家。呑んだのは四十年後を知っていた人。
祖母は負けて呑んだのではございません。名前を渡す代わりに、いつか必ず来る「直す日」を——誰にも買えない日を、手の中に残したのです。
「……ばあちゃん、勝つ気だったんだ」
リタがぽつりと言いました。
「四十年かけて」
「はい」
「気が長すぎるよ」
「職人でございますので」
わたくしの声は、少しだけ震えていたと思います。
リタは四枚目の紙をもう一度、上から下まで眺めました。読める字を一つずつ拾っているのでございます。指で行を押さえ、唇を動かさずに読む癖がついたのは、このふた月あまりのことでございます。
「ねえ。『あんたはわたしの手を継いだ者だ』ってとこ」
「はい」
「これ、あんたが見つけるって決めつけてるよね。……もし誰も見つけなかったら、どうする気だったんだろ」
「見つからなければ、それまで。……そういう人だったのだと思います」
彫らなければ何も残らない。彫れば、いつか誰かが裏を見る。
刻印の裏の名前と同じでございます。祖母は賭け金を置くだけ置いて、取り立てには来ない人なのでございます。四十年経とうが、百年経とうが。
「……で、あんたが取りに来たんだ」
「拾いに来ただけでございます。賭けたのは祖母ですので」
◇
戸を叩く音がしたのは、そのときでございました。
こんな刻限に、と思って開けますと、王宮の使いの方が息を切らして立っておられました。外套の肩が濡れております。外は、いつの間にか雨になっておりました。
書状を受け取りました。大公妃殿下の手蹟で、二行だけ。
『明朝、宝物庫へ来なさい。
婚礼の検めにて、王冠の中央石の座に、緩みが見つかりました』
わたくしは、その二行を三度読みました。
それから、机の上の四枚目の紙を見ました。
——座の爪は、四十年で疲れる。
祖母の言ったとおりの日が、いま来たのでございます。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】糊で貼った紙は、湯気で剥がせます。剥がせるように貼ったのだと思います。焼くことも、漉き返しに出すこともできたのに、糊で貼った。……隠すための細工と、いつか見つけさせるための細工は、手が違うのでございます。
次章、四十年ぶりに、王冠が職人の手に戻ってまいります。
ここまでお付き合いくださった方に、御礼を。【ブックマーク】と【評価】をいただけますと、二本線の工房の炉に薪がくべられます。次章では、炉が要るのです。




