第12話:「読めないよ。でもこの判子、押した奴の手が震えてる」
リタが、紙を三枚持ってまいりました。
窓からではなく、戸口から入ってきました。それだけで、何かあったのだと分かりました。
「これ」
仕事台の上に、三枚を並べました。
どれも、同じ大きさの厚紙です。上のほうに大きな字で表題があり、下に署名と、朱い判が押してございます。
「どうなさったのです」
「もらった」
「どなたに」
「……もらった」
リタは、目を逸らしました。
「返しますよ」
「返す。ちゃんと返す。三日で返すって言った」
「どなたに」
「グリューン工房のじいさん」
わたくしは、手を止めました。
「……お会いになったのですか」
「探した」
リタは、椅子に座りました。
「あんた、この前あの太った男に言ってたじゃん。グリューンの人はどこにいるのかって。だから探した。裏の連中に訊けば、たいてい分かるんだよ。畳んだ工房の職人がどこで働いてるかなんて」
「三日、かかりましたね」
「二日と半分」
リタは、少し得意そうにしました。
「東の川沿いで、鍋の修理やってる。工房の名前で呼ばれるのが嫌だから、名前変えてた」
「名前を」
「うん。いまはハンスって名乗ってる。ほんとは違うんだって」
リタは、そこで少し口ごもりました。
「あのじいさん、あたしが『グリューン工房のこと聞きたい』って言ったらさ」
「はい」
「『そんな工房はない』って言ったの」
「……」
「三回言った。ないない、って。……でも帰らないでいたら、四回目に『何が聞きたい』って」
リタは、膝を抱えました。
「あたし、あの言い方、知ってる。裏町にいっぱいいるよ。訊かれたくないんじゃなくて、訊かれたことがなさすぎて、答え方を忘れてるだけの人」
わたくしは、その言葉を聞いておりました。
十二年でございます。
十二年、誰にも訊かれずにいると、人は自分の工房のことを「そんな工房はない」と言うようになるのでしょうか。
わたくしは、紙を見下ろしました。
「これは」
「じいさんが持ってた。組合と交わした証文の写しだって。……あたし読めないから、あんた読んで」
◇
一枚目を、読みました。
「『刻印譲渡証。グリューン工房の刻印一式を、金貨十五枚をもって宝石商組合に譲る。以後、当該刻印の使用について一切の異議を申し立てない』」
「十五枚って、多いの」
「……安うございます」
わたくしは、二枚目を取りました。
「二枚目は、ヴァイデ工房。金貨十二枚。三枚目は、ケラー工房。金貨九枚」
「じいさん、三枚持ってたの。自分のと、あと二人ぶん」
「なぜ、他家の写しを」
「みんなで集まって、何かやろうとしたことがあったんだって。でも途中でやめた」
「なぜ」
「勝てないから」
リタは、そう言いました。
「証文があるからだって。ちゃんと売ったんだから、文句言えないって」
わたくしは、三枚を並べて見ました。
たしかに、証文でございました。文面に不備はございません。署名もあり、判も押されております。
「これ、おかしいでしょ」
リタが、言いました。
「どこがでしょう」
「わかんないの?」
リタは、身を乗り出しました。
「あんた、石は見えるのに紙は見えないんだ」
◇
「あたし、字は読めないよ」
リタは、一枚目を指でなぞりました。
「読めないから、形しか見てない。……でもさ、これとこれ、同じ手だよ」
「同じ、とは」
「書いた奴。ここの線の払い方、三枚とも同じ」
わたくしは、身をかがめて見ました。
署名の部分です。三枚とも、違う名前が書かれております。グリューン、ヴァイデ、ケラー。
……たしかに、最後の線の跳ね方が、似ておりました。
「代筆かもしれません」
「うん。だからそこは、まあいいの。じいさん字書けないって言ってたし」
リタは、それから朱い判のところを指しました。
「見て。ここ」
「判でございますね」
「これ、三枚とも同じ濃さ。同じ角度。同じ強さ」
「……同じですね」
「おかしくない?」
リタは、わたくしを見上げました。
「別々の日に、別々の人が、別々の場所で押したんでしょ。なのに、なんで三枚とも同じ強さなの」
わたくしは、答えられませんでした。
「あたし、裏町で判の押し方だけは見てきたの。借用書とか、質の札とか。人が押す判はね、絶対ばらつくの。緊張してる奴は強く押す。慣れてる奴は軽い。年寄りは端が薄くなる。手が震えるから」
リタは、三枚を重ねて、光にかざしました。
「これ、全部同じ人が、同じ日に、続けて押してる。……三枚めくらいから、ちょっと圧が弱くなってんの。疲れてきてんだよ」
わたくしは、その三枚を受け取りました。
光に透かしました。
紙の裏に、判の圧の跡が残っております。凹みです。
……三枚とも、同じ深さでした。
そして三枚目だけ、右下の角のあたりが、わずかに浅うございました。
「……本当ですね」
「でしょ」
「リタ」
「なに」
「これは、どういうことになりますか」
「わかんないよ、そんなの」
リタは、肩をすくめました。
「あたしは、押し方が同じって言っただけ。何を意味してるかは、字の読める奴が考えることでしょ」
◇
わたくしは、三枚を並べ直しました。
もう一度、文面を読みました。
日付が、書いてございます。グリューンが四年前の春。ヴァイデが三年前の秋。ケラーが二年前の冬。
三年に、またがっております。
三年にまたがった三枚の証文が、同じ日に押されている。
……つまり、判は後から押されたのです。
合意はあったのかもしれません。金貨も渡されたのかもしれません。ですが、この証文そのものは、あとから作られております。おそらく、必要になったときに、まとめて。
「リタ」
「なに」
「これは、大変なものです」
「そう?」
「はい」
わたくしは、三枚を布に包みました。
「ただ、これだけでは足りません。三枚では、たまたまだと言われます」
「あと十一枚あるってこと?」
「……ボルツ様は、十四とおっしゃいました」
リタは、にやりとしました。
その顔で、舌打ちを一つしました。石を覗き込むときの、あの癖です。
「じゃあ、探すの、あと十一人」
「わたくしが参ります」
「無理。あんた、裏の人間に口きいてもらえないもん」
リタは立ち上がりました。
「あたしがやる。——で、いくら?」
わたくしは、壺を見ました。
銅貨が、百と十枚ほど入っております。
「全部でいかがでしょう」
「全部?」
「はい」
リタは、しばらくわたくしを見ておりました。
それから、笑いました。この子が声を出して笑ったのを、わたくしはそのとき初めて聞きました。
「……あんた、値のつけ方が下手すぎ」
お読みいただき、ありがとうございました。
【今日の石】判子は、押した人の状態を残します。緊張、慣れ、疲れ、年齢。読める人は文字を見て、読めない人は圧を見る。……どちらがよく見えているかは、場合によります。
次回、オルスト工房では意匠図の締切が近づいております。そして誰かが、アネットに「作ってみせて」と言います。




