第20話:リタが読めなかったのは、自分の名前だけでした
字を教えることになったのは、麦の穂の彫りが始まってからでした。
彫りは、時間がかかります。細い鏨で、一日に少しずつ。手が疲れると線が乱れますので、半日で切り上げます。
その空いた半日に、リタが「暇」と言って寝転がるものですから、板と炭を渡しました。
「なにこれ」
「字でございます」
「読めないって言ったじゃん」
「教えます」
「いらない」
そう言いながら、この子は炭を持ちました。
◇
覚えが、たいへん早うございました。
三日で、看板の字が拾えるようになりました。七日で、証文の表題が読めるようになりました。
「あんた、教えるの上手いね」
「祖母が上手かったのです」
「おばあさんに教わったの、字」
「いいえ。祖母は、爪の起こし方しか教えてくれませんでした」
「じゃあ上手くないじゃん」
「三回教えて、四回目からは黙って見ておられました。……その黙り方が、上手かったのです」
リタは、板に字を書きながら、ふうんと言いました。
この子は、覚えたい字を自分で決めます。看板の字。値札の字。証文の字。
人の名前は、書きませんでした。
◇
十日ほど経った夕方でした。
リタが、いつもの窓枠に座って、板を膝に載せたまま、動かなくなりました。
「リタ?」
「……ねえ」
「はい」
「ちょっと、聞いていい」
この子が「聞いていい」と言うときは、たいてい聞きにくいことです。
「どうぞ」
リタは、袖の中に手を入れました。
出てきたのは、紙でした。
小さく畳まれて、縁が擦り切れて、折り目のところが茶色くなっております。何度も広げて、畳んだ紙です。
「これ」
リタは、それを仕事台に置きました。
「あたしが捨てられてたときに、一緒にあったやつ」
わたくしは、手を止めました。
「教会の前だったんだって。籠に入って。……その籠の中に、これが入ってた」
「……はい」
「ずっと持ってる」
リタは、紙を見ておりました。
「何が書いてあるか、知らない」
「読んでいただいたことは」
「ない」
「一度も」
「一度も」
リタは、そう言いました。
「教会の人は読んだと思う。あたしが赤ん坊のときに。でも、その人ももういない。……あたしは、誰にも読ませてない」
「なぜでしょう」
「読ませたら、書いてあることになるじゃん」
わたくしは、その言い方を、しばらく考えておりました。
「読まなきゃさ、何が書いてあるか分かんないでしょ。分かんないうちは、なんでもありなの。……『迎えに行く』って書いてあるかもしれないし」
「はい」
「読んだら、決まっちゃう」
リタは、膝を抱えました。
「あたし、字を覚えたら、読めるようになるじゃん。読めるようになったら、読まない理由がなくなるじゃん」
「……はい」
「だから、覚えたくなかったの。ずっと」
わたくしは、紙に触れませんでした。
触らずに、こう申し上げました。
「では、まだ読まなくてよろしいのでは」
リタが、顔を上げました。
「え」
「読める、ということと、読む、ということは別でございます。読めるようになっても、読まないでいられます。……いつでも読める、というのは、いつでも読まないでいられる、ということでもございますので」
リタは、しばらくわたくしを見ておりました。
それから、紙を見ました。
そして、広げました。
◇
わたくしは、覗きませんでした。
窓のほうを向いて、麦の穂の彫りの続きをしておりました。鏨の音が、少しずつ。
後ろで、紙の擦れる音がいたしました。
長いこと、それきり音がしませんでした。
「……ミレイア」
「はい」
「二行だけ」
「はい」
「一行目、読める。二行目が読めない」
「見てもよろしいでしょうか」
「……いい」
わたくしは、振り返りました。
紙には、たしかに二行、書いてございました。
一行目は、大きな字で。
『リタ』
二行目は、小さな字で。
『五月の三日に生まれました。よく飲みます』
わたくしは、それを読み上げました。
リタは、板の上の炭を握ったまま、動きませんでした。
「よく、飲みます」
「はい」
「それだけ?」
「それだけでございます」
リタは、紙を見ました。
もう一度、自分で読もうとしておりました。指で字をなぞって、一つずつ。
「五月の、三日に、生まれました」
「はい」
「……あたし、四月生まれだと思ってた。教会の人がそう言ってたから」
「五月でございますね」
「五月かあ」
リタは、そう言って、鼻をすすりました。
「名前、これで合ってんの」
「合っております。リタ、と書いてございます」
「あたしの名前」
「はい」
「……つけてくれてたんだ」
リタは、紙を畳みました。
畳んで、袖に戻して、それから、袖の上から押さえました。
「よく飲みます、って」
「はい」
「それ、書くことある? 捨てるのに」
「わたくしには、分かりません」
わたくしは、そう申し上げました。
「ただ、書いた方は、その子を拾う人に向けて書いておられます。……よく飲む子ですから、たくさん飲ませてやってください、という意味でしたら、それは、拾う人へのお願いでございますね」
リタは、しばらく黙っておりました。
それから、盛大に舌打ちをしました。
いつもの舌打ちより、少し湿っておりました。
◇
その夜、わたくしは麦の穂の環を仕上げました。
彫りを一周入れ終えて、内側を磨いて、最後に——
わたくしは、環の内側の、いちばん目立たないところに、細い線を二本入れました。
交差させずに、少しだけ間を空けて。
意味のない線でございます。
誰も見ません。嵌めれば指に隠れます。外して裏返さなければ、一生気づかれません。
それでも、入れました。
「なにそれ」
リタが、覗き込みました。
「印でございます」
「なんの」
「……作った者の」
「読めないよ、それ」
「読むものではございませんので」
わたくしは、環を布の上に置きました。
「分かる人だけが、分かればよろしいのです」
リタは、袖の上を押さえたまま、それを見ておりました。
「……ふうん」
そして、こう言いました。
「じゃあさ。それ、あんたの名前ってことでいいの」
わたくしは、返事ができませんでした。
名前でございます、と申し上げるには、その二本の線はあまりに何でもない形をしておりました。
ただ——祖母が同じものを入れていたのだと思うと、なんとなく、それでよいような気もいたしました。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】職人の印は、たいてい意味のない形をしています。読めないほうが良いのです。読める形にすると、真似されますので。
……分かる人だけが分かればいい、というのは、便利なようでいて、少し寂しい仕組みでもございます。
次回、父が扉の削り跡について話します。五十二年前に、この工房で何があったのか。




