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婚約破棄されましたが、その婚約指輪を作ったのはわたくしです 〜石は誓いを覚えておりますので〜  作者: 瑠璃宮あかり


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20/22

第20話:リタが読めなかったのは、自分の名前だけでした

 字を教えることになったのは、麦の穂の彫りが始まってからでした。


 彫りは、時間がかかります。細い鏨で、一日に少しずつ。手が疲れると線が乱れますので、半日で切り上げます。


 その空いた半日に、リタが「暇」と言って寝転がるものですから、板と炭を渡しました。


「なにこれ」


「字でございます」


「読めないって言ったじゃん」


「教えます」


「いらない」


 そう言いながら、この子は炭を持ちました。


          ◇


 覚えが、たいへん早うございました。


 三日で、看板の字が拾えるようになりました。七日で、証文の表題が読めるようになりました。


「あんた、教えるの上手いね」


「祖母が上手かったのです」


「おばあさんに教わったの、字」


「いいえ。祖母は、爪の起こし方しか教えてくれませんでした」


「じゃあ上手くないじゃん」


「三回教えて、四回目からは黙って見ておられました。……その黙り方が、上手かったのです」


 リタは、板に字を書きながら、ふうんと言いました。


 この子は、覚えたい字を自分で決めます。看板の字。値札の字。証文の字。


 人の名前は、書きませんでした。


          ◇


 十日ほど経った夕方でした。


 リタが、いつもの窓枠に座って、板を膝に載せたまま、動かなくなりました。


「リタ?」


「……ねえ」


「はい」


「ちょっと、聞いていい」


 この子が「聞いていい」と言うときは、たいてい聞きにくいことです。


「どうぞ」


 リタは、袖の中に手を入れました。


 出てきたのは、紙でした。


 小さく畳まれて、縁が擦り切れて、折り目のところが茶色くなっております。何度も広げて、畳んだ紙です。


「これ」


 リタは、それを仕事台に置きました。


「あたしが捨てられてたときに、一緒にあったやつ」


 わたくしは、手を止めました。


「教会の前だったんだって。籠に入って。……その籠の中に、これが入ってた」


「……はい」


「ずっと持ってる」


 リタは、紙を見ておりました。


「何が書いてあるか、知らない」


「読んでいただいたことは」


「ない」


「一度も」


「一度も」


 リタは、そう言いました。


「教会の人は読んだと思う。あたしが赤ん坊のときに。でも、その人ももういない。……あたしは、誰にも読ませてない」


「なぜでしょう」


「読ませたら、書いてあることになるじゃん」


 わたくしは、その言い方を、しばらく考えておりました。


「読まなきゃさ、何が書いてあるか分かんないでしょ。分かんないうちは、なんでもありなの。……『迎えに行く』って書いてあるかもしれないし」


「はい」


「読んだら、決まっちゃう」


 リタは、膝を抱えました。


「あたし、字を覚えたら、読めるようになるじゃん。読めるようになったら、読まない理由がなくなるじゃん」


「……はい」


「だから、覚えたくなかったの。ずっと」


 わたくしは、紙に触れませんでした。


 触らずに、こう申し上げました。


「では、まだ読まなくてよろしいのでは」


 リタが、顔を上げました。


「え」


「読める、ということと、読む、ということは別でございます。読めるようになっても、読まないでいられます。……いつでも読める、というのは、いつでも読まないでいられる、ということでもございますので」


 リタは、しばらくわたくしを見ておりました。


 それから、紙を見ました。


 そして、広げました。


          ◇


 わたくしは、覗きませんでした。


 窓のほうを向いて、麦の穂の彫りの続きをしておりました。鏨の音が、少しずつ。


 後ろで、紙の擦れる音がいたしました。


 長いこと、それきり音がしませんでした。


「……ミレイア」


「はい」


「二行だけ」


「はい」


「一行目、読める。二行目が読めない」


「見てもよろしいでしょうか」


「……いい」


 わたくしは、振り返りました。


 紙には、たしかに二行、書いてございました。


 一行目は、大きな字で。


『リタ』


 二行目は、小さな字で。


『五月の三日に生まれました。よく飲みます』


 わたくしは、それを読み上げました。


 リタは、板の上の炭を握ったまま、動きませんでした。


「よく、飲みます」


「はい」


「それだけ?」


「それだけでございます」


 リタは、紙を見ました。


 もう一度、自分で読もうとしておりました。指で字をなぞって、一つずつ。


「五月の、三日に、生まれました」


「はい」


「……あたし、四月生まれだと思ってた。教会の人がそう言ってたから」


「五月でございますね」


「五月かあ」


 リタは、そう言って、鼻をすすりました。


「名前、これで合ってんの」


「合っております。リタ、と書いてございます」


「あたしの名前」


「はい」


「……つけてくれてたんだ」


 リタは、紙を畳みました。


 畳んで、袖に戻して、それから、袖の上から押さえました。


「よく飲みます、って」


「はい」


「それ、書くことある? 捨てるのに」


「わたくしには、分かりません」


 わたくしは、そう申し上げました。


「ただ、書いた方は、その子を拾う人に向けて書いておられます。……よく飲む子ですから、たくさん飲ませてやってください、という意味でしたら、それは、拾う人へのお願いでございますね」


 リタは、しばらく黙っておりました。


 それから、盛大に舌打ちをしました。


 いつもの舌打ちより、少し湿っておりました。


          ◇


 その夜、わたくしは麦の穂の環を仕上げました。


 彫りを一周入れ終えて、内側を磨いて、最後に——


 わたくしは、環の内側の、いちばん目立たないところに、細い線を二本入れました。


 交差させずに、少しだけ間を空けて。


 意味のない線でございます。


 誰も見ません。嵌めれば指に隠れます。外して裏返さなければ、一生気づかれません。


 それでも、入れました。


「なにそれ」


 リタが、覗き込みました。


「印でございます」


「なんの」


「……作った者の」


「読めないよ、それ」


「読むものではございませんので」


 わたくしは、環を布の上に置きました。


「分かる人だけが、分かればよろしいのです」


 リタは、袖の上を押さえたまま、それを見ておりました。


「……ふうん」


 そして、こう言いました。


「じゃあさ。それ、あんたの名前ってことでいいの」


 わたくしは、返事ができませんでした。


 名前でございます、と申し上げるには、その二本の線はあまりに何でもない形をしておりました。


 ただ——祖母が同じものを入れていたのだと思うと、なんとなく、それでよいような気もいたしました。

お読みいただき、ありがとうございました。


【今日の石】職人の印は、たいてい意味のない形をしています。読めないほうが良いのです。読める形にすると、真似されますので。


……分かる人だけが分かればいい、というのは、便利なようでいて、少し寂しい仕組みでもございます。


次回、父が扉の削り跡について話します。五十二年前に、この工房で何があったのか。

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