第30話:五番通りに、看板が出ました
刻印を作るのに、七日かかりました。
鋼を切り出して、形を整えて、彫る。押す面に彫るのですから、彫りは逆向きになります。左右が逆の絵を彫るというのは、思っていたより難しうございました。三度失敗いたしました。
彫ったのは、二本の線でございます。
交差せずに、少しだけ間を空けた、二本の線。
祖母が、石座の裏に入れていたもの。刻印の裏に、押しても写らない面に彫っていたもの。
わたくしは、それを押す面に彫りました。
◇
「それだけ?」
リタが、覗き込みました。
「それだけでございます」
「名前は」
「入れません」
「なんで」
「入れなくても、分かる人には分かりますので」
わたくしは、刻印を布で拭きました。使う前に拭く癖でございます。
「それに、これを押した物が増えていけば、そのうち『あの二本線の工房』と呼ばれるようになります。名前は、あとから付いてまいります」
「めんどくさ」
「めんどくさいのです」
◇
看板は、父が持ってこられました。
木の板に、彫りが入っております。字ではございません。菱形でもございません。
二本の線でございました。
「……お父さま、これは」
「彫った」
「彫れましたか。指が」
「三日かかった」
父は、板を戸口の上に掲げて、寸法を測っておられました。
「線二本なら、彫れる」
わたくしは、その背中を見ておりました。
「あの」
「何だ」
「オルストの名は」
「入れん」
父は、板を打ちつけながら言われました。
「うちの刻印は、うちのものだ。お前のは、お前のものだ。混ぜるな」
「はい」
「……ただし」
父は、そこで手を止められました。
「うちの炉は、いつでも使え」
「お代は」
「取る」
「はい」
「相場でな」
わたくしは、頭を下げました。
板が、戸口の上に付きました。
五番通りに、看板が出ました。
◇
その日、人が何人か来られました。
アネットが、祖母の帳面を一冊持って。「読み終わりましたので、次を」と。
東の川沿いのご老人が、杖をついて。「見に来た」とだけおっしゃって、王女殿下の指輪の図面をご覧になって、「うん」と一度うなずいて帰られました。
洗濯を請け負っている隣の隣の方が、また切れた首飾りを持って。「今度は反対側が切れたよ」と笑っておられました。
リタは、朝から屋根の上に座っておりました。
誰が来るかを、上から見ていたのだそうです。
◇
レンフォード様がいらしたのは、日が傾いてからでした。
戸口の看板を、しばらく見上げておられました。
「……線が、二本」
「はい」
「意味は」
「ございません」
「そうか」
この方は、それだけで納得されました。
中へ入られて、いつもの椅子に座られます。わたくしは、いつもの濃さでお茶を淹れました。
「一つ、申し上げなければならないことがございます」
「何だ」
わたくしは、盆を置きました。
そして、祖母の帳面を、その方の前に開きました。
三十年以上前の頁。
『冬一。娘御。指輪一。淡青、四つ爪。北へ嫁ぐとのこと。半日話を聞いた。石は本人が選んだ。良い目をしている』
『曇ったら持ってきなさいと言った。約束した』
レンフォード様は、その二行を読まれました。
読んで、動かれませんでした。
「……これは」
「祖母の帳面でございます」
「祖母上の」
「はい」
わたくしは、そう申し上げました。
「あなた様の母上が、半日話をなさった職人は、わたくしの祖母でございます」
部屋が、静かになりました。
窓の外で、リタが屋根から降りる音がいたしました。気を利かせたのだと思います。あの子は、そういうところが妙に大人でございます。
「……いつ、分かった」
「ひと月ほど前でございます」
「ひと月」
「はい」
「なぜ、すぐに言わなかった」
わたくしは、少し黙りました。
「……言えませんでした」
「なぜ」
「言えば、あなた様が、わたくしをその方の孫としてご覧になると思いましたので」
レンフォード様は、こちらを見られました。
「そうではないのか」
「そうでございます」
わたくしは、そう申し上げました。
「ですが、あの石を直したのは、わたくしでございます。祖母ではございません」
しばらく、返事はございませんでした。
やがて、この方は、深く息を吐かれました。
「……あなたは」
「はい」
「本当に、面倒な人だな」
「よく言われます」
レンフォード様は、笑われました。
声を出して笑われたのを、わたくしはそのとき初めて見ました。
「約束は、果たされたわけだ」
「はい」
「三十年あまりかかって、母ではなく私が、祖母上ではなくあなたのところへ持ってきた」
「はい」
「……ずいぶん、遠回りをした」
この方は、外套の内から布包みを取り出されました。
いつもの指輪でございます。
淡青の石が、夕方の光を返しております。
「これを、あなたに預けたい」
「……え」
「私が持っていると、また曇る。懐に入れて持ち歩くからだ。あなたがそう言った」
「はい、申し上げました」
「ここに置いてもらえるか」
わたくしは、その指輪を見ておりました。
「……お預かりいたします」
「たまに、見に来る」
「はい」
「週に、二度ほど」
わたくしは、頭を下げました。
顔を上げるのに、少し時間がかかりました。
◇
夜、わたくしは仕事台に座っておりました。
刻印を、灯りの下に置いております。
二本の線。押す面に彫られた、意味のない形。
これを押した物が、これから増えていきます。一つずつ。銅貨の仕事も、銀貨の仕事も。
その全部に、この線が残ります。
……祖母は、四十年間、この線を裏側にだけ入れておりました。
押しても写らない面に。誰にも見えないところに。
約束を守るために、ご自分の帳面を破った方でございます。
その方が、それでも消さなかったのが、この二本線でした。
わたくしは、刻印を布に包みました。
包みながら、一つのことを考えておりました。
王冠でございます。
二百年前の石を、四十年前に、祖母が座替えいたしました。
祖母は、自分が作った座には、必ず裏に線を二本入れる人でした。レンフォード様の母上の指輪にも、入っておりました。
では。
王家の王冠の、中央石の座の裏には。
……何が、入っているのでしょう。
あれは、戴冠のときにしか出されません。宝物庫の、いちばん奥の棚に、鍵をかけて仕舞われております。
外して裏を見た者は、四十年前から、誰もおりません。
わたくしは、灯りを見ておりました。
見に行く方法は、まだ一つも思いつきませんでした。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】職人の印は、たいてい意味のない形をしています。読めないほうが良いのです。……ただ、意味のない形でも、押し続けると意味がついてまいります。「あの二本線の工房」と呼ばれるようになるまでに、あと何年かかるかは分かりませんが。
ミレイアは、まだ何も取り戻しておりません。刻印は自分で作りましたが、それは新しく作ったものであって、奪われたものが返ってきたわけではないのです。祖母の名は、いまも扉から削られたままです。
次回から、第2部でございます。五番通りの工房に、王宮から二度目の呼び出しが参ります。




