第17話:依頼帳の、二年ぶんが破られています
アネットが、荷車を引いて五番通りへ来られました。
ドレスではなく、木綿の仕事着でした。裾に泥が跳ねております。荷車には、古い木箱が三つ積んでありました。
「お父さまが、捨てるとおっしゃったので」
「何を、でしょう」
「お祖母さまの帳面です」
わたくしは、荷車を覗き込みました。
木箱の中に、革表紙の帳面が積んでございました。埃をかぶって、背表紙の糸が切れているものもございます。
「捨てる」
「はい。蔵を片づけると。もう古い帳面は要らないから、と」
アネットは、荷車の柄を握ったまま言いました。
「わたし、要ると思ったのです。……理由は、うまく言えないのですけれど」
「ありがとうございます」
わたくしは、木箱を一つ、部屋へ運びました。
アネットが、もう一つを運ばれました。木箱は重うございます。この方が重いものを持つのを、わたくしは初めて見ました。
三つ目を運び終えて、アネットは息を切らしておられました。
「お茶を」
「……いえ」
「濃うございますよ」
「知っています」
アネットは、少し笑われました。
「一度、いただきました。炉の前で」
◇
帳面は、全部で二十二冊ございました。
祖母が帳面をつけ始めた年から、炉の前に立てなくなる年まで。四十年ぶんです。
わたくしは、一冊ずつ開きました。
日付。依頼主。品目。使った石。仕上げた日。受け取った金額。
祖母の字は、大きくて、少し右上がりでした。
『春三、リーヴ夫人、指輪一、藍玉、五つ爪。石が小さいので座を高く。夫人の指が細いため環を薄く。 仕上げ 春十一』
『夏七、パン屋のヨナ、母の形見の環、留め直し。銅貨六。 焦って持ってきた。話を聞くのに半刻』
仕事のことだけではございませんでした。
ときどき、こういう行が挟まっております。
『客が泣いた。石は直った。泣いたのは石のせいではない』
『今日は、爪を四つとも起こし直した。若い頃なら一度で決めた。腹が立つ』
もう一つ、こういう行がございました。
『春九。若い職人が訪ねてきた。座の起こし方を教えろと言う。断った。うちの弟子ではない』
その三行あとに、こうございます。
『考え直した。教えた。半日。あの子は筋がいい』
わたくしは、その二行を、何度か読み返しました。
断って、三行あとに考え直しております。日付は同じ日でございました。
わたくしは、それを読んでおりました。
祖母が炉の前に立てなくなってから、わたくしのそばに座っていた三年。あの椅子に座っていた人が、こういうことを書いていたのだと、初めて知りました。
アネットも、隣で一冊読んでおられました。
「……お祖母さまの字は、癖がありますのね」
「はい」
「読みにくくはないけれど、真似はできません」
「そうですね」
アネットは、頁をめくりながら、小さな声で言われました。
「わたし、この方に会ったことがありません」
「……はい」
「わたしが家に入る、何年も前に亡くなられたから」
「そうでしたね」
「お義姉さまは、三年いらしたのでしょう」
「はい」
「どんな方でした」
わたくしは、少し考えました。
「爪の起こし方を、三回教えて、四回目からは何も言わなくなる方でした」
「厳しい」
「いいえ」
わたくしは、首を振りました。
「四回目からは、こちらが訊けば答えてくださいました。訊かなければ、黙って見ておられました。……訊けるようになるまで待つ、というやり方でしたのだと、いま思います」
アネットは、帳面を見下ろしておられました。
長いこと、そうしておられました。
◇
最後の一冊は、いちばん下の箱にございました。
表紙が、他のものより新しうございます。祖母が最後に使っていた帳面です。
開きました。
日付が、途中で飛び飛びになっております。ひと月に二件、三件。手が動かなくなっていった時期のものです。
字も、少しずつ小さくなっております。
最後のほうの頁に、こうございました。
『もう座は起こせない。ミレイアにやらせる。この子は、爪の高さを揃えるのがうまい。わたしより』
わたくしは、そこで手を止めました。
しばらく、動けませんでした。
……祖母は、わたくしにそんなことを言ったことは、一度もございません。
「お義姉さま?」
「いえ」
わたくしは、その一冊を閉じて、脇へ置きました。
◇
残りを、年の順に並べ直しました。
いちばん古いものから、いちばん新しいものへ。二十二冊。
並べ終えて、背表紙を端から眺めておりますと、一冊だけ、厚みの違うものがございました。
古いほうの一冊です。祖母がまだ働き盛りだった頃の。
抜き出して、開きました。
途中の頁で、指が止まりました。
破られておりました。
綴じ目のところに、紙の切れ端が残っております。三枚か、四枚。
破り方は、丁寧でした。引きちぎったのではなく、綴じ目に沿って、少しずつ。
……扉の刻印を削った跡と、同じ丁寧さでした。
「破れていますね」
「はい」
「湿気で、傷んだのかしら」
「いいえ」
わたくしは、切れ端の縁を指でなぞりました。
「破られております」
◇
破られた頁の、一つ前の頁を読みました。
そこには、こう書いてございました。
『秋二十。宮廷より使い。話は聞いた。受けるかどうかは明日答える』
次の頁が、破られております。
その次の頁は、二年後の日付から始まっておりました。
二年、空いております。
わたくしは、並べた二十二冊を、もう一度端から確かめました。
年は続いております。抜けはございません。ただ、この二年だけが、記録として存在しておりません。
仕事をしていなかったのでしょうか。
……いいえ。
その二年のあいだに納めた指輪を、わたくしは知っております。工房に見本が残っているからです。祖母の作は、爪の起こし方で分かります。
作っていたのに、書いていない。
あるいは、書いたものが、なくなっている。
「アネット」
「はい」
「この頁を破った人は、たぶん、字が読める人です」
「え?」
「どこを破るか、選んでおりますので」
わたくしは、帳面を閉じました。
窓の外が、暗くなっておりました。
アネットは、もう帰らなければならない時刻でした。ですが、しばらく座っておられました。
「お義姉さま」
「はい」
「わたし、明日も来てよろしいでしょうか」
「荷車は、もうございませんが」
「帳面を、読みに」
アネットは、そう言われました。
「読んでも、わたしには何も分からないと思います。石のことも、座のことも。……でも、二十二冊あって、一冊も読んでいない人間が家にいるのは、なんだか、よくない気がして」
わたくしは、うなずきました。
「お茶をご用意しておきます」
「薄めにしてくださいませ」
「善処いたします」
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】職人の帳面には、石のことしか書いていないように見えて、時々こういう行が挟まっています。「客が泣いた。石は直った。泣いたのは石のせいではない」。……四十年ぶんの帳面で、そういう行は十七ありました。
破られた二年ぶんの中身は、第4章で分かります。それまで、宮廷からの使いが何を言いに来たのかは、伏せさせてくださいませ。
次回、レンフォード様がひと月ぶりにいらっしゃいます。北の砦で、あることを確かめてこられました。




