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婚約破棄されましたが、その婚約指輪を作ったのはわたくしです 〜石は誓いを覚えておりますので〜  作者: 瑠璃宮あかり


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第22話:アネットが、刻印を返しに来ました

 アネットは、桐の箱を抱えて立っておられました。


 仕事着でした。袖をまくった腕に、細かい傷が何本もついております。やすりの傷です。座を潰した数だけ、ああいう傷がつきます。


「お預かりください」


「……これは」


「工房の刻印です」


 わたくしは、受け取りませんでした。


「わたくしが持つものではございません」


「そうですね」


 アネットは、そう言って、箱を仕事台に置かれました。


「でも、わたしが持っているのは、もっと違うと思ったのです」


          ◇


「お父さまに、申し上げました」


 アネットは、椅子に座られました。


「わたしは、三代目を名乗りません、と」


「……アネット」


「昨日です」


「お父さまは」


「怒られました」


 アネットは、少し笑われました。


「ずいぶん怒られました。今さら何を言う、店はどうする、ヴェルナー家に何と言う、と」


「はい」


「わたし、こう申し上げたのです。『では、わたしが作った物をお客さまに出せますか』と」


 わたくしは、黙っておりました。


「お父さまは、答えられませんでした」


 アネットは、膝の上で手を組まれました。


 白くて細い手には、傷が増えておりました。


「十二個目の座が通ったとき、わたし、嬉しかったのです。ほんとうに。……それで、思ってしまいました。これを『三代目の作』として店に出したら、どうなるのだろうと」


「はい」


「爪は立っています。でも、あれは客に出せる物ではありません。自分で分かるのです。……分かるようになったのが、この二月の収穫だと思います」


「はい」


「分かってしまうと、もう、看板には立てません」


 アネットは、そう言われました。


「三年前のわたしなら、平気で立てました。何も分からなかったから。……いま立ったら、お客さまに嘘をつくことになります」


          ◇


「これから、どうなさいます」


「弟子にしていただきます」


「どなたの」


「お父さまの」


 アネットは、真面目な顔で言われました。


「一から。掃除と、やすりの手入れと、炉の火の番から」


「……お父さまは、何と」


「『いまさら』と」


「はい」


「それから、『三年はかかる』と」


 アネットは、そこで初めて、はっきりと笑われました。


「三年でよろしいのですか、と申し上げました。わたし、十年かかると思っておりましたので」


 わたくしは、その顔を見ておりました。


 この方が、こんなふうに笑うことを、わたくしは知りませんでした。五年、同じ家におりましたのに。


「一つだけ、お願いがございます」


「はい」


「お義姉さまに、教えていただきたいのです」


「……お父さまがいらっしゃいます」


「お父さまは、細かい仕事はもうなさいません。二十年なさっていないと、ご自分でおっしゃいました」


「はい」


「それに」


 アネットは、桐の箱を見ておられました。


「お義姉さまは、教え方をご存じです。木槌の柄の持ち方を、あの一言で分かるように言えるのは、たぶん、そういうことだと思います」


          ◇


 わたくしは、返事をする前に、箱を開けました。


 中に、菱形の刻印。


 五十二年ぶんの朱に染まった金属です。縁が丸くなっております。


 わたくしは、それを取り出しました。


 押す面を見ました。菱形の中に、二本の線。


 それから——裏返しました。


 裏を見たのは、たぶん、生まれて初めてでした。


 押すときには見ない面です。持つときに掌に隠れる面です。


「……」


「お義姉さま?」


 わたくしは、灯りに近づけました。


 裏の面の、端のほう。


 二本の線が、彫ってございました。


 交差せずに、少しだけ間を空けて。


 そして、その下に。


 小さな、四つの文字。


『ヴィルマ』


          ◇


「……アネット」


「はい」


「ルーペを、そこの箱から」


 アネットが、母のルーペを渡してくださいました。


 当てました。


 彫りは、浅うございました。金属に対して、ずいぶん細い刃で入れた彫りです。深く彫れば消えにくくなりますが、この人は浅く入れております。


 ……深く彫らなかったのは、押す面に響かせないためです。


 刻印の裏を深く彫ると、押したときに歪みます。だから浅く入れた。


 仕事の邪魔にならないように、自分の名を入れたのです。


 誰にも見えない場所に。


 押しても写らない面に。


 「そこなら誰にも消されない」——祖母は、わたくしの道具箱の蓋の裏に名前を彫ってくださったときに、そう言って笑いました。


 あのとき、笑ったのです。


 自分でも同じことをしていたから、笑ったのだと、いま分かりました。


「アネット」


「はい」


「これを、見てくださいますか」


 アネットは、ルーペを受け取って、覗き込まれました。


 しばらく、動きませんでした。


「……お名前が」


「はい」


「これは、お祖母さまの」


「ヴィルマ・オルスト。あの工房を建てた人です」


「建てた」


「わたくしも、三日前に知りました」


 アネットは、ルーペを離して、刻印を見ておられました。


「扉の名は、削られました。帳面の頁は、破られました。刻印の表には、何も彫られておりません」


 わたくしは、刻印を布の上に置きました。


「ここだけが、残っております」


「……四十年」


「四十年でございます」


 わたくしは、菱形を見下ろしました。


 この菱形が、五十二年ぶん押されてまいりました。祖父が押し、父が押し、その全部の裏側に、この四文字がずっとございました。


 押すたびに、この人の名前は掌の中にありました。


 誰にも見られないまま。


「お義姉さま」


「はい」


「わたし、この工房のことを、何も知りませんでした」


 アネットは、そう言われました。


「三代目を名乗っていたのに、何も」


「わたくしも、知りませんでした」


「お義姉さまは、三年いらしたでしょう」


「三年おりましたが、裏は見ませんでした」


 わたくしは、刻印を箱に戻しました。


「押す面ばかり、見ておりましたので」


          ◇


 アネットが帰られたあと、わたくしは箱の蓋を閉めませんでした。


 灯りの下で、刻印の裏を見ておりました。


 考えていたのは、一つのことです。


 祖母は、この名前を、誰かに見つけてほしかったのでしょうか。


 ……それとも、見つからないほうがよかったのでしょうか。


 浅く彫った理由は、仕事の邪魔にならないようにするためです。それは分かります。


 ですが、彫らないという選択も、ございました。


 彫らなければ、何も残りません。彫れば、いつか誰かが裏を見ます。


 四十年かかりました。


 四十年かかって、わたくしが、いま、見ております。


 わたくしは、桐の箱を胸に抱えました。


 そして、決めました。


 ——この名前を、表に出します。


 方法は、まだ何も思いつきませんでした。

お読みいただき、ありがとうございました。


【今日の石】刻印の裏を深く彫ると、押したときに歪みます。ですから、名前を入れるなら浅くしなければなりません。……浅い彫りは、消えやすい彫りでもあります。四十年もったのは、たぶん運がよかっただけです。


次章、王家の婚礼指輪の話が、思わぬ形でミレイアのところへ戻ってまいります。


【ブックマーク】と【評価】をいただけますと、次章の炉の薪代になります。第4章では、いよいよ炉を使います。


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