第36話:宮廷に住み込んだ二年
その方を教えてくださったのは、グリューンのご老人でございました。
「王宮の下働きに、マーレという婆さんがいる。わしの遠縁だ。もう耳が遠いが、頭ははっきりしとる。……四十年前、厨房におった」
マーレさんは、王宮の裏の長屋にお住まいでした。
王宮の裏手は、表の門とは別の世界でございます。石畳は荒く、洗濯物が軒から軒へ渡してあり、厨房の煙が低く流れております。長屋は壁を一枚ずつ隔てて十戸ほど並び、その一番端の、日当たりの良い戸口に、その方はおられました。
もうお勤めは退いておられます。膝の上に猫を乗せて、日なたに座っておられました。耳が遠いと伺っておりましたので、わたくしは正面に回って膝を折り、顔を見ていただいてから口を開くつもりでおりました。
「ヴィルマさんの、お孫さんかい」
わたくしが名乗る前に、そうおっしゃいました。
「顔が似てるもの。目のあたりが」
「祖母の顔を、覚えておいでですか」
「覚えてるよ。二年も夜食を運べば、顔くらい覚えるさ」
マーレさんは猫の耳の後ろを掻きながら笑われました。
「それにね、あの人、礼の言い方が変わってたから。……盆を置くと、こっちを見ないで『すまんね』って言うの。手は止めない、目も上げない、でも声だけは、ちゃんとこっちに向いてる。器用なんだか不器用なんだか、分からない人だった」
手は止めず、声だけ向ける。
……炉の前の父と、同じでございます。あれはうちの筋の礼の仕方だったのでございます。
◇
「夜食を運んだんだよ、毎晩」
マーレさんは猫を撫でながら話してくださいました。
「西の離れの、いちばん奥の部屋。炉を一つ、あの人のために据えてね。昼間は宝物庫で王冠と向き合って、夜は離れで座を起こす。……戻ってくるのは、いつも真夜中さ」
「二年のあいだ、ずっとでございますか」
「あとの一年はね。はじめの一年は、通いだった。けど、途中から住み込みになった。四十を過ぎた人が、家に帰る半刻も惜しむようになったんだ」
わたくしは、破られた頁のことを思いました。
依頼帳の空白の二年。その中身を、この方は夜食の盆越しに見ておられたのです。
通いから住み込みへ。座替えの仕事で言えば、型を取る段から、本番の座を起こす段へ移った頃でございます。型取りまでは持ち帰れますが、本番の座は王冠から離せません。石を外したまま置いておくわけにはまいりませんので、職人のほうが石の側へ寄るのです。祖母が半刻を惜しんだのは、そういう時期でございました。
「どんなふうに、仕事をしておられましたか」
「怖いくらいだったよ」
マーレさんは笑われました。
「盆を置いても、気づかない。座を起こしては、灯りにかざして、潰す。起こしては、潰す。……ある晩、床に潰した座が九つ転がっててね。あたしが『もったいない』と言ったら、あの人、何て言ったと思う」
「何と」
「『九つ駄目だと分かった。良い晩だ』」
……祖母でございます。
顔も知らない祖母が、その一言で急に近くにまいりました。
「夜食は、何を」
「たいてい、パンと汁だよ。厨房の残りでね。……ああ、でも、一度だけ頼まれ物をした。『茶を、うんと濃くしてくれ』って。淹れて持っていったら、一口飲んで、『まだ薄い』」
マーレさんは思い出し笑いをなさいました。
「あたしの茶が薄いって言われたのは、五十年勤めて、あの人一人だよ」
「祖母の茶の濃さは、うちに伝わっております」
「気の毒にね」
猫が膝の上で伸びをいたしました。マーレさんはそれを撫でつけてから、ふと遠くを見る目になられました。
「仕事の終わりの頃はね、指が割れてたよ。冬の水と、金の粉でね。夜食の盆に、時々、血が一筋ついてた。……あたしが布を置いていくと、次の晩には、盆の上で綺麗に畳んで返してある。使った布をだよ。洗って、乾かして、畳んで」
「……はい」
「借りたものは返す人だった。名前のことは知らないけどさ。あたしの知ってるヴィルマさんは、そういう人だよ」
わたくしは、自分の指先を見ました。冬の水で磨きをかけますと、爪の脇が割れます。金の粉はその割れ目に入って、洗っても数日は落ちません。祖母の手も、あの離れで同じ色をしていたのでございます。
◇
「条件の話は、ご存じでしたか」
わたくしは、伺いました。
「名前を出さない、という」
「詳しくは知らないよ。下働きが知る話じゃない。……ただね」
マーレさんは猫の背中で手を止められました。
「一度だけ、妙なことがあった。仕事が仕舞いに近づいた頃さ。夜食を持っていったら、あの人、珍しく手を止めて、窓の外を見てた。それで、あたしに訊いたんだ。『あんた、この王宮で、名前を呼ばれたことがあるかい』って」
「名前を」
「あたしは、ないと答えた。下働きは『おい』か『そこの』だからね。そうしたら、あの人、笑って言った。『わたしもだ』って」
マーレさんは、そこで少し黙られました。
「それからね、こう言ったんだ。……あれは、独り言だったのかもしれないけど」
「はい」
「『名前は呑んだ。呑んでいないものが、一つだけある』」
わたくしは息を止めました。
「それが何かは」
「訊いたよ。教えてくれなかった。ただ、手の中の座を——作りかけの、金の輪っかをね、灯りにかざして、こう言った。『爪というのは、四十年で疲れる。そのとき、この座はもう一度、職人の手に戻ってくる。……あの人たちは、そこまでは買っていない』」
◇
四十年で疲れる。
わたくしは膝の上で手を握りました。
祖母は、知っていたのです。金の爪の寿命を。自分の起こした座がいつか必ず、もう一度職人の手を必要とする日が来ることを。
名前は消させても、その日までは、誰にも消せないことを。
条件を呑んだのではございません。
四十年後を、買ったのです。
「……ヴィルマさんの仕事は、成ったのかい」
マーレさんが訊いてくださいました。
「王冠は、いまも使われております」
「そうかい。そりゃあ、よかった」
その方は心から嬉しそうに笑われました。
「夜食の甲斐が、あったってもんだ」
膝の上の猫があくびを一つして、マーレさんの手に頭を押しつけました。
「この子はね、三代目だよ。あの頃いたのの、孫の孫くらい。……離れの窓の下で拾ったのの、筋なんだ。ヴィルマさんが、時々パンをやってたやつのね」
祖母の残したものが、また一つ増えました。数え方によっては、でございますけれど。
◇
お暇するとき、マーレさんが思い出したようにおっしゃいました。
「そういえば。あんたと同じことを訊きに来た人が、昔、一人いたよ」
「同じこと、でございますか」
「ヴィルマさんの二年のことをさ。どんなふうに仕事をしていたか、何か言い残していないか。……もう三十年も前の話だけどね」
「どんな方でしたか」
「背の高い、若い貴婦人さ。黒に近い、紫の外衣を着てた」
わたくしは長屋の外へ出て、王宮の高い屋根を見上げました。
三十年前。
引き継ぎの年に、あの方は、決まりを受け取っただけではなかったのです。
誰の名を消し続けるのかを、ご自分の足で調べに来ておられたのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】座の爪は、金属の疲れで緩みます。良い金ほど粘りますが、それでも四十年、五十年が寿命でございます。……つまり職人の仕事には、最初から「次に直す者」の席が空けてあるのです。誰がその席に座るかまでは、彫ってありませんけれど。
次回、ハウザー様が動かれます。手を汚さない方の、動き方でございます。




