第32話:鍋直しの親方の首飾り
東の川沿いは、朝から鎚の音がしておりました。
鍋を叩く音でございます。指輪を作る音より、ずっと大きくて、ずっと正直な音がいたします。
「ねえ、なんであたしも行くの」
リタが隣で言いました。
「帳面の写しを取っていただきます。わたくしは、お話を伺いますので、手が足りません」
「手間賃は」
「銅貨三枚」
「五枚」
リタは、こちらを見もせずに言います。川沿いの石を蹴りながら、もう答えを知っている顔でした。
「四枚。……朝ごはんを付けます」
「乗った」
あの子との交渉は、いつもこのあたりで手を打ちます。最初から四枚のつもりで三枚と言い、向こうも最初から四枚のつもりで五枚と言う。お互い、分かってやっているのでございます。
「おう」
通りに向かって開いた仕事場の奥で、ご老人が底の抜けた鍋を膝に挟んでおられました。銅の当て板を据えて、縁を木槌で叩き伸ばしていく。指輪の座を締めるのと同じ手順を、十倍の大きさでなさっているのでございます。
ご老人は鍋から顔を上げずに言われました。
「王女さまの指輪の娘か」
「ミレイアと申します」
「知っとる。……そっちのちびは」
「リタ。ちびじゃない」
「ちびだ」
リタが口を尖らせました。背は、出会った頃より少し伸びております。
ご老人は鍋を置いて、こちらへ向き直られました。グリューン工房の親方だった方です。いまは通りの皆さまに、ハンスさんと呼ばれておいでです。
「で、何の用だ。鍋なら三日待ちだ」
「名簿を、作っております」
わたくしはお借りした帳面を、作業台の端に置きました。砥石と鉄の粉のあいだで、革表紙だけが場違いに綺麗でした。
◇
ご老人は帳面を読むあいだ、一言も口をきかれませんでした。
頁をめくる指に、古いやすり傷がございます。鍋の修理では付かない傷です。
「……宮廷工房、宮廷工房、宮廷工房」
やがてご老人は笑われました。声を出さずに、肩だけで笑う笑い方でした。
「たいした工房だ。六百も作って、一つも覚えとらんとはな」
「実際に作った方の名を、調べております。直せる者の名簿にするためです」
「誰の指図だ」
ご老人の指が、帳面の上で止まりました。
「大公妃殿下でございます」
「ほう」
ご老人は眉を上げられました。
「消した側が、いまさら名前が要るときたか」
「はい」
「正直に言うんだな、あんた」
「隠しますと、あとで話が二度手間になりますので」
ご老人は今度は声を出して笑われました。
◇
「そのへんに座れ。……ちび、そこの棚の、上から二番目の箱を取れ」
「ちびじゃないってば」
リタが取ってきたのは木の箱でございました。中に古い図面が入っております。紙は黄ばんで端が波打っておりましたが、折り目は一つもございません。重しを置いて広げる扱いを、五十年受けてきた紙でございます。首飾りの図でした。石が七つ。中央がいちばん大きく、両脇へ小さくなっていく並びです。
わたくしは図面に顔を近づけました。
石の座が七つとも描き分けてございます。中央は八本爪、両脇は六本、端の小さい石は四本。石の大きさに合わせて、爪の数を割ってあるのです。
それだけではございません。首に掛けたときの、鎖の垂れの角度まで、薄い線で描き込んでございました。首飾りは、台の上では終わらない仕事です。人の首に掛かって、初めて仕上がる。……この図を引いた方は、それを知っている方でございます。
「良い図でございますね」
「だろう」
ご老人は自分が褒められたような顔をなさいました。
「三代前の王妃さまの首飾りだ」
それからこともなげに言われました。
わたくしは帳面をめくりました。ございました。『首飾り一、石七、入庫 王暦二十九年冬、宮廷工房』。
「作ったのは、うちの親方だ。グリューンの先代。わしは十五で、石磨きをやらされとった」
「十五、でございますか」
わたくしは、磨きだけで三年という修業をしておりません。
「磨きだけで三年やらされた。爪に触らせてもらえたのは十八からだ。……端の四本爪の、いちばん右。あれの磨きは、わしの仕事だ」
ご老人は図面の隅の小さな石を指されました。
七つのうちの、いちばん端。首に掛ければ、ほとんど誰の目にも留まらない位置でございます。
その一つを、五十年経っても、指で示せるのでございます。
「では、この図面は」
「親方の手だ。納めた品の図は、必ず写しを残す人だった。……直しに戻ってきたとき、図がないと困るからな」
直しに戻ってきたとき。
わたくしはその言葉を胸の中で繰り返しました。作る側は最初から、戻ってくる日のことを考えて作るのです。
「戻って、まいりましたか」
「来るもんか」
ご老人は鼻で笑われました。
「王家の帳面じゃ、作ったのは宮廷工房だ。直しの話があったって、うちには来ん。宮廷工房で直せんかったら、そこで終いだ」
「……この首飾り、いまも宝物庫にございます」
「だろうな」
「石が七つとも、黒く沈んでおりました」
ご老人の顔から、笑いが消えました。
◇
「見たのか」
「先だって、目録の照合で。……わたくしには読めませんので、死んでいるのか、暗いだけなのかは分かりません。ただ、座の爪が二本、浮いておりました」
「浮いとったか」
ご老人の声が、一段低くなりました。
「はい。右から三つ目の石です」
ご老人は長いこと黙っておられました。
それから図面を箱へ戻して、蓋を閉められました。
「親方は、爪を立てるのが誰より丁寧な人だった。五十年で浮くのは、まあ、寿命だ。物のせいじゃない」
「直せる方は」
「親方は三十年前に死んだ。工房はわしが継いで、十二年前に畳んだ。刻印も、四年前に売った。……座の起こし方を覚えとるのは」
ご老人はご自分の手を見られました。
「わしだけだな」
「お名前を、名簿に書かせていただけますか」
「好きにしろ」
わたくしは、筆を取りました。リタが写しの端に空けておいた欄へ、一行目を書き入れます。
それから付け足すように言われました。
「グリューンの名でな。わしの名前だけ書いても、親方の首飾りだということが残らん」
◇
帰りぎわ、仕事場の軒先で、ご老人がふいに言われました。
「あんたの祖母さんとは、二度会うた」
わたくしは立ち止まりました。
「祖母を、ご存じで」
「知っとるというほどじゃない。組合の寄り合いで二度、隣に座っただけだ。無口な人でな。……ただ、一度だけ、妙なことを訊かれた」
「何を、でございますか」
ご老人は、川のほうを見ておられました。
「『あんたの親方は、名の残らん仕事を、どんな顔で納めた』と」
ご老人は鍋を持ち直されました。
「わしは答えられんかった。親方の顔なんぞ、見ちゃおらんかったからな。……あの人は、何であんなことを訊いたんだろうな」
わたくしにも、まだ分かりません。
ただ、それを訊いた頃の祖母が、何の仕事を抱えていたのかだけは、もう知っております。
◇
その夜、リタが帳面を写しながら申しました。
「ねえ。今日の爺さんの名前、書いたじゃん」
「書きました」
「名簿ができたらさ、この人たち、お金もらえるの?」
「……直しの仕事が来れば、手間賃が出ます」
「来なかったら、名前だけ?」
「名前だけです」
リタは筆を置いて、しばらく写しを眺めておりました。写しの一行目は、あの子の字にしては、ずいぶん丁寧に書いてございました。
「名前だけでも、あの爺さん、ちょっと嬉しそうだったけどね」
それから思い出したように付け足しました。
「——で、あたしの手間賃は?」
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】納めた品の図面の写しを残すのは、直しに戻ってくる日のためです。作り手は、売った日ではなく、戻ってくる日のほうを向いて仕事をしております。……戻る先の名前が帳面から消えていると、品は、帰る家を失くします。
次回、名簿の話が、思わぬところへ漏れます。宮廷工房の長という方が、いらっしゃるのだそうです。




