第35話:直せる者は、もうおりません
ヴァイデ工房の跡は、いまは酒屋になっておりました。
西の二番通り。良い場所でございます。看板の釘の跡だけが、戸口の上に四つ残っておりました。釘の間隔から見て、横長の板。工房の看板は、たいていそういう形でございます。
「ヴァイデさん? ああ、工房の。……先代なら、亡くなったよ」
酒屋のご主人は、樽を転がしながら教えてくださいました。
「五年前かな。晩年は南の坂の上の、娘さんとこにいてさ。最後はそこで。……工房のほうは、そのあと倅さんの代で畳んで、刻印も組合に売ったって聞いたよ」
「娘さんの、お店は」
「金物屋。鍋とか包丁とか。……ヴァイデの先代が指輪の職人だったなんて、あの辺の人はもう、誰も知らないんじゃないかね」
南の坂は、五番通りから見ると街の反対側でございます。リタとわたくしは、昼を挟んで坂を登り、店先に鍋を吊るした小さな金物屋を見つけました。
戸口に出てこられたのは、もう五十に近い方でございます。旦那さまと二人で、店をやっておられるとのことでした。
「父の、何をお調べですか」
「お作りになった品の、控えを作っております」
「品の、控え」
娘さんは、戸口で少し迷ってから、わたくしたちを中へ入れてくださいました。
◇
「父の物は、これだけです」
出してくださったのは、木箱が一つ。
中に使い込んだ鏨が七本。小さなやすりが三本。それから、油紙に包まれた図面の束がございました。
わたくしは、鏨を一本、手に取らせていただきました。
柄が、右に寄って減っております。左の親指を柄に添える癖の方だったのです。刃先は細物用。髪飾りや細い環の彫りに使う細さでございます。七本とも、刃が研ぎ減って短くなっておりますが、研ぎ面の角度はどれも揃っておりました。最後まで自分で研いでおられた方です。
「触って、分かるんですか」
「道具は、使った方の手の形に減りますので」
「……父の手、ですか。それ」
「はい。左の親指を、ここに」
娘さんは、鏨の柄をじっと見ておられました。
「そういえば、父の左の親指、変なところに、たこがありました。子供の頃、手をつなぐと当たるんです。……あれ、これだったんですね」
図面は、油紙を解くと十数枚ございました。端が湿気で波打っておりますが、線は生きております。わたくしは一枚ずつ拝見いたしました。
指輪。留め金。髪飾り。……そして、五枚目に、それはございました。
腕輪の図でございます。石が三つ。座の脇に、蔓草の彫り。図の隅に、小さな字で『王暦三十五年春、納め』とだけ。
目録にあった品です。『腕輪一、石三、入庫 王暦三十五年春、宮廷工房』。
「これは、お父さまの字でございますか」
「そうです。……腕輪。こんなもの、作っていたんですね」
娘さんは、図面を覗き込んで、少し笑われました。
「父は、王家の仕事をしたなんて、一度も言いませんでした」
「一度も、でございますか」
「ええ。うちは小さい工房でしたから、そんな大きな話、あるはずないと思っていました。……酔うと時々、『わしの仕事は、いいところにある』とだけ言うんです。どこ、と訊くと、笑って答えない。母は、見栄っ張りの癖だと言っていました」
いいところにある。
王宮の地下の、乾いた暗い部屋に。
誰の名も付けられずに。
◇
わたくしは、正直に申し上げることにいたしました。
「腕輪は、王家の宝物庫にございます」
娘さんは、瞬きをなさいました。
「三つの石のうち、中央の一つが、光を返しておりません。……俗に、死んだ石と申します」
「死んだ」
「石は、直せることがございます。ただ、それができるのは、最初にその石を組んだ職人だけなのです」
「では……父が死んだら」
「はい」
わたくしは、頭を下げました。
「あの腕輪の石を直せる方は、この世に、もうおられません」
娘さんは、長いこと黙っておられました。
それから、図面を胸に当てて、おっしゃいました。
「父が生きているうちに、誰かが訪ねてきていたら、直ったんですか」
「……直ったと、思います」
「そう、ですか」
それだけでございました。責める言葉は、一つもございませんでした。責める相手が、どこにもいないからでございます。
帳面に、名前が無かった。ただ、それだけのことなのです。
わたくしは、写しを取らせていただきました。腕輪の図を一枚、線の太さまで写します。座の形、爪の数、蔓草の巻く向き。娘さんはその間、店先で鍋を磨いておられました。時々手を止めて、こちらをご覧になりました。
帰りぎわ、娘さんは、木箱ごと図面を持たせてくださろうとしました。
「うちにあっても、読める者がおりませんから」
「いいえ。お手元に」
わたくしは、お断りいたしました。
「写しは取らせていただきました。ですが、図面の居場所は、作った方の家でございます。……いつか、宝物庫の帳面が、この家を指すようになりますので。指された先に図面があるのが、いちばん良いのです」
娘さんは、分かったような分からないようなお顔で、それでも木箱を、大事そうに抱え直されました。
◇
帳面部屋で、わたくしはそのまま、大公妃殿下に申し上げました。
「ヴァイデ工房、先代。五年前に没。弟子はおりません。……宝物庫の腕輪は、直せる者のいない品になりました」
大公妃殿下は、筆を持ったまま、動かれませんでした。
「名簿には、何と書きますか」
わたくしは、伺いました。
「作った者の欄には、お名前が入ります。ですが、直せる者の欄は」
「……空けておきなさい」
「空欄で、ございますか」
「埋めては、なりません」
その方は、筆を置かれました。
「埋まらないという事実が、そこにあったことを、消してはなりません。……この名簿に空欄が並ぶなら、並んだ数だけ、わたくしどもが遅かったということです」
わたくしは、言われたとおりにいたしました。
直せる者の欄に、何も書かずにおきました。
白いままの枠が、頁の上で妙に大きく見えました。
「オルストの娘」
「はい」
「そなたの祖母君の品は、宝物庫にいくつありますか」
「……存じません。帳面には、宮廷工房としか」
「そうでしたね」
大公妃殿下は、天井まで続く帳面の棚をご覧になりました。
「王冠の座を組んだ手は、四十年前の手です。ご本人は、もうおられない。……もし、あの座に何かあったら、直せる者の欄には、誰の名前が入るのでしょうね」
わたくしは、お答えできませんでした。
できませんでしたが、帰り道、ずっとそのことを考えておりました。
祖母の手は、もうございません。
ですが、祖母の手が起こした座を、わたくしは知っております。母の形見の、あの淡青の指輪の座を、この目で見ております。爪の寝かせ方も、裏の透かし方も。
あれと同じ手順で組まれた座なら。
……いいえ。
考えるのは、やめました。あの王冠は、戴冠と婚礼にしか出てまいりません。座に何かあるなどという話は、どこからも来ていないのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】「直せる者」の欄が空白の品は、壊れていない品と同じ棚に、同じ顔で並んでおります。違いが分かるのは、壊れた日でございます。……壊れた日に分かっても、遅いのですけれど。
次回、住み込みの二年の話。四十年前の祖母を見た方が、もうお一人おられました。




