第5輪 泣面(なきっつら)パンジー
長旅の疲れがやや残ったパンジーのからだは、マーケットから地続きになった上り坂を歩くだけで、大きな蒸れた息を何度も吐かせた。
彼女の口は、ドアバー的な機構がないため、全開放した口腔からの息継ぎは熱放散をより効率的にする。
だが、代わりに頭の中が真っ白になってしまう。
「あうっ!」
と、時に石畳のわずかな隙間に足を引っかけて、すっ転び。
「きゃああ!」
と、時に路地から飛び出してきた子どもを避けた拍子に、生垣へ激突し。
「痛いですわ!」
と、時に足元の小さな放水装置に、脛を強打する。
単に前方不注意のせいだ。
呆れ果てたイライは、棒パンでパンジーを釣り上げ、背に乗せると勾配をさっさと上った。
坂の地面からせり上がってくるように、ようやく目的地とおぼしき巨大な教会めいた建物が見えてきた。
イライの脚は、パンジーのまずまずの達成感をかき消そうと、ひと息に建物まで迫る。
工場連盟本部の正面扉は、パンジー1人では開くことのできないだろう身長の2倍以上の大きさと重々しさをして、固く閉ざされている。
どうすれば……と思っていると、正面扉の右下にれっきとした出入口を発見する。
パンジーはそこから恐る恐る、中へと入った。
「おじゃましますわ……」
パンジーの澄んだ声音は、周囲によく通って聞こえる性質をしているが、建物の中においては、スポンジに吸われた水のようにあっけなく消えてしまった。
工場連盟本部とは、あまりにも大きな存在だった。
パンジーの視界は一瞬のうちに、大気へと溶け出したのかと錯覚する早さで、パンッ! と広がる。
太陽光めく明るさに包まれた華やかなエントランス。
訪問者受付のカウンター周りでは、ダンスパーティーでもないのに厳粛なドレスコードで着飾った、美しい男女がたたずんでいる。
パンジーは、吹き抜けとなった天井を見上げる。
すると、建物の2階部分ですら、パンジーが住んでいたお屋敷の屋根くらいの高さに位置しているのだ。
もはや神のための建築のよう。
その、天井に――建物を神々しく照らす光の「正体」が、じっと浮かんでいる姿を見つけた。
「これ、あの日のパーティーで見たものと、ソックリ……」
口にした途端、胸の奥底から何かこみ上げてきたパンジーは、反射的に口を塞いでしまう。
――そう。
あの、最も美しい記憶。
5歳の誕生日パーティー。
夜の暗いはずのお屋敷に、焼きつくような、文明の燦たる光をくれたあのシャンデリア。
間違いない。
間違いようがない!
「おはようございますっ! ご用件をおうかがいします」
「はう! あっ。ごきげんよう。えっと、私……」
不意打ちの声かけ。
2階の神聖な照明にあてられ惚けていたパンジーは、当然のこととして狼狽する。
パンジーの前には、いつの間にか、先進的なレディーススーツに身を包んだ、工場連盟の職員が現れていた。
女性は明るい短い茶髪をして、荷役犬みたいに穏やかな表情を浮かべる。
「その、お仕事がしたくて。こちらで紹介をしていただけるのかしら?」
「ええっ! お仕事、って、工場ですか? ホントに? ご視察ではなくって?」
「えへへ。そうですわ。皆さん、おんなじ反応をなさるのね」
パンジーは不思議だなと感じて、女性に作り笑いを返す。
今や、土や草の汚れを、金髪とドレスにまぶした野生個体のパンジーだが、庶民からみれば、高貴な育ちだろう令嬢には変わりない。
職員の女性は、化粧した上にうっすら汗をかいて、一拍を置き、パンジーを観察した。
「……な、るほど。かしこまりました。では、本日中に面接の手配をさせていただきます!」
「メンセツ、って、何かしら……?」
教養はあるかもしれないパンジーだが、さすがに耳なじみのない言葉を理解することはできない。
職員の女性もこれを察して、パンジーを別の場所に案内する。
その間にパンジーは、愛称の押し売りという名の自己紹介を済ませる。
やはり、「パンジー」の意味するところはこの職員にも伝わらなかった。
エントランス脇の掲示板。
2人の目の前には、壁の地肌がわずかしか見えなくなるほど、スペースにくまなく求人票らしき紙が貼り付けられている。
「ここに掲示している紙が、いまファクトリアで稼働している工場の職人募集です」
「すごい! こんなにたくさん、あるんですのね。こんなに。迷ってしまいますわ……」
「ですよねっ? そこで、私たち工場連盟が、職人希望者さんの適性だったり、労働条件のご要望だったりする情報をお預かりして、それにかなった幾つかの工場の方と、お話しする場をご用意します。それが面接です」
「そういうことですのね!」
「ちなみに、パンジーさまの得意なことは何ですか? お針やお料理、楽器のご経験などあれば、比較的多くの工場で働けますから、ご要望に添う仕事を見つけやすいかと思います」
職員の女性がていねいにリードしてくれる。
パンジーは顎下に指をあてがい、考えてみる。
「お針は、手を縫ってしまうからダメで。お料理は、できるけれどお皿に垂れてしまうからダメで。楽器も、やった覚えがないわ」
「垂れる……? えっと、他には。経理とかいかがでしょう?」
「経理……計算も、トドレスに叱られてばかりだったから、ダメ……商家の娘ですのに……。思えば、力仕事もダメ、土いじりもダメ、お茶を淹れるのもダメ、お掃除もニガテ、火の番も……ああっ、ダメダメダメ。私、なんにもできない、ダメ尽くし、役立たずですわぁっ!」
「パンジーさま、落ち着いて! ダメばっかり見ちゃダメですよ! あなたはできる! できるできる!」
力業でパンジーを元気づけようとしてくれる職員の女性。
献身が身にしみる……。
パンジーも、折れそうになったやる気をどうにか立て直して、求人の掲示板に向き直った。
「お仕事は、向いていることをやればいいだけじゃなくって、自分がやりたいことを見つけるためのものだとも思うんです。だから、そんなに後ろ向きに考えなくって、大丈夫ですよっ」
「ええ。ありがとうございます……」
「とりあえず、今回の面接は、パンジーさまのご興味や適性を見つけるという目的で、職種や条件を決めずに受けてみましょうか。本日は他に3名、希望者がいますから、その方々のごようすを参考になさってください」
行き届いた、どころではない。
パンジーのいたらない振る舞いの欠点を補うほどの対応を、女性の職員は約束してくれた。
ただし、「面接開始は2時間後、10分前までにはまた本部へお越しください」とのしち面倒な条件付きで。
それも、パンジーにとっては中央広場の露天商からすでに聞いて、知っていることだったから、素直に飲み込むことができた。
本部を去る前、女性には深々とおじぎを返した。
「さあて! 2時間後、ですって、イライ。広場、行っちゃいましょうか?」
気分爽快という表情で、暫定無職のパンジーがイライに訊ねる。
就職の見込みが立っただけで調子に乗りすぎだ、とちょっかいで諫めることもできたが、イライは静かに鼻先を引っ込める。
パンジーたちは疲れを一時でも忘れようと、楽しげな足取りで上ってきた坂を引き返した。




