第23輪 腰水(こしみず)パンジー
「お嬢さん。『ソークボウル』は、はじめてかね? こいつは身を清めるだけじゃない、神聖な水でね。沐浴着といって、相応な正装がいるんだよ。こっちへおいで」
そういって、パンジーに声をかけてきた男性は、商人のようだ。
沐浴着と言って見せられたものは、子どもが着るようなちゃちな作りのドレスやドロワーズに近い形のパンツ、果ては布切れを紐でつなげただけの珍妙な衣装だった。
「まあ。な、なんだか裸より恥ずかしい衣装ですわ……ええっ、値段も、こんなにするんですの!」
つい、口をついて本音が出てしまう。
沐浴着とやらに掲げられた値札の表示は、どれをもっても衣服の相場からかけ離れたものなのだ。
それこそ、小型の家具や調度品が買えてしまうほどの。
「これこれ。お嬢ちゃん! うちとの取引の途中でしょ。戻っておいで!」
頭がぽーのパンジーもさすがにおかしいと感じた、そのとき、後ろから威勢ある声と手に引っ張られる。
振り向くが、手を引いてくるのは知らない中年女性だった。
怖くなり、しかしひっしな勢いに気圧されてしまい、何も言えないままパンジーは露店を立ち去る。
乱入した中年女性に連れられ、やって来たのはまた別の露店。
どういうことだろう?
すると、同様な珍妙の商品に、それから半額より安い値段をつけられたものを提示される。
「あれは町の外から来た便乗屋だよ。観光客向けに、しょうもない商売してるんだ。関わっちゃあいけないよ」
「そうなんですのっ?」
「まあ、沐浴着が要るってのは本当だけどね。うちやよその、市民がやってる店なら安く売るし、もっと安く貸し出しもしてる。そういう店を探すといいよ」
女性の説明が正しいとすれば、パンジーの危機を救ってくれたのだ。
正しいとすれば。
しかし、では礼としてこの店で買っていくように、みたいな主張をしてこないあたり、本当にただの親切だろうとパンジーは信じ、女性へ頭を下げた。
また、そこで胸元が開いた涼しげなシャツ、腰丈のスカート、半ズボン、つば広帽と、比較的露出が少ない沐浴着を揃えて借りた。
さあ、出かけよう!
露店通りから振り返ってすぐ、足元の石畳に、水の気配がしてくる。
波の小山が足首にかぶりつき、引くと、皮ふが霧のように冷たく感じられた。
パンジーは水場に足をつけ、恐る恐る深場へと歩いていく。
噴水へ近づくにつれ、パンジーの太ももまで浸かってしまった。
「気持ちいいですわ~……」
大水の魔力にあてられ、緊張がほぐれていくパンジー。
最も深い場所、腰まで浸かる噴水付近に近づき、手さぐりして、噴水の縁らしき場所に腰を下ろす。
水深はみぞおちに達する。
真っ白い太陽と人肌のぬるさの水が、ゆるやかな発汗を誘って。
涼しい風が、汗を冷やして。
すぐそばで、沐浴着の子どもや年若い男女が水遊びをする、声と水しぶきとが景色の上で模様となる。
蒼穹、天面なき空のいずこかで、木葉ほどに見える鳶が鷹揚と飛び、遠く鳴いている。
パンジーは我慢できなくなり、いつの間にか子どもたちに混ざって遊び始めた。
1時間も経ったころだろうか。
南の正門の方から、1つ半の人影が水際へ歩いてくる。
と言うのも、母親らしき女性に、娘らしき小柄な少女が支えられているのだ。
少女は右手に杖をもち、左半身を母親らしき女性に預け、左足を軽く引きずってもいる。
それが気になった。
(あんまり物珍しそうに見ては、失礼かしら)
パンジーは自身に言い聞かせると、逃げるようにすぐ水場から出てくる。
小腹が空いたので、物色のために露店を見て回ろう、そう考える。
胡散臭い店を避け、よく見かける露天商たちのたまり場に来て、揚げ焼きのクレープを買った。
口当たりが軽く、何の気晴らしになりそうにもなかった。
(今日はこのくらいで。帰ろうかしら)
パンジーは沐浴着の着替えのために設けられたスペースへ行って、のれんをくぐり、自身1人しかいないことを確認してから濡れた服を脱ぎ始める。
途中で、タオルを忘れてきたことを思い出す。
ワンピースをびちょびちょにして帰るといい。
ちょうど、丸裸になったところで、2人の女性がスペースに入ってくる。
先に見た母子だ。
パンジーは「ごきげんよう」と、あいさつと会釈のみをしてから目を逸らす。
後方から衣擦れの音がする。
……何となく気まずい。
ワンピースを手に取るが、一度着てしまえば大変なことになるとわかっている(自業自得だが)。
気をもんでいると、杖をついていた少女が声をかけてくる。
「おねーさん。タオルないの? わたしのタオル、使いますか?」
「あら。えっと……ありがとうございます。困っていたんですの」
振り返ったパンジーは、当然のこととして少女に向き合った。
黒い艶やかな長髪をした少女。
彼女は、手足ばかりか、顔の左半分も不自由なようすだ。
タオルをくれる右手側の表情は、にこやかで献身的なようす。
その反対と言えば、目は半開き、口は閉じ下がっており、見るに堪えない。
タオルを受け取ったパンジーは、手早く、下を向いて足先からからだを拭き始める。
「キレイ……」
と、少女。パンジーを見て。
ありふれた感想だ。
それが、事実、パンジーの顔を上げさせた。
「おねーさん、どこから来たの? もしかしてっ、北国のお貴族さまだったりして!」
「そ、それは違いましてよ。私は、ファクトリアの……光球工場の職人ですわ」
「えっ、職人さんなの! びっくりした。へえ、こんなキレイな人でも職人さんになれるんだあ」
少女は続けざまに、パンジーのことを褒めそやす。
パンジーは少し、居心地の悪い気持ちになる。
「本日は観光でして? 工場の職人は、どんな人だってなれますのよ。もし興味がおありなら、一緒に工場区を見て回りましょうか?」
「あっ。工場は……。お姉ちゃんが、工場で働いてて。わたしとお母さんがいるって知ったら、きっと邪魔になっちゃうって思うから。ごめんなさい……」
少女はしょげた表情となり、断りを入れる。
パンジーは「邪魔になる?」と、首をかしげた。
着替えを済ませ、濡れたタオルを手渡したところで、彼女に、少女は別れのあいさつとばかりに告げる。
「お姉ちゃん、サルビオラって言うの。もしどこかで会ったら、仲良くしてあげて?」
◆
夏の気候に入ってからというもの、暑い日が続いている。
ファクトリアの市民は涼を求めて、朝晩問わず中央広場の水場へ通った。
たった2日で、大きな池の縁や噴水には、薄ら汚れがつき、傷んだ臭いを発するようになっていた。
もっとも、この事態は頭からわかりきっていたことで。
町では、明日にも池の排水が行われ、放水部隊の第二陣がやって来る予定だ。
工場稼働日の昼休み。
パンジーはまた例の公園を訪れる。
サルビオラと昼食をともにする……それだけのためではない。
彼女に、訊かなくてはならない事項があった。
「――先日、中央広場で、サルビオラさんのご家族にお会いしましたわ」
パンジーが伝えると、サルビオラは急にしおれた花のように頭を下げ、黙ってしまった。
「……やっぱり。ご家族がファクトリアに来ていること、ご存じなんですのね。私が沐浴にお誘いしたとき、サルビオラさん、『行きたくない』っておっしゃって。それが、引っかかっていましたの」
「……あまり、そのことは話したくないです」
「いえ。私に、事情をお話しいただく必要はありませんわ」
明確な拒絶を示したサルビオラに対し、パンジーは答える。
あの日、出会った少女がサルビオラの妹とわかって、色々と過去の話を聞いたのだとすれば、彼女の言う通り、ここでわざわざ蒸し返す必要はないだろう。
――しかし、あの日、パンジーは詮索しなかった。
姉の顔を見に、ファクトリアへ来ているのではないか、と。
――そして、伝えもしなかった。
自身はサルビオラの隣人だ、と。
すべては、ヒナに言われた「職人の礼儀」の実践だった。
では、今のパンジーは何が言いたいのだろう?
「どうか、ご家族に会って差し上げて?」
「な、なんで、ですか。パンジーさんはっ、関係ないんだから……私が、母さんたちに会うかどうかなんて、どうでもいいですよねっ? もう行きます――」
「お待ちになって! テガミ! あの手紙は、ご家族に宛てて書かれたものだったんでしょう? 文を送って、やりとりして。それでも伝えられない気持ちがあるから、お母さまと妹さんはファクトリアに来ているんじゃないですか?」
パンジーの言葉を受け、東屋の席を立とうとしたサルビオラは、その場で固まってしまう。
「……パンジーさんは、どうなんですか。ご実家を離れたくて、家出してきて。そこに、ご両親が何食わぬ顔であらわれたら。会えますか?」
と、サルビオラ。
震える頼りなさげな背中から、わずかな怒りのこもった声を放つ。
「それは……自信はないし。後ろめたい気持ちもあって、怖いし。もし、会うことができても、穏やかでいることはできないかもしれませんわ。……けれど、伝えますわ。『私は、光球工場の職人ですわ』って。それだけは。絶対に……」
と、パンジー。
苦々しさを噛みしめつつも、努めて明るい声音を保ったままで。
「……わかり、ました。でも、その。できたら、パンジーさんにもついてきて欲しい……」
「はいっ、もちろん! お供させていただきますわぁ」
サルビオラは納得したか諦めたのか、はっきりしないおぼろげな表情を返してくれると、パンジーに早速出かける日の相談を始めた。
いざ乗り気になると話は早いもので、本日の仕事終わり、汗を流すつもりで沐浴に行くことが決定する。
すると、2人が中央広場へ到着するのは、夕方になるだろうか――。
工場区の坂を下りてきて、真正面に広がる、池と噴水の夕焼けに色づくところは、「エトルタの奇岩」を思わせるどこか神秘的な魅力があった。
パンジーとサルビオラはまたたきの間だけ、その光景に心を奪わていた。
「あら。そういえば、お2人の泊まってらっしゃる場所を訊きそびれていましたわ……ごめんなさい、サルビオラさん! 大口を叩いておいて。私、情けないですわっ……」
「え、えっと、大丈夫ですよ。たぶん……あそこの宿にいるはずだから」
サルビオラには心当たりがあるらしく、パンジーを先導して、町の南東に向かい歩き出す。
その場所は工場区とマーケットの境目にあり、小規模な工場の下宿代わりに利用される安宿が多く存在していると、道中サルビオラが説明してくれる。
私服姿にわずかな発汗を催した2人が、到着したのは「さざ波の湖荘(Laping Lake Cabin)」のA館。
同オーナーが経営するB館やC館もあるのだろう。
大層な名前のわりにこじんまりした2階建ての宿だ(しかもスペルも間違えている)。
だが、外観はグリーンカーテンと豊かな植栽が施され、独特な高級感もまたあった。
「昔、ファクトリアに行きたいって、妹から手紙が来たとき、ここをオススメして」
言葉を聞いて、確かにこの場所はサルビオラが好きそうだと、パンジーは考える。
建物へ入ってみる。
受付の男性に事情を話したところ、こころよく当該の部屋の前まで案内してくれた。
戸の前に立つサルビオラ。
ノックの構えをする手は、臆病風に吹かれたようにぶるぶると震えている。
ふと、彼女の空いた反対側の手がやさしく握られる。
サルビオラは一度、深呼吸をする。
戸を開いた。
静寂の室内に、2人の女性の姿。
サルビオラに似た、ワインの色めく光沢を帯びた艶やかな黒髪。
そのうち、まだあどけない、左半身が麻痺した少女が声を上げる。
「お姉ちゃんっ?」
「……うん。久しぶり、リン。おっきくなったね」
それから姉妹は長く会話を交わすことなく、短い抱擁だけをして。
すぐに外へとくり出した。
たそがれ時。
夜まで、あと1時間程度といったところか。
「ねぇねぇお姉ちゃん、もくよく着、わたしが選んだげるっ! えっと。このシマシマ、可愛いよ!」
「ええー……そ、それ、ほとんど紐だけじゃない。恥ずかしいよ……」
しかし、可憐な少女がひとたび躍り出れば、そこは花と光の巷に早変わりする。
市民が開いた安全な沐浴着の露店で、パンジーとサルビオラ姉妹と母親――少女たちは賑やかに、思い思いの買い物をしている。
そう、沐浴着を着れば、誰だって可憐な少女になれるのだ。
数は少ないものの、水場を見ると、水浴びを楽しむ男性たちもまた沐浴着姿で少女らしく華やいでいた。
パンジーたちも少しの間、沐浴着の本来の目的を果たすがごとく水場でハチャメチャに遊んだ。
もっとも、それは儀式的な行いに過ぎない。
なぜなら、この夏、この祭りの間しかできない、沐浴着を使った遊びがあるのだから。
「ビオリンさん! 今日は、私とサルビオ――お姉ちゃんたちが、ファクトリアの名所をご案内して差し上げますわ。手始めに、工場連盟のシャンデリアと、高台の景色を見に行きましょっ!」
パンジーは、サルビオラの妹・ビオリンに呼びかける。
それから、そっと彼女のからだに左腕を寄せる。
ビオリンは意図を察し、その左腕に自身の右腕を絡ませた。
パンジーが杖になるのだ。
「私が道しるべ、水先人ですわっ!」
「それって、舟の案内をする人じゃなかったですか? ふふふ」
パンジーの勢いに乗せられ、サルビオラは堪えきれず笑い声を上げる。
自身の不意な反応に、顔を赤くしてそっぽを向く。
「サルビオラさんが笑いましたわ!」
何とかのひとつ覚えのようにパンジーが言うと、腹を立てたのかサルビオラは日傘を買ってきて、がばっと開いて顔を覆った。
かしまし娘たちが行く。
パンジーは、先日と同じ沐浴着。
サルビオラは妹とともに、妹に着せられた肌の露出が多い沐浴着を着て。
母親は、彼女たちを後ろから見守っている。
歩いていく。
オレンジとネイビーの混ざり合った風景の中、彼女たちの笑顔はそれこそ、本物のパンジーだとかビオラだとか花と同じくらいに力強く咲いていた。
ようよう、白々と光球の明かりがつけられ始めても、その花たちの輝きと言えば、まったく見劣りしなかった。
ファクトリアを植木鉢とすれば、パンジーたちは、町が丁寧に植え育んだ観賞花。
それとも、自然と流れ着いた野草か。
……いずれにしても、それは人間の目からすれば、何よりも美しく、かぐわしいものだ。




