第2輪 家出(いえで)パンジー
翌朝。
心がムズムズしたまま無理やりに眠ったためだろう、パンジーは身支度の間もずっとあくびをくり返していた。
トドレスに戸を叩かれ、口元のヨダレをぬぐってダイニングに向かう。
「パンジー。今日は、交渉をしに港町のほうに行ってくる。陽が落ちるまでには帰ると思う。くれぐれも、外には出ないようにね?」
朝食をとりながら父親は言って聞かせる。
昨晩、パンジーの耳に入ってきた沈痛な情感などまったく感じさせない、平静なもので、あいかわらず彼女を幼い子どもと見なした声音だ。
パンジーはそれに「わかりましたわ」と、手短に答えた。
(外、と言っても、おうちの中だってろくに出歩けないのに)
心中、考えたものごとは、これまでの暮らしの中で身についた「諦観」だった。
ところが、今日の日は、いつもと違っていた。
トドレスが具合を悪くし、日が高いうちにお屋敷の離れの住まいに帰ってしまった。
つまり、父親と、それに同行すると言って出かけた母親がいちど玄関の鍵を閉めてしまえば、他にパンジーを監視する者は誰1人いなくなるのだ。
「ううー……もう、我慢できませんわ!」
パンジーは私室から飛び出した!
子どもにありがちな全能感がそうさせるのではない。
目的は、昨夜の一幕がどういうものだったのか、真相を知ることだ。
そのために、日頃は立ち入ってはならないと口うるさく言われている父親の私室へ、突撃する!
「あっ、わわ……お父さまのお部屋、入ってしまいますわ。出るときは証拠を消してっと……」
物騒なもの言いにそぐわない、抜き足差し足で進んでいくパンジー。
室内履きのパンプスが、接地するたびポンポン音を立てる。
屋外の日光だけが照らした室内は、風景画のごとく時が止まってみえる。
「お父さまが『断りの報せ』といっていたもの。手紙かしら……それを見つければ、何かわかるかも?」
もはや、折檻だとか良心の呵責だとかよりも、ムズムズした気持ちを晴らすことに執心するパンジーに容赦はない。
目についた引き出し、隙間、物陰へ、手を突っ込む突っ込む!
だが、手がかりが見つからない……。
紙切れの一つとして。
室内は、清掃が行き届いていたのだ。
「ダメですわ……。うーん、『断りの報せ』に、『余裕がない』って。お父さまのお仕事は、順調だと思っていたのだけど。どういうことかしら……」
パンジーは頭をひねる。
あまりの悩ましさに上体をも、右方向にひねってしまう。
そのひねって、正面に相対した壁には、ある1枚の羊皮紙がピンで留められている。
内容を確かめるまでもなく、パンジーはとっさに目にした文言によって、その紙を手にうばい取った。
「しゃく、ようしょ――借用書、ですの!?」
驚きがそのまま大きな声として発せられる。
借用書とは、借主が、貸主から金銭を借りること、その金銭について返済の義務があることを記した書類。
つまり、借金の証明書なのだ。
「お父さまの名前で、領主さまから借金を……そんな、まさか。いつの間にそんなことに……」
それは、パンジーにとってまさしく晴天の霹靂――では、なかったのだ。
信じたくはない。
だが、これで説明がついてしまう。
5歳の誕生日に催してくれたパーティーのような贅沢ができなくなったこと。
パンジーを教育で縛りつけたこと。
年を追うごとに使用人が1人、また1人と辞めていき……今や、最古参のトドレスしか残っていないことも、全部。
借金の理由を考える余裕も、また知識もなかったパンジーは、酷な現実の光の前にただ萎れることしかできず、重い足取りで私室へと戻った。
たった今、父親は返済のために身を粉にして働いているのだろうと考える。
その父親のために自分ができることは……、
「でも。私ができることなんて、何もっ」
私室の窓を開け放つ。
身を投じる気なんてない。
――が、そうするべきか、と不安が耳打ちしてくる。
ドクン、ドクン。
つらい胸の動悸が、これからずっと続くこともまた、イヤだと思った。
金色の前髪を、しょげる花と垂れさせるパンジーの鼻っ柱めがけ、強い一陣の風が吹く。
そのとき、白色が。
下から舞い上がった。
パンジーが目で追うと、少し先の空に一つの紙飛行機の姿が。
「何かしら――」
言うが早いか、パンジーは痩せた手をそのほうへと伸ばした。
動悸のために気が動転でもしたのか。
ともかく、あと少し、あと少しっ、と手を振ったところで、ついに紙飛行機を掴まえた。
物は、農村の子どもが遊びで作ったものだろう。
片翼の端に土汚れがついている。
けれど、見れば紙飛行機の裏に、何か文字や意匠がえがかれているのだ。
当然のこととしてパンジーは紙飛行機を展開し、中身を確認してみる。
その大半は意匠と呼べばよいか、余白を埋めるための落書きだった。
しかし確かに、でかでかと文字が書かれていた。
文章を意訳すると、次のとおり。
――
『工場大都ファクトリアであなたの夢をかなえよう! 豊かな工場ライフ』
『誰でもできる簡単作業! ありえん高収入! 住居、制服完備! お気軽にお越しください』
――
「ファクトリア。工場。高収入……」
まったく、(元)豪商の1人娘にはふさわしくない求人広告だった。
仕事内容、給与の目安といった必要最低限のことも記載されていない。
本当にちゃちな作り。
いかなる意図をもった広告か知れないが、都合のいい言葉ばかり並べ立てて……誰がだまされるものか。
このような、児戯にも劣る広告に、だまされる者などいない。
――いたとしても、その人物は、世間の常識にうとく、労働と社会経済の関わりを知らない情報弱者だけだ!
「そうですわ……私だってもう大人、お父さまたちのために働けばいいのですわ!」
パンジーは広告をすっかり信じ込んでいた。
やはり、四六時中開いた口から、知性が漏れ出てしまったのだろう。
嘆かわしいことに。
情報弱者、もといパンジーは、とある算段を立てる。
それはもちろんこのお屋敷を出て、工場大都ファクトリアへ行くための算段だ。
◆
夕食の時間となる。
パンジーと今朝に交わした約束のとおり、日没前に帰ってきた父親たちもダイニングに集まった。
料理番のトドレスが不在の中、魚の缶詰とパンにスープという、質素極まりない食事が並ぶ。
そして、疲労のためか父親は、明らかな侵入の形跡があったとおぼしき私室の件について、パンジーに訊ねたりすることもしなかった。
それで調子づいたパンジーは夜中、寝間着から、よそ行きの豪奢なドレスに着替えるとすぐに2階の窓から飛び出し――、
今は、お屋敷の壁に張りついていた。
行動するにしても、大胆がすぎるだろう。
「んんー! よし! それで、あの木から下りればっ」
飼い主に摘ままれた猫のようにひきつった声を上げながら、ドレスのパンジーは意外にもスルスルと、壁沿いの細い足場を器用に歩いていって、たった数分で目的の大樹までたどり着いた。
大樹は、高さ10メートル以上、樹冠がお屋敷の屋根をも超える大きさ。
幹は太く、無数の縦に裂けた部分は、パンジーが足を引っかけるには持ってこいの形状をしている。
「それっ!」
金色の、腰まで届く髪を振り乱し、おてんば娘はひといきに大樹へ飛び移った。
それっ、どころではない!
命をかけた脱出なのだ。
口が開いたままのパンジーは、終始マヌケな顔をしている。
それだけに、ことの重大さは薄れてしまう……。
先のように、幹の裂け目へ足をかけ、またもやスルスルと地面まで下りて行った。
パンジーの姿は、傍目に盗人か、そうでなければ婚姻色をした新種の昆虫としか見えなかった。
パンジーはお屋敷の裏手から、正門まで小走りする。
空に満点の星がまたたいても、夜闇にぬかるんだ地面ははっきりとは視認できない。
パンジーはドレスの裾を大げさにまくり上げ、さらに足を広げて進んでいく。
お屋敷と外とをへだてる正門までもう少し!
「あら! そういえば。ファクトリアで働くには、どこに向かえばよかったかしら……」
その答えはファクトリアだ、としか言えない、愚かな疑問を口にするパンジー。
彼女は、今朝に手にした求人広告の用紙を取り出す。
用紙の下部に載った、大陸地図の形を呈したイラストをじっと確認している。
実は、目的地への方角を見たかっただけなのだ。
「……とりあえず北へ、向かえばいいのね。でも、やっぱり歩いていくには少し遠いかしら?」
パンジーはそう言うと、卒然、正門から離れるようにふらふらと歩き出す。
視線の先に、一つの小屋がある。
彼女の背丈よりずっと大きい、木と藁の造りをしたそれは、家畜小屋といういでたち。
戸を開いて暗がりをみると――どうして、中にいた動物たちは一斉に目を覚ましていた。
夜更けにもかかわらず。パンジーの気配を察知して、興奮したのだろうか。
折りたたんだ、天使の羽のような耳。
黒光りする両の目。
突き出た毛まみれのマズル。
全身が白色、首から下は茶色の体毛に覆われる。
それは「荷役犬」という、名の通り荷物や人を運ぶための大型犬だ。
小屋にいる4頭すべてが、パンジーの倍以上の体躯をもっている。
そのうち、最もからだの小さな1頭が、小屋の柵越しに彼女のもとへ近づいてくる。
「イライ?」
パンジーが声をかけると、そのイライという荷役犬は、ソワソワと落ち着きなく歩き回った。
そして頭と鼻先を、柵の施錠された開き戸に何度もこすりつける。
「勝手なことを言うけれど……私に、力を貸してほしいの」
パンジーは申し出を、言葉の通じないイライに投げかける。
自重もない手つきで、檻の出入口を開いた。
すべてパンジーの独断専行だ。
それでもイライは、自信満々とした顔で彼女のそばに近寄り、了承するように頬ずりした。
◆
雲が流れ、月光が地にちらちらと降りるたび、夜闇の原っぱは白銀に発光する。
その上を、また同様に銀狼のごとくなったイライが悠然と走る。
鞍越しにまたがったパンジーの髪が風にたなびく。
少女の、犬を駆る影は、風のごとくなる。
やがて正門が目前にせまる。
だが、門扉は硬い一枚板のようになっている。
パンジーは目を見開いた。
「いけない! 門が閉まって――」
パンジーの気づきと後悔を、一笑に付すように、イライが助走なしに高くへと飛び上がる。
びゅんッ!
巨大な体躯は、ぴっちり閉ざされた正門の、天枠を、そのさらに上をも軽々《かるがる》と越えてしまった。
「すごい、すごいですわ! イライ、このままどこまでも走ってちょうだいっ!」
子どものようにはしゃぐパンジー。
実際、まだ17歳の子どもではある。
それでも、胸の内に確固として抱いた決意は、大人にも負けないものだ。
(たくさん働いて、お金をかせいできます。お父さまとお母さま、トドレス、待っていて!)
そのとき、パンジーの後ろで、いずれかの荷役犬が一つの遠吠えをした。
月明かりの静寂の中――。
遠吠えは、おごそかに響き渡って、まるでパンジーの「戦い」の始まりを告げるみたいだった。




