第39話:四十年ぶりの、座替えでございます
王冠は、思っていたより小そうございました。宝物庫のいちばん奥、鍵のかかる棚の、そのまた奥の箱。白い布の上に、それは置かれておりました。
朝いちばんに通された宝物庫は、階段を三十段下りた先の、いつもの乾いた匂いでございました。鉄の扉を二つ抜けるあいだ、大公妃殿下は一言もおっしゃいませんでした。入口の灯りを一つ、奥の棚まで自ら持って歩かれたのが、いつもと違う点でございます。
金の環に、意匠の彫り。前の立ち上がりに、中央石。深い赤の、大粒でございます。二百年前の石。
わたくしには、読めません。生きているのか、曇っているのか、死んでいるのか。他人さまの石は、わたくしにはただ美しいだけでございます。
ですが、座は読めます。
「……浮いております」
「どの爪ですか」
「向かって右の二本。それから左の奥が一本。目ではまだ分かりません。ですが光の返りが、そこだけ揺れております」
大公妃殿下は黙って、次の言葉を待っておられました。
「触れても、よろしいでしょうか」
「そのために呼びました」
◇
布越しに、環を持ちました。
軽うございます。良い金です。四十年前に練り直された爪の金が、彫りの際で素直に締まっております。
わたくしは、爪の根元を順に見てまいりました。灯りを石の横に置き、環を少しずつ回して、爪の一本ずつに光を滑らせます。締まった爪は根元から先まで光が一筋に走り、緩んだ爪は根元で一度途切れます。途切れる場所に、目に見えない隙間がございます。
六本のうち、三本が疲れておりました。折れてはおりません。緩んだだけでございます。ですが、このまま婚礼で使えば揺れと熱で開きが進みます。石が落ちるとしたら、いちばん人目の多いところで落ちます。石とは、そういうものでございます。
「揺すって確かめたりは、しないのですね」
大公妃殿下が、おっしゃいました。
「揺すりますと、疲れた爪にいちばん悪い掛かり方をいたします。緩みの検分は目と、光と、それから音でございます」
「音」
「爪の脇を木の先でごく軽く叩きますと、締まった爪と緩んだ爪では返る音が違います。……お聞きになりますか」
「聞きましょう」
わたくしは、道具袋から細い黄楊の棒を出しました。先を丸く削ってあるのは、金に傷をつけないためでございます。環を布の上に戻し、指二本で押さえて、六本を順に叩きました。
こん、こん、こん。三つは、詰まった音。
こ、こ、こ。三つは、わずかに軽い音。
大公妃殿下は目を閉じて聞いておられました。それから、おっしゃいました。
「……三十年、この部屋の帳面をつけてきて、品物の音を聞いたのは初めてです」
「座替えが要ります」
わたくしは、申し上げました。
「爪の継ぎ足しではもちません。四十年前と同じに、座ごと起こし直すのがいちばん確かでございます」
「期限は」
「婚礼まで二月を切っております。石を外して、座を起こして、検めて、嵌め直して……ぎりぎりでございます」
「そうですか」
大公妃殿下は、王冠を見ておられました。
「宮廷工房は、断りました」
◇
断りの場に、わたくしも居合わせました。というより、ハウザー様がわたくしのいる前で断られたのでございます。
宝物庫を出た足で帳面部屋へ通されますと、ハウザー様は先に来ておられました。机の向こうに大公妃殿下、手前にハウザー様、わたくしは壁際に立ったままでございます。仕事の話をする部屋で椅子を勧められないのは、決まりの内側にいない者の扱いでございます。気にはなりませんでした。
「畏れながら、二百年の石を外す責は、宮廷工房では負いかねます」
ハウザー様は綺麗な手を前に揃えて、そうおっしゃいました。
「石に万一のことがあれば、王家の宝を損ねたことになります。うちの窯には、それだけの……」
「先日、直せるとおっしゃいました」
わたくしは、つい申し上げてしまいました。
「首飾りの爪の話のとき。宮廷工房の作なら宮廷工房で直せると。……王冠も、帳面の上では宮廷工房の作でございます」
ハウザー様は、わたくしを見られました。
「爪と座は違います。娘さん」
「はい。違います」
「分かっているなら、口を挟みなさんな」
「分かっているから、申し上げております。四十年前も、宮廷工房は同じ理由で断られたそうでございます。……名を取って責を取らないのでしたら、帳面のあの四文字は何のために書いてあるのでしょう」
部屋が、静まりました。
ハウザー様は何かおっしゃりかけて、おっしゃいませんでした。あの方は答えの無い問いには答えない方でございます。賢いのだと思います。
ただ、お帰りの間際に一言だけ、わたくしの横で立ち止まられました。
「……四十年前も、こうだったのでしょうな」
「はい?」
「宮廷工房が断り、外の誰かが受けた。誰が受けたのか、私は知りません。帳面に無いからです」
その方は、前を向いたままおっしゃいました。
「知らないというのは、楽なものです。断った側は、誰が受けたかを知らずに済む。……あなたの言う『責を取らない』とは、つまり、そういう楽の話です。否定はしません」
それだけ言って、行っておしまいになりました。
あの方なりの何かだったのだと思います。詫びではございません。詫びる方なら、四十年、帳面の側にはおられません。
◇
その日の夕、大公妃殿下が五番通りへいらっしゃいました。
二度目でございますので、通りの皆さまも今度は遠巻きに見るだけでございました。リタは椅子を出す前に、仕事台の上の道具を端へ寄せました。黄楊の棒だけは、拭いて元の袋へ戻してございます。
「上は、外へ出すと決めました」
その方は、座るなりおっしゃいました。
「二月で座替えのできる者を探せ、と。……探すも何も、あることは上も分かっています。王女殿下の指輪の一件は、王宮の誰もが知っておりますから」
「わたくしに参りますか」
「明日、沙汰が出ます」
大公妃殿下はそこで、湯気の立つ茶碗を見つめられました。
「オルストの娘。先に、言っておくことがあります」
「はい」
「沙汰には、条件が付きます」
わたくしは、手を止めました。
「……どのような」
「仕事のあいだ、身元は伏せること。仕上がったのちも、王冠に触れた者の名は外へ出さぬこと。帳面には、これまでどおり宮廷工房と記すこと」
その方は、一息に言われました。言い慣れない言葉を、無理に言い切る言い方でございました。
「四十年前と同じ文言です。わたくしが読み比べました。一字違いません。……上は前例のとおりにしたのです。前例のとおりが、いちばん通りやすいので」
わたくしは茶碗の中の、濃すぎるお茶を見ておりました。
四十年前と同じ依頼。同じ工房の血筋。同じ条件。
違うのは、こちらの手元に四枚の紙があることだけでございます。昨夜、見返しから剥がしたまま、机の隅に重ねてございます。大公妃殿下の目は、そこへは一度も行きませんでした。
祖母は、これを呑みました。
「返事は、明日で構いません」
大公妃殿下は、立ち上がられました。
「ですが、これだけは言っておきます。……わたくしは、そなたの祖母君の名を消した側の家の者です。その家の者として、そなたがどう答えるか、見届ける義理があります」
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】爪は、折れる前に、まず緩みます。緩みのうちに気づけば座は替えられますが、折れてからでは石ごと危のうございます。……人の決めごとも、似たようなものだと聞きます。
次回、返事をいたします。四十年前と同じ問いに、四十年後の答えを。




