第37話:名簿は、お止めなさいと
王宮の門で止められました。
「本日より、帳面部屋への立ち入りは相成らん」
門衛の方は、それだけおっしゃいました。理由はおっしゃいません。おそらくご存じないのだと思います。
いつもの門衛の方でございました。このひと月あまり、朝の同じ刻限に顔を合わせるたび、黙って通してくださった方です。冬の朝は槍の石突きを地面に置く音で、こちらが声をかける前に気づいてくださいました。今朝は、その音がなく、目も合わせてくださいませんでした。
「承知いたしました」
わたくしは頭を下げて、引き返しました。
こういうとき押し問答をしても、良いことは一つもございません。門衛の方が、困るだけでございます。止めろと言われた方は止めるのがお仕事です。……誰が言ったのかは、別のところで分かります。
抱えてきた風呂敷包みが、帰り道は重うございました。中身は昨日までの写しと、照合のしるしに使う色の違う紐が三束。帳面部屋の机に広げるつもりで、昨夜のうちに並べ順まで決めておいたものでございます。
わたくしは五番通りへ戻りました。戻って半刻もしないうちに、王宮から使いが参りました。書状ではなく口上でございます。
「大公妃殿下より。……『本日の夕、そなたの工房へ寄る』」
◇
大公妃殿下は本当にいらっしゃいました。
五番通りにあの黒に近い紫の外衣が立ちますと、通りが静まり返りました。白い馬より、よほど静かになります。
「狭いところで」
「構いません」
その方はリタの出した椅子に、当たり前のように座られました。仕事台の上には磨きかけの環と、やすりの粉を受ける革が出したままでございます。片づける暇はございませんでしたし、片づけろともおっしゃいませんでした。
「用件だけ言います。名簿は止まりました」
「……ハウザー様でございますか」
「訴えの形はあの者ではありません。宮廷工房の名で上へ書面が出ました。『外の者が王家の帳面を検分するのは、記録の権威を損なう』と。……理屈としては通る理屈です」
「沙汰は」
「作業の停止。名簿の廃棄。……宝物庫の記録に疑義を挟んだ形を残すな、ということです」
廃棄。
空欄のまま残した、あの「直せる者」の枠ごと、燃やすのです。
「殿下は」
「わたくしは決まりに従います」
大公妃殿下は、いつもの声でおっしゃいました。
「沙汰が出た以上、王宮にある名簿は廃棄します。明日、わたくしの手で」
◇
「ただし」
その方は、続けられました。
「沙汰の文言はこうです。『宝物庫にて作成せる名簿を廃棄すべし』。……宝物庫にて作成せる名簿、です」
「はい」
「そなたが自分の家で自分の紙に取った写しのことは、この文言のどこにも書いてありません。わたくしはそなたが写しを取っていたかどうか確かめておりませんので、知りません」
わたくしは、その方の顔を見ました。
いつもと同じ、感情を入れない顔でございました。
「……知らないままで、よろしいのですね」
「わたくしは訊かれたことに答えるだけです。訊かれていないことは答えようがありません」
奥で写しの束を抱えていたリタが、そうっと棚の陰に隠しました。隠すのが半拍遅うございましたけれど、大公妃殿下は窓の外を見ておられました。
窓の外に見るものなど、何もございません。向かいの壁だけでございます。
あの方は向かいの壁をたいそう熱心にご覧になっておられました。リタの足音が棚の陰から戻ってくるまで、ずっとでございます。
◇
「一つだけ伺います」
わたくしはお茶を差し上げながら申しました。茶葉は祖母の頃からの濃さで、王宮の方にお出しするには濃すぎるのでございますが、薄める手を、この方の前では止めておきました。
「なぜ、そこまでしてくださるのですか。決まりに従う方が、決まりの端を歩いてまで」
大公妃殿下は、茶碗を持ったまま、少し黙っておられました。
「……先日、そなた、ヴァイデの空欄を書きましたね」
「はい」
「あの晩、わたくしは帳面部屋で目録を最初から繰りました。六百十四品。そのうち直せる者の見当がつく品が、いくつあったと思いますか」
「存じません」
「四十一です」
その方は、茶碗を置かれました。
「五百七十三の品が、壊れた日に行き場を失います。……わたくしはこの三十年、宝物庫を守ってきたつもりでおりました。守っていたのは棚と鍵で、中身ではなかった。それが分かった名簿を、明日、わたくしは自分の手で燃やします」
「……はい」
「燃やして、忘れるつもりはありません」
湯気の向こうで、その方の目がこちらを見ました。
「オルストの娘。写しを、失くさぬように」
◇
お帰りの間際に、わたくしは一つ伺いました。
「名簿の五名の方々には、何と申し上げれば」
訪ねて、話を伺って、お名前をいただいた方々でございます。お一人ずつ家を訪ね、作った物の話を一刻も二刻も伺って、最後に名前の字を確かめて書き取りました。名簿が燃えるのなら、あの方々のお名前も一度は燃えるのでございます。
「そのままを言いなさい」
大公妃殿下は、外套の紐を結びながらおっしゃいました。
「王宮の紙は燃える。それだけのことだと。……あの者たちは職人です。紙より長持ちするものをいくつも作ってきた者たちです。紙が一枚燃えたくらいで傷つきはしません」
「はい」
「傷ついたと言ったら、川沿いの老人に伝えなさい。首飾りの爪の浮きは、そなたの目が確かなら、いずれ必ずあの者の手に戻ります。……帳面が何と言おうと、直せる手は一つしかないのですから」
◇
大公妃殿下がお帰りになったあと、リタが棚の陰から出てまいりました。
「……ねえ、あの人、敵? 味方?」
「決まりの側の方です」
「どっちよ、それ」
「決まりが正しいあいだは、いちばん強い味方です」
わたくしは、写しの束を受け取りました。束の端を揃え、紐の色ごとに三つに分け、炉の熱の届かない窓際の棚へ移します。町の職人の家々には図面が残っております。グリューンの箱にも、ヴァイデの娘さんの手元にも。燃やせるのは、王宮の中の紙だけでございます。
それでも、胸の中は晴れませんでした。
名簿は止まり、帳面部屋には入れず、ハウザー様の理屈は通り、わたくしの持ち場はまた炉の前だけに戻りました。
持ち場が炉の前だというのは本当でございます。ですが炉の前しか持ち場がないというのは、負け惜しみでございます。今日のわたくしは、後のほうでございました。
手を動かしていたほうがよい夜でございます。わたくしは磨きかけの環を取り上げて、やすりを当て直しました。目の細かいやすりで、縁を一往復。金の粉が革の上に落ちて、灯りを返しました。
「王女さまの婚礼って、あとどれくらい?」
リタが、写しを仕舞いながら訊きました。
「二月を切りました」
「じゃあ、そろそろ王冠が出てくるんだ。……見たいなあ、あたし」
リタは軽い口で言っただけでございます。
ですが、わたくしは手を止めておりました。
王冠が出てくる。
四十年ぶりに、棚の外へ。……戴冠と婚礼にしか出ない、あの王冠が。
婚礼の前には、必ず品の検めがございます。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】沙汰や証文の文言は、それを書いた人が思っているより、いつも少しだけ狭いものでございます。書いた範囲の外側は、燃やせません。……職人が図面の写しを手元に残すのと、根は同じでございます。
次回、荷物を片づけていたリタが、妙なものに気づきます。……第34話で、一度だけ首をかしげたものでございます。




