第33話:帳面には、宮廷工房とございます
名簿は五名になりました。
グリューンのご老人。ヴァイデ工房の先代——こちらは、存否をいま調べております。それから、ご老人の口利きで辿れた、留め金職人がお二人と、彫りの職人がお一人。
三日にあげず王宮へ通って、目録と突き合わせてまいります。品目と寸法から手の癖を割り出して、心当たりのある職人を訪ねる。訪ねた先でまた次のお名前を伺う。……地味な仕事でございます。地味な仕事は嫌いではございません。
その朝もいつものつもりで、帳面部屋の扉を開けました。
帳面部屋には先客がおられました。
仕立てのよい濃紺の上着。襟に、金の糸で工房の紋。手袋はしておられませんのに、手が白うございました。
わたくしは、その手を見ておりました。
爪のあいだに何もない手でございます。やすりの粉も、炉の煤も、研磨剤の脂も。指の腹にたこが一つもございません。鏨を握る者なら親指の付け根が硬くなりますし、やすりを使う者なら人差し指の横が平らに磨れます。その方の指は、どこも丸いままでございました。
「……これが、例の娘ですか」
その方は大公妃殿下に向かって、そうおっしゃいました。わたくしに向かってではございません。
「宮廷工房長のハウザーです」
大公妃殿下が短くご紹介くださいました。
工房長。
王都でいちばん大きな工房の、いちばん上の方でございます。
◇
「殿下。単刀直入に伺います。名簿とは、何ですか」
「宝物庫の品を実際に作った者の、控えです」
「実際に作った者」
ハウザー様は、その言葉を、ゆっくりと繰り返されました。
「妙なことをおっしゃる。宝物庫の品を作ったのは、宮廷工房です」
「作っていない品も、あります」
「帳面には、宮廷工房とございます」
その方は、机の上の目録に、白い手を置かれました。
「王暦二十九年の首飾りも、四十七年の指輪も、宮廷工房。帳面がそう申しております。……帳面より確かなものが、この世にありますか」
「帳面を書いたのは人です」
「帳面を疑うのも人です。殿下」
ハウザー様は少しも声を荒らげられません。荒らげる必要がないと思っておられるのです。
「よろしいですか。王家の記録が二百年、揺るがずに来たのは、書き直さなかったからです。今日の都合で昨日の行を直しはじめたら、帳面は帳面でなくなります。ただの、声の大きい者の言い分の綴りになります」
「名簿は、帳面を直すものではありません。別の紙です」
「別の紙が、帳面と違うことを言うのです」
ハウザー様はそこで初めて、少し身を乗り出されました。
「二枚の紙が違うことを言ったとき、人はどちらを信じますか。……古いほうです。人は古い紙を信じる。ならば新しい紙は、古い紙に泥を掛けるためだけにある。違いますか」
大公妃殿下は答えられません。ハウザー様は、それを同意と取られたようでした。
「外の職人の手を借りたことは、昔から、ままあります。それは否定しません。ですが、借りた手は、宮廷工房の手です。うちの窯で焼き、うちの名で納めた。ならば、作ったのは宮廷工房です。……雇い人の名を帳面に載せる商家が、どこにありますか」
雇い人。
わたくしは黙って聞いておりました。
グリューンの先代は宮廷工房に雇われてなどおりません。仕事を受けて自分の炉で焼いて、納めただけでございます。名前のほうだけが、向こうの窯をくぐったことにされたのです。
◇
「そこの娘」
ハウザー様が初めてこちらをご覧になりました。
「王女殿下の指輪を作ったそうですね」
「はい」
「見ました。悪くない座でした」
「恐れ入ります」
褒め言葉ではございません。次に来る言葉の、前置きでございます。
「ですが、あなたのしていることは、職人の仕事ではありません」
その方は、目録の頁を、白い指でとんと叩かれました。
「昔の帳面をほじくり返して、名前を書き換える。それは仕事ではなく、詮索です。……職人なら、炉の前にいなさい。過去は、あなたの持ち場ではない」
「一つ、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「王暦二十九年の首飾りの、右から三つ目の石の爪が、二本浮いております」
ハウザー様の指が止まりました。
「宮廷工房の作でしたら、宮廷工房で直せるはずでございます。座の起こしの癖が、図面に残っておりましょうから」
「……直せます。当然です」
「では、お願いできますか。あの座を起こした手の癖のまま、爪だけ立て直すのは、図面がないと出来ない仕事でございます」
部屋が静かになりました。
ハウザー様はわたくしを見ておられました。値踏みする目つきでございました。石ではなく人を値踏みする目は、どうしてこう似るのでしょう。ボルツ様も、セドリック様のお父上も、同じ目でわたくしを見ておられました。
「……図面くらい、あります」
「ようございました」
わたくしは、頭を下げました。
「では、名簿のその行は、宮廷工房のままで結構でございます。直せる方がいらっしゃるなら、名簿は要りませんので」
◇
ハウザー様がお帰りになったあと、大公妃殿下がぽつりとおっしゃいました。
「意地の悪いことを言いますね、そなた」
「事実を申し上げただけでございます」
「それを意地が悪いと言うのです」
その方は目録を引き寄せられました。
「図面は、出てきませんよ。あの首飾りの図は、宮廷工房にはありません。……あるとすれば、実際に作った者の手元だけです」
「はい」
大公妃殿下は、目録から顔を上げられました。
「知っていて言いましたね」
「東の川沿いで、拝見してまいりました」
大公妃殿下はため息とも息継ぎともつかない息を、一つつかれました。
「……ハウザーは、動きます」
「はい」
「あれは、悪人ではありません。ただ、帳面の側の人間です。帳面が正しくないと、あれの足元が崩れる。……崩れる者は、崩す者より速く動きます」
わたくしはその言葉を持ち帰りました。
◇
帰り道、東の門のところで、後ろから呼び止められました。
ハウザー様でございました。お一人で、供も連れずに。門番の方が、二度ほどこちらを振り返られました。
「娘さん。一つだけ、教えておきましょう」
「はい」
「私は、あなたの腕を疑ってはいません。王女殿下の指輪の座は、うちの若い者には起こせません。それは認めます」
「恐れ入ります」
「その上で言います。……腕の良い者ほど、帳面には勝てません」
その方は、綺麗な手を、外套の前で組まれました。
「四十年、五十年経つと、腕は死にます。残るのは紙だけです。紙に残った名前が、その仕事をした者になる。……あなたの調べている職人たちが、いまどこにいるか、よく見なさい。川沿いで鍋を直し、坂の上で金物を売っている。紙に負けた者の、行き着く先です」
「……お言葉ですが」
わたくしは、頭を下げてから、申し上げました。
「川沿いの方は、五十年前に磨いた石の位置を、いまでも指で示せます。紙は、そこまで覚えておりません」
ハウザー様は何もおっしゃらずに、行っておしまいになりました。外套の裾が門の向こうへ消えるまで、わたくしは頭を上げませんでした。
◇
夜、写しを取りながらリタが訊きました。
「速く動くって、何をしてくるの」
「分かりません」
「分かんないんだ」
リタは、写しの行を指で押さえたまま、こちらを見ました。
「分かりませんが」
わたくしは、筆を置きました。
「あの方の手は、綺麗でした。ああいう手の方が動くときは、手を汚さずに動きます」
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】職人の手は、見れば分かります。やすりの傷、炉の火の痕、研磨剤で荒れた指先。……何もついていない手が「作った」とおっしゃるとき、その方が作ったのは、物ではなくて、帳面のほうでございます。
次回、リタの出番でございます。帳面を、写しではなく「手」で読みます。




