第31話:消した名前が、要るのだそうです
看板を出して、十二日になりました。
二本の線だけの看板です。読める字は一つもございませんのに、お客さまは戸を叩いてくださいます。
「首飾りの環。今度は真ん中」
「真ん中でございますか」
「うちの首飾り、順番に切れていくんだよ。端から」
隣の隣の洗濯屋の奥さまは、もう三度目でございます。わたくしは環を受け取って灯りにかざしました。
切れた環の断面は、引きちぎれたのではなく、すり減って薄くなったところが開いておりました。隣り合う環が擦れ合う場所は決まっておりますので、一つが切れれば、次に切れる場所ももう決まっているのでございます。
わたくしは首飾りを台に伸ばして、指の腹で端から順に厚みを確かめました。真ん中から三つ目と五つ目が、やはり薄うございました。
「これは、環が細すぎるのです。全部を作り直したほうが、安くつきます」
「あんた、商売っ気がないねえ」
「よく言われます」
銅貨四枚で、環を三つ替えることになりました。奥の壁でリタが「五枚」と指を広げましたが、見なかったことにいたしました。
こういう日々でございます。
王女殿下の指輪を作った工房の次の仕事が首飾りの環の三つ替えというのは、可笑しく聞こえるかもしれません。ですがわたくしは、この並びが気に入っております。銅貨の仕事と金貨の仕事は、手にとっては同じ仕事でございますので。
◇
白い馬が二頭、五番通りへ入ってきたのは、その日の昼過ぎでございます。
通りの方々が全員出てこられました。
二度目ですのに、全員です。
「また王女さま?」
リタが屋根から降りてまいりました。あの子は馬の足音で人が分かるようになったと申しますが、本当かどうかは存じません。
「ミレイア・オルスト殿はこちらか」
「わたくしでございます」
「大公妃殿下がお呼びである。明日、午前」
使いの方は書状を置いて帰られました。
前と同じでございます。違うのは、呼び主のお名前だけでした。
「……大公妃って、あの怖い人?」
「怖い方ではございません。決まりを曲げない方です」
「それを怖いって言うんだよ」
リタは、書状を上下逆さまに眺めながら申しました。
◇
夕方、レンフォード様がいらっしゃいました。
週に二度の日ではございませんでしたが、いらっしゃいました。
「話は、聞いた」
「お耳が早うございますね」
「王宮に勤めている。それくらいは入る」
この方は、いつもの椅子に座って、棚の上の布包みを目で確かめられました。お預かりしている、母上の形見の指輪でございます。ここへ置くようになってから、石は一度も曇っておりません。
「大公妃殿下だそうだな」
「はい」
「……心当たりは」
「ございません。名簿につける由来は、もう調べ終わったとおっしゃっておりましたし」
「そうか」
レンフォード様はしばらく黙っておられました。それから湯気の立つ茶碗を持ち上げて、一口飲まれました。
「濃いな」
「濃うございます」
「……ついて行こうか」
「軍のお仕事はよろしいのですか」
「よくはない」
正直な方でございます。わたくしは首を振りました。
「宝物庫は、乾いた良い部屋でございました。石を置くには良い場所です。悪い話をする場所には、向いておりません」
◇
翌日、通されたのは宝物庫ではございませんでした。階段を三十段下りた鉄の扉の手前で、案内の方が右に折れられました。
帳面部屋でございました。壁が全部棚で、棚が全部帳面です。革の背表紙が天井まで並び、古いものほど色が抜けて、上の段の数冊はほとんど灰色に見えました。紙と革と、乾いた埃の匂いがいたします。宝物庫と同じ乾いた空気ですが、こちらには、石の匂いがございません。
大公妃殿下は机の向こうに座っておられました。
「来ましたね」
「参りました」
「座りなさい」
わたくしは、座りました。机の上に革表紙の帳面が三冊、開いて並べてございます。宝物庫の目録でした。
「オルストの娘。そなたに、頼みたい仕事があります」
「指輪でございますか」
「名簿です」
……名簿。
わたくしはその言葉と、開かれた帳面とを順番に見ました。
「宝物庫には、六百と十四の品があります。うち、石のついた品が二百七十一。……そのうちのいくつが死んでいるか、そなたに分かりますか」
「分かりません」
わたくしは、正直に申し上げました。
「わたくしに読めるのは、自分の手で組んだ石だけでございます。宝物庫の品は、一つも読めません」
「知っています」
大公妃殿下はうなずかれました。
「読めなくてよいのです。……死んだ石を作り直せるのは、最初に組んだ者だけ。そなた、そう申しましたね」
「はい」
「では、この帳面を見なさい」
その方は帳面を一冊、こちらへ向けられました。
わたくしは、行を指で追いました。品目。寸法。材質。入庫の年。文字は一行ごとに少しずつ手が変わり、墨の濃さも変わります。何人もの書き手が入れ替わった帳面でございます。ところが、どの行も最後は、同じ四文字で終わっておりました。
宮廷工房。
書き手が変わっても、その四文字だけは判で押したように揃っております。実際、判でございました。指で触れると、紙の裏に、わずかな凹みが残っております。
「この中の品が死んだとき、わたくしは、誰のところへ持っていけばよいのですか」
◇
わたくしはすぐには答えられませんでした。
「……宮廷工房へ、と帳面は申しております」
「宮廷工房は作っておりません。大きな仕事は外に出ます。帳面にだけ、宮廷工房と記される。……そなた、それを知っている数少ない一人です」
「はい」
「作った者の名を、この三十年、わたくしは記さずにきました。決まりですから」
大公妃殿下は感情のない声で続けられました。
「その結果が、これです。二百七十一の石に、直せる者の名が一つもない。責を問う先を消し続けて、気づけば、頼む先も消えておりました」
わたくしは帳面の行を見ておりました。
どの行も同じ判で、同じ四文字で終わっております。
消された名前の数だけ、この四文字がございます。
「名簿を作ります」
その方は言われました。
「帳面の品を、実際に作った者の名簿です。生きている者、亡くなった者、弟子に技を渡した者。……調べられるところまで、調べる。手伝うのは、そなたと、そなたの選ぶ者」
「なぜ、わたくしでございますか」
「そなたが王女殿下の指輪を作ったからです」
前と同じ答えでございました。
「前例のないことをした者には、前例のない仕事が来ます。……それだけのことです」
「表には」
「出しません。いまは、まだ」
大公妃殿下はそこで初めて、少しだけ言葉を切られました。
「これは、王家の指図ではありません。宝物庫を預かる者として、わたくしが要ると思って作る名簿です。……咎めが出るなら、わたくしに出ます」
◇
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何ですか」
「王冠は、その二百七十一に入っておりますか」
その方の目がわずかに動きました。
「入っています」
「では、王冠の石が曇ったときも」
「あれは別です」
即答でございました。
「あれは戴冠と婚礼にしか出しません。次に出るのは、王女殿下の婚礼です。……三月先の話です」
三月先。
わたくしは、頭を下げて、帳面を一冊お借りして帰りました。
帰り道、胸の中で数えておりましたのは品の数ではございません。
この帳面の向こうで消された、名前の数でございました。
お読みいただき、ありがとうございました。
第2部、はじまりでございます。
【今日の石】石のついた品は、仕舞っておくだけでも傷みます。座の爪は金属ですから、乾いた部屋でも少しずつ疲れるのです。……直せる者の名前を控えておくのは、本来、仕舞う側の仕事でございます。
次回、名簿の一人目でございます。東の川沿いの、あのご老人のところへ参ります。




