第16話:刻印は戻りました。彫ってあるのは父の名ですが
三番通りへ着いたとき、店はまだ開いておりませんでした。
わたくしは、裏へ回りました。仕事場の勝手口は、いつも掛け金が甘うございます。三年前から直していないからです。
押しますと、開きました。
父は、炉の前におりました。
朝の炉の前に座るのは、この人の習慣です。火を入れる前の、冷えた炉を眺める時間。
「……何の用だ」
「これを」
わたくしは、証文を差し出しました。
父は、受け取って、読みました。
読み終えるまでに、ずいぶん時間がかかりました。文字を追う速さは変わっていないはずですので、何度も読み返されたのだと思います。
「……いつのものだ」
「一昨年の、冬」
「一昨年」
「わたくしが婚約していた年でございます」
父は、証文を持ったまま、動かれませんでした。
「金貨、二十枚と書いてございます」
「……」
「オルスト工房の刻印を、担保に。返済がなければ、譲渡する、と」
「返済は」
「されておりません。組合の帳面では、二年前に譲渡済みになっております」
父の手が、震え始めました。
年のせいではないと、わたくしにも分かりました。
◇
「わしは」
父は、そう言いかけて、止めました。
「わしは、知らん」
「はい」
「知らんぞ、ミレイア」
「はい」
「あれは……婚約の話が決まったときに、ヴェルナー家から人が来て。書類がいくつか要ると。工房と伯爵家で、取り決めをしておくものだと」
「はい」
「わしは、判を押した」
父は、そこで初めてこちらを見ました。
「読まずに、押した」
わたくしは、何も言いませんでした。
言うことは、ございました。読まずに判を押す人が、五十二年ぶんの刻印を預かっていたのです。それは、たいへんなことでございます。
ですが、それを申し上げても、二年前の判は消えません。
「……ヴェルナー様は」
「いま、どうしておられますか」
「昨日から、店に来ておらん」
父は、証文を仕事台に置きました。
「アネットにも、何も言わずに」
◇
その日の午後、組合から使いが参りました。
オルスト工房の刻印は、返還されるとのことでした。
原本が出せなかったこと、大公妃殿下が七件を無効とされたこと、王都中に話が広がったこと。組合としては、これ以上事を大きくしたくないという判断だったのだろうと思います。
返ってきたのは、小さな桐の箱でした。
父が、店の奥で蓋を開けました。
中に、菱形の刻印。
五十二年ぶん、朱に染まった金属です。縁が少し丸くなっております。押し続けると、そうなります。
「……戻ったな」
「はい」
父は、それを取り出して、布で拭かれました。
使う前に拭く癖。祖母のものです。
わたくしは、その手元を見ておりました。
菱形の中に、二本の線。
オルスト工房の印でございます。誰の名前でもございません。この工房で作られた物である、という印です。
「ミレイア」
「はい」
「……お前が、取り戻したのだな」
「証文をお持ちしただけでございます」
「あれは、うちの刻印だ」
「はい」
父は、刻印を箱に戻されました。
そして、蓋を閉めました。
「王家の応募は、明日締切が延びた。七件無効になった分、宝物院が一日延ばした」
「そうですか」
「アネットの見本は、間に合わん」
父は、そう言いました。
「あれには、無理だ。ひと月足らずで、座を七つ潰した」
「存じております」
「……知っていたのか」
「うちに来られました」
父は、また黙りました。
「お前が」
その言葉が出るまでに、ずいぶん時間がかかりました。
「お前が、作るか」
◇
わたくしは、しばらく答えませんでした。
答えを考えていたのではございません。
考えていたのは、この人が今、何を言ったのかということです。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「わたくしが作りましたら、応募の帳面には何と押されますか」
父の手が、桐の箱の上で止まりました。
「……それは」
「オルスト工房、でございますね」
「そうなる」
「作った者の名は」
「帳面には、工房の名しか書く欄がない」
「はい」
わたくしは、うなずきました。
「そういう仕組みでございますね」
父は、こちらを見ておられました。
この人が何かを言おうとして言えないでいるのを、わたくしは初めて見た気がいたしました。
「わたくしは」
わたくしは、頭を下げました。
「わたくしは、作りません」
「ミレイア」
「間に合わせるために作るのでしたら、それはアネットの名で出す物でございます。アネットの名で出す物を、わたくしが作りますと、また同じことになります」
「……」
「同じことをしないために、証文を持ってまいりました」
父は、桐の箱を両手で持っておられました。
「では、うちは出せん」
「はい」
「五十二年で、初めて王家の公募が来た。それを、出せんのか」
「出せません」
わたくしは、勝手口のほうへ歩きました。
扉に手をかけたところで、振り返りました。
「お父さま」
「……何だ」
「扉の刻印の下の、削られた跡は、何でございますか」
父は、答えませんでした。
わたくしは、待ちました。
しばらく待ちましたが、答えは返ってまいりませんでした。
「では、また参ります」
勝手口を出ました。
掛け金は、やはり甘うございました。
裏の路地を歩いておりますと、後ろから足音がいたしました。
「お義姉さま」
アネットでした。仕事着の袖をまくって、手に布を持っておられます。
「あの」
「はい」
「ヴェルナー様のことは、わたし、何も存じませんでした」
「存じております」
「……そう言っていただけると」
アネットは、そこで言葉を切られました。
「いえ。信じていただかなくても、結構です。証がありませんので」
わたくしは、少し驚きました。
この方が、そういう言い方をなさるとは思っておりませんでした。
「アネット」
「はい」
「手を見せてくださいますか」
アネットは、戸惑いながら、両手を出されました。
指の腹に、細かい傷が三つ。親指の付け根が、うっすら硬くなり始めております。
「ひと月足らずで、ここまでになりますか」
「……七つ、潰しましたので」
「そうですか」
わたくしは、その手を見ておりました。
「証は、ございますね」
◇
五番通りへ戻る道で、リタと会いました。
こちらの顔を見て、この子は何も訊きませんでした。ただ、並んで歩きました。
途中で、一度だけ言いました。
「刻印、戻ったんでしょ」
「はい」
「あんたのじゃないんだ」
「はい」
「ふうん」
リタは、石を蹴りました。
「じゃあ、意味なかったの」
「いいえ」
わたくしは、首を振りました。
「グリューン工房のご老人が、昨日、笑っておられました。十二年ぶりに笑ったとおっしゃっていました」
「……そう」
「意味は、そちらにございました」
わたくしは、歩きながら考えておりました。
刻印は戻りました。ですが、彫ってあるのは父の名です。
では、わたくしの名前は、どこにあれば正しいのでしょう。
その答えを、わたくしはまだ持っておりませんでした。
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】刻印は、押し続けると縁が丸くなります。五十二年ぶんの朱が染みた金属は、もう新品には戻りません。……その丸みは、押した人の数だけついたものです。
次回、ミレイアは工房の古い依頼帳を見ます。祖母の代の帳面です。二年ぶんの頁が、破られております。




