第21話:父が話さなかったこと
父が五番通りへ来たのは、初めてでした。
夕方でした。仕事着のまま、手ぶらで、戸口に立っておりました。
「……狭いな」
「狭うございます」
「炉がない」
「ございません」
「そうか」
父は、そう言って、しばらく立っておりました。
わたくしは、椅子を出しました。今度は、座られました。
◇
「王家の応募は、宮廷の工房が通った」
「そうでございますか」
「順当なところだ。あそこは腕がいい」
「はい」
「うちは出さなかった」
「はい」
父は、膝の上で手を組んでおられました。
「アネットが、二月、座を作っている」
「まあ」
「潰した座が、十一になった」
「……十一」
「昨日、十二個目が通った」
わたくしは、思わず顔を上げました。
「通りましたか」
「爪が四つとも同じ高さで立った。……見せに来おった。手が震えておった」
父は、そこで少しだけ、口元を動かされました。
「わしが、教えた」
「お父さまが」
「木槌の柄は端を持て、と」
わたくしは、何と申し上げてよいか分かりませんでした。
「お前が言ったことだ。あれが、そう言っておった」
◇
しばらく、二人とも黙っておりました。
やがて、父が言われました。
「扉のことを、訊いたな」
わたくしは、息を止めました。
「はい」
「削られた跡だ」
「はい」
「……あれは、母の名だ」
思っていた答えでした。
思っていた答えでしたが、人の口から出ると、違うもののように聞こえました。
「祖母さまの」
「ヴィルマ・オルスト。あの工房を建てたのは、母だ」
父は、床を見ておられました。
「わしの父——お前の祖父は、母の弟子だった。あとから婿に入った。腕は良かったが、母には及ばん。それは本人が一番よく分かっておった」
「……存じませんでした」
「言わんからな」
父は、そう言いました。
「工房の名は、最初『ヴィルマ工房』だった。扉にもそう彫ってあった。菱形の下に、母の名が」
「はい」
「それを削ったのは、わしの父だ」
◇
「五十二年のうち、十二年目のことだ」
父は、そう続けられました。
「宮廷から使いが来た。母に、仕事の話を持ってきた」
わたくしは、帳面のあの行を思い出しました。
『秋二十。宮廷より使い。話は聞いた。受けるかどうかは明日答える』
「何の仕事でございましたか」
「知らん」
「知らない」
「本当に知らん」
父は、顔を上げられました。
「そのとき、わしは二十歳だった。仕事場から出された。母と父と、宮廷の使いの三人で話をした。……話が終わったあと、母は二日、口をきかなかった」
「はい」
「三日目に、父が扉の名を削った。母は止めなかった」
「……」
「工房の名を『オルスト工房』に変えた。母の名は、どこにも出さんことにした。帳面にも、刻印にも、看板にも」
父は、そこで一度、言葉を切られました。
「そして、そのときに一つ、決めごとができた」
「決めごと」
「この工房の刻印は、三代目には継がせん、と」
わたくしは、動けませんでした。
「……なぜ、でございますか」
「知らん」
「お父さま」
「知らんのだ、ミレイア」
父の声が、少し大きくなりました。
「わしは、そう言い渡されただけだ。父から。『これはお前の代までだ。次の代へは渡すな』と。理由は聞いた。答えなかった」
「祖母さまは」
「母も、答えなかった」
父は、また床を見られました。
「一度だけ、母がこう言った。『あれは、あの家との約束だ。破ると、この工房は無くなる』と」
「……あの家」
「それも言わなかった」
◇
窓の外が、暗くなっておりました。
わたくしは、灯りをつけませんでした。つけると、この話が終わってしまうような気がいたしました。
「では」
わたくしは、口を開きました。
「わたくしが刻印を継げないのは、女だからでも、腕が足りないからでもなく」
「そうだ」
「五十二年前の、約束のためでございますか」
「四十年前だ」
「四十年前の」
「そうだ」
父は、うなずかれました。
「わしは、それを守ってきた。守るというより……考えんようにしてきた。理由の分からんものを守るのは、考えんのが一番楽だからな」
わたくしは、その言葉を聞いておりました。
「お前が三年前に仕事場へ入ったとき」
「はい」
「腕がわしを追い越すのは、半年で分かった」
「……」
「その頃から、まずいと思っておった。この子には渡せんのに、この子が全部作るようになる、と」
「はい」
「だから、婚約の話が来たときに、乗った」
父は、そう言いました。
わたくしは、その言葉の意味が分かるまでに、少しかかりました。
「……嫁がせれば」
「工房から出る。刻印の話にならん。ヴェルナー家は工房の名を欲しがっていたが、名は渡しても刻印は渡さんつもりだった」
「はい」
「うまくいくと思っておった」
父は、そこで初めて、こちらを見られました。
「すまん、とは言わん」
「はい」
「言っても、二年は戻らん」
「はい」
わたくしは、うなずきました。
この人が、こういう言い方しかできない人だということは、二十年あまり見てまいりましたので、知っております。
◇
戸口を出るとき、父は一度立ち止まられました。
「ミレイア」
「はい」
「……あの刻印は、押した者のものだ」
「はい」
「わしは、そう教わった。父から」
父は、外を見たまま言われました。
「そう教わったから、そう言った。お前に。……いま考えると、あれは、母の名を消すための言い訳だったのかもしれん」
「……」
「押した者のものなら、作った者の名は要らんことになる。……都合のいい言い方だ」
父は、それだけ言って、出ていかれました。
◇
父が帰られたあと、わたくしは灯りをつけました。
仕事台の上に、祖母の帳面の最後の一冊を出しました。
破られた頁の、綴じ目の切れ端。
四十年前の秋。宮廷からの使い。二日の沈黙。削られた名前。そして、三代目には継がせないという決めごと。
その全部が、この破られた四枚の紙の中に書いてあったのだと思います。
……祖母は、なぜ破ったのでしょう。
あるいは、破ったのは祖母ではないのかもしれません。
わたくしは、切れ端の縁を、指でなぞりました。
丁寧な、破り方でございました。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】工房の名は、たいてい建てた人の名です。……変わっている場合は、たいてい理由があります。理由のほうは、扉には彫られません。
次回、第3章の終わりです。アネットが、刻印を返しに参ります。




