第34話:リタは、紙が違うと申しました
帳面部屋にリタを連れてまいりました。
王宮の門では、後ろの子供について衛兵の方が二度、書状を読み返されました。リタは前掛けを外し、髪を一つに結い、靴の泥を門の前で落としてまいりました。あの子なりの支度でございます。
大公妃殿下はリタを一目ご覧になって、おっしゃいました。
「子供の来る場所ではありません」
「あたし、帳面を見に来たの。子供の用じゃないよ」
「言葉遣いを直しなさい」
「——帳面を見に参りました」
リタは、そこだけ直しました。大公妃殿下はそれ以上おっしゃいませんでした。あの方は、直した分はちゃんと数えてくださる方のようです。
◇
机に目録を三冊並べました。
帳面部屋には地下の乾いた空気がそのまま流れ込んでまいります。紙には、良い部屋でございます。燭台を二つ机の両端に据え、写し用の紙と筆を、わたくしの側に寄せました。リタの側には何も置きません。要らないと申したからでございます。
わたくしとリタとで、写しを取りながら名簿に移せる手がかりを拾ってまいります。品目、年、寸法。それから行の端に稀に残っている、消し損ないのような小さな字。
手がかりは、思わぬところにございます。
たとえば寸法の書き方でございます。環の内径を「内」と略す年と、「うち」と仮名で書く年がございます。書き手が替わったのです。書き手が替わった年の前後は品の並びも乱れがちで、そういうところに外へ出した仕事が紛れております。
たとえば石の名でございます。淡青石を「淡青玉」と書くのが目録の作法ですが、一箇所だけ「淡青石」と書いた行がございました。職人の言い方でございます。納めた者の書き付けをそのまま写したのだと思います。……その行の品はあとで調べましたら、グリューンの先代の作でございました。
「あんたのそれ、あたしと同じだね」
リタが写しの手を止めずに申しました。
「同じ、とは」
「字ぃ読んでるんじゃなくて、字の癖を読んでる。……あたしが読めなかった頃にやってたのと、同じやり方」
言われて、気づきました。この帳面の前では、読めることはあまり役に立たないのでございます。書いた人の手つきを見ることのほうが、よほど。
リタは、写しを取りません。あの子は、帳面そのものを撫でるのです。
頁の端を指でなぞり、綴じ目に鼻を近づけ、紙を一枚ずつ灯りに透かします。透かすときは燭台を動かさず、自分の体を灯りへ寄せます。蝋を落とさないためでございます。……初めて会った頃、盗んだ石を値踏みしていた手つきとまったく同じでございます。
「ねえ」
半刻ほどして、リタが言いました。
「この頁だけ、紙が違う」
「……どの頁ですか」
「ここから、ここまで」
リタが開いたのは二冊目の中ほどでございました。王暦三十八年の秋から、王暦四十年の終わりまで。
わたくしには、同じ紙に見えました。
「同じに見えますが」
「見た目はね。触ると違う。こっちの紙のほうが、ちょっとだけ厚くて、ちょっとだけつるつるしてる。……それに」
リタは頁を灯りにかざしました。
「透かすと、簀の目の幅が違う。漉いた場所が違う紙だよ、これ」
◇
大公妃殿下が机の向こうから立ってこられました。
「見せなさい」
リタは帳面ごと差し出しました。その方は言われたとおりに紙を透かし、指の腹で表と裏を確かめられました。
「……字は」
「字も違う」
リタはこともなげに申しました。
「読めって言われたら、あたしより、この人のほうが読める」
リタがわたくしを指しましたので、わたくしは前後の頁と見比べました。
手蹟は、よく似ておりました。似せて書いてございます。ですが、並べて見れば分かります。前の頁の字は行の下側が揃い、この頁の字は上側が揃っております。それに墨の色がほんの少し赤みを帯びておりました。
もう一つございました。差し替えの頁は、どの行も同じ速さで書かれております。前の頁には急いだ行と丁寧な行が混じっておりますのに、こちらは三年ぶんが、最初から最後まで同じ呼吸でございます。一日で書いた頁だからでございます。
「差し替えでございます」
わたくしは申し上げました。
「王暦三十八年から四十年まで。三年ぶんの頁があとから綴じ直されております。……もとの頁に何が書いてあったのかは、これでは分かりません」
大公妃殿下は、長いこと、その頁を見ておられました。
「王暦四十年」
やがて低くおっしゃいました。
「王冠の座替えの年です」
「はい」
「わたくしが引き継ぐ、十年前。……前任の大公妃さまの、時代です」
その方は、帳面を静かに閉じられました。
「消すだけでは済まなかったようですね。書き直してある」
「元の頁は、残っているのでしょうか」
「残しません。あの方なら」
即答でございました。
「差し替えた頁を残すのは、差し替えたことを残すのと同じです。あの方はそういう半端をなさいません。……漉き返しに出したか、焼いたか。いずれにせよ、この世にはもう無いでしょう」
わたくしは、差し替えられた三年ぶんの頁をもう一度見ました。
似せて書かれた字が、行儀よく並んでおります。
元の頁に何が書いてあったのか。品目の他に何を消したくて、三年ぶんも作り直したのか。……それを知る手立ては、書いた側からはもう辿れません。
辿れるとすれば、書かれた側。
つまり、仕事をした職人の側の控えでございます。
◇
「妙だと思っていたことが、一つ、あります」
大公妃殿下は棚のほうを向いたまま、おっしゃいました。
「引き継ぎのとき、前任者はわたくしに、決まりを三つ渡されました。作った者の名を記さぬこと。外の者を宝物庫に入れぬこと。そして、オルストの刻印が三代目に渡らぬよう見ておくこと」
「はい」
「三つ目だけ、毛色が違います。前の二つは宝物庫の決まりですが、三つ目は……町の工房の、家の話です。宝物庫の管理者が、なぜそんなものを見張るのか」
わたくしも、それはずっと分かりませんでした。
「訊かなかったのですか、とは、訊いてくれるな」
その方は、先回りしておっしゃいました。
「あの方は、訊ける方ではありませんでした。……わたくしが決まりを曲げないと言われるのなら、あの方は、決まりそのものでした」
◇
その夜、五番通りで、わたくしは祖母の依頼帳を机に並べました。
二十二冊を年の順に、窓際の板の上へ背を揃えて立てます。古いものほど革が黒く、角が丸くなっております。帳面部屋で借りてきた目録の写しを、その手前に開き、年号を指で追いました。
王暦三十八年から四十年。目録で差し替えられていた三年の中に、祖母の帳面の破られた二年が、そっくり収まります。
向こうは差し替え、こちらは破り取り。
同じ三年を、二人の人間が、別々のやり方で消したのです。
「ねえ、これもやるの」
リタが、依頼帳の山から一冊持ち上げました。いちばん最後の一冊でございます。
「それは、祖母が最後に使っていた一冊です。綴じが緩んでおりますから、そっと」
「はいはい。……ん」
リタは、その帳面を横から眺めて、首をかしげました。
「これ、背が厚くない?」
「厚い、とは」
「他のより、綴じのとこがふくらんでる」
「古い帳面は膨らむものです。湿気を吸いますので」
「ふうん」
リタは、それで納得して、帳面を山へ戻しました。
わたくしも、そのときはそれきり忘れてしまいました。
名簿の次のお名前のほうが、気になっていたからでございます。ヴァイデ工房の先代。目録に品が四つ。……ご存命かどうかから調べなければなりません。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】紙の目利きというものがございます。漉き場が違えば簀の目が違い、年が違えば厚みが違う。字を似せることはできても、紙を似せるのは、字よりずっと難しいのです。……帳面を書き直す方は、たいてい字のほうにばかり気を取られます。
次回、名簿の三人目。……間に合えばよいのですが。




