第21輪 発熱(はつねつ)パンジー
「パンジーも、何ですのっ!」
かすれ声で叫ぶ。
思いの外、シームレスな目覚めだった。
そのため、危うく今の自身が過去の父親に怒鳴って掴みかかる、とんちきな夢をまだ見ているものと勘違いしそうになった。
そのようなことにならず、よかった。
パンジーはなぜか、下宿のベッドに横たわっている。
もう夕暮れ時か。
閉め切ったカーテンの隙間にオレンジ色とささいな塵埃が舞って見え、部屋全体は薄暗い。
きっと、工場で気を失った後、ここまで帰ってきてずっと眠っていたのだろう。
どうやって帰ったのか、わからないが。
「あら。あら? 私、着替えて……。見られたかしら……?」
パンジーは、自身の服装が作業着から、洗濯乾燥が済んだばかりの新鮮なシュミーズに変わっていることに気づく。
もちろん、着替えた覚えもない。
すると、誰かがパンジーを下宿まで送って、身支度までやってくれたというのか。
2時間ほど経った。
その間、パンジーはベッドの上で寝たり起きたりをして、いやに大人しくしていた。
――突然、胸騒ぎがする。
パンジーは重いからだをひっくり返し、玄関まで歩いた。
コン。……コン。
遠慮がちなノック。
住人であるパンジーは返事もなしに玄関の戸を開く。
来訪者はびくっ! 肩を震わせ、1歩引き下がって目を丸くする。
赤みがかった、魅惑的な黒髪。
「サルビオラ、さん?」
「はぅっ、え、っと……こんばんは」
それだけを交わす。
気まずくなる。
だが門前払いするわけにもいかず、2人して部屋に入る。
リビングに移ると、パンジーはようやく部屋が暗くなっていることに思い至り、慌てて光球をつけた。
ガラス球に浮かび上がる、パンジーかビオラの咲き乱れるところを、サルビオラは直視しないようにして、床へ腰を下ろす。
パンジーはベッドへ、はしたない姿で、尻から落ちる。
「……あの。具合、どうですか」と、サルビオラ。
「大丈夫ですわ」と、微笑浮かべてパンジー。
「……ごはん。まだだったら、その。つまらないものですけど」
サルビオラは臆病、かつ大胆な勢い! で、幾つか容器に込めた料理を差し出してくる。
見たところ、タイムが添えられた麦粥に、青菜の煮物か。
いずれも、わずかな湯気が立っている。
パンジーがこれを拒む理由はない。
厚意に甘えることにする。
サルビオラは一度立って、台所から小皿と食器を持ってきてくれる。
パンジーは感謝を言って、祈りを捧げ、料理にありついた。
「んむっ。まあ、お粥にサーモンが入っていますわ。おいしい! こちらの煮物も……まあっ、甘く煮てくださったの。おいしいですわあ!」
抑えも利かないようすで、料理に手を伸ばしていくパンジー。
レストランの小冊子片手に食事しているのかという、不自然極まりない説明口調が鼻につくが……。
彼女なりに、サルビオラへ気を遣っている、そういうことにしよう。
それから、ものの5分でたいらげた。
「本当に、ありがとうございます……。家まで運んでいただいて、着替えも。それに、こんないいものまでいただいてしまって。どんなお礼をしたら……」
「ち、違います。運んでくれたのは、ヒナさんで」
サルビオラが、パンジーの発言を訂正する。
ついでに着替えも、恐らくヒナによるものだろう。
「じゃあ、その。私を心配して、わざわざ来てくださったんですの?」
パンジーが訊ねる。
サルビオラは目を伏して、黙っている。
「では。非礼を承知で、お願いしてもいいでしょうか。熱くって、汗をかいてしまって。背中を拭いていただけるかしら? 手が届きづらいんですの」
パンジーが訊ねる。
サルビオラは目を伏して、恥ずかしがるかと思った。
しかし、どこか使命感めかした調子で「はい」と返事をして、みずからタオルを取りに立ってくれる。
サルビオラはタオルを手に、パンジーのベッドへ腰かける。
高湿度のためか、シーツはしっとりしている。
そこへ、パンジーが背を見せ、服をはだける。
尾てい骨のあたりまでが露出する。
刹那――部屋中央の光球が、点灯時間の限界を迎え、切れてしまった。
「あっ。ちょっと待ってください……」
サルビオラは即座にスイッチの紐へ手を伸ばし、光球をつけ直す。
パンジーはじっとしていた。
サルビオラは彼女の背中、真っ白い雪のような肌に向かう。
その肩甲骨のあたりには、奇妙な一対の突起物があって。
「私、ハネアリでしたの」パンジーが補足をしなければ、サルビオラはそれが翅だと理解できなかった。
「ハネ、アリ? でも……えっ、こんなの見たことない……」
サルビオラの言う通りだ。
こんなにも醜い物体が、ハネアリの、ガラス細工のように透き通った無垢な翅と同じものであるはずがない。
パンジーの背から伸びる一対の突起物は、彼女の珠の肌と対照的に、浅黒く、腐った果実の色合い。
本来風をとらえるために広がる羽弁も、波状にうねったり途中で途切れていたりし、まるで細かい葉が密集したシダ植物のように見える。
サルビオラはパンジーの背中を撫で拭きながら、そのさまをまじまじと眺めた。
「ちょうど、さっき『夢』を見て。思い出しましたの……5歳の頃、父と『揺らし石』の採掘場を見に行って。次の日、熱を出して。水を飲もうと、1階の洗面所へ向かったとき、(お屋敷のエントランスにつながる、三叉の)階段から落ちてしまったんです。その後のことは、よく憶えていないけれど。きっと……そのせいで、私の翅は、飛ぶための力を失くしてしまったんですわ」
パンジーのぽつり。
サルビオラは、彼女のからだを拭きながら聴いた。
すると、この醜い物体の腐った果実の色合いというのは、本当にその通りなのか、とサルビオラは思い至ってしまう。
「ずっと、考えないようにしていたのかも、しれないけれど……父は、私を守るために、実家で閉じ込めていたのかもしれませんわね。『ハネアリ』として生きられなくなった私を……」
「だから……ご実家を出て、ファクトリアに来たんですか」
サルビオラは、間違った私見を呈する。
無理もない。
彼女は、パンジーが両親の負った借金を返済したいがためにファクトリアへ出稼ぎに来たことを、知らないのだから。
「――そう、ですわね」
パンジーは、子どもの純真さそのままに「はい」とは言わなかった。
ただ、サルビオラの考えを肯定もした。
それは、単なる事実確認ではない。
これまで、健気にがんばるパンジーを応援してくれた町の人々に対する、裏切りの肯定なのだ。
パンジーが明るく笑う、ドジをする、次はうまくやろうと試行錯誤する。
――だから、人々は優しくしてくれた。
もし、はじめから「窮屈な家を出たかった家出娘」だと知っていたのなら、そうはしなかった。
光球はその光を与えなかった。
今になって、パンジーも自身の心でそれを感じ取ったのだろう。
情けなさに、胸の奥が痛む。
すると。
胸の奥……心とも魂とも違う、理性でもない、どこかから言葉が返ってくる。
『働いて、思うようにいかなくって、逃げたくなっても、ここには幾らでもあんたを受け入れてくれる場所があるってこと。それだけは覚えていておくれ。ファクトリアの住民の証みたいなもんだから』
聞いたことがある言葉。
しかし、あのときと今とで、パンジーは異なる感情を覚えた。
「そ、っか。いい仕事が見つかって、よかったですね」
今、背に、サルビオラの声が降りかかる。
パンジーは胸が焼ける思いがする。
また光球が切れる。
視界が暗転する。
サルビオラは、発動機が置かれた場所を覚えていて、すぐさま手を伸ばす。
紐を引いて、光をともす。
そのとき、反対の、タオルをもった手を引かれた。
向き直ると、パンジー。
パンジーはサルビオラの手を引いて、はしたない裸の姿に、似つかわしくない大輪の笑顔を咲かせていた。
「よかった、サルビオラさんがいて!」
パンジーが言う。
サルビオラは当惑して押し黙る。
やがて、小さな笑みを返してくれる。
「その、恥ずかしいので何か着て……残りは自分で拭いてください」
つたない笑みはみるみる紅潮していき、パンジーにタオルを投げると、間もなく部屋から帰ってしまった。
パンジーは悪気ないニコニコしたようすのまま、また自身のからだを拭き始める。
◆
爆発事故によって、工場が3日間の休業になったことが、まさか幸いするとは。
パンジーもさすがに、夢にも思わなかったことだろう。
安心して、病気のからだを横にしていられる。
休業1日目の朝。
パンジーが六度寝についたその折、外から、大きな鐘の音が聞こえてくる。
いずれか工場の、昼休みを伝える合図だ。
無理やり意識を戻されるパンジー。
いったん汗で濡れた部屋着を着替えようと、ベッドを立つ。
彼女の前方、風の凪いだ玄関から、トンットッというすばやいノックが呼びつける。
パンジーは半脱ぎの服を正して、来訪者を確かめに出る。
「こんちはー。家政婦の宅配でーす!」
戸を開いてすぐ、陽気な冗談を言って、人物……若作りした雰囲気の女性は、ずかずか家に上がってきた。
艶めく白い長い髪の三つ編みを、肩に垂らした淑やかな容姿の女性。
家政婦と言ったが、パフスリーブの長袖ジャケットにスラックスという彼女のいでたちは、どうもその語意にそぐわないものだ。
「ヒナさん? 家政婦って……うふふ、そのお姿だと、むしろ雇い主の方ではなくてっ」
「いやあ、どうもスカートが性に合わなくってさ。あはは。職業病ってやつかな? ……って、その言い方はいま失礼か。ごめん」
来訪者は、意図しない男装をしたヒナだ。
それを笑い飛ばす。かと思えば、パンジーに配慮して謝ってくる。
情緒がいそがしく変わる人だ、とパンジーは思って含み笑いした。
2人して部屋に入る。
パンジーは、工場で倒れた自身を、下宿まで送り届けてくれたことへの感謝を伝える。
するとヒナは、さっそくとばかりに用件をパンジーに差し出してきた。
「その件でね。昨日、工場の専門医に訊いたんだけど……やっぱり、パンジーは、『揺らし石』の中毒症だろうって。ときどきいるんだよ、からだの中に入ると、発作が出るって子」
「中毒症? 私が。もしかして、昔のことも……いえ。その、前にこの部屋に住んでいらした方も、そうでしたの?」
「ううん、違うよ。でもうちにも、何人かそれでやめた子がいたから」
ヒナとのやりとりで、パンジーは2つの事実を知った。
「揺らし石」には、摂取すると中毒症になる場合がある。
今回と、過去に父親と採掘場へ行ったパンジーが、後日、猛烈な発熱を起こしたのはそれが原因かもしれないということ。
そして、下宿の前入居者が突如いなくなった理由は、もっと別の原因によるものということ。
「……どうして、シフォンさん? でしたっけ。急に光球工場をやめてしまったんですの?」
「余計なこと訊くなー。誰の入れ知恵か知らないけどさ……。急にやめたんだから、誰も何もわからないの、ホントに」
ヒナは面倒くさがるようすで、パンジーに言いつけてくる。
「それにさ、みんな事情があって工場に来てるんだよ? パンジーだって、きっとそう。それでも同じ工場で働いていける。事情は仕事に関係ない! 本人が話す必要があるって決めたこと以外、他人が知るべきじゃないの。それが、職人の礼儀ってモンだよ」
ついに、ヒナは強い口調でパンジーを諫める。
それこそが彼女の、工場で多くの担い手……そして生活を守らなければならない者の、信念なのだ。
「わかり、ましたわ……吾がままを言って、ごめんなさい」
「いいよ。全部、勢いで決めたブレビスのおじさんのせいだしっ」
パンジーの謝罪を、ヒナはまた笑って受け入れてくれる。
「話を戻すけど。やっぱり、パンジーが球幹工程を続けるのは、難しいと思って……細工工程の子が、あっサルビオラじゃないよ、パンジーと仕事を変わってもいいって言ってくれたの。どうかな? もしそれでもダメだったら、まあ、光球工場以外にも工場は幾らでも紹介できるし……」
「お待ちくださいましっ!」
パンジーは、首筋が引きつるほど、ひっしな声で制止する。
「ヒナさんは、職人はみんな事情があって、それでも一緒に仕事ができるって言ってくださいましたよね。なのに、私の事情を、気持ちを一方的に決めつけるのは、お話が違いますわ……」
「いや、そんなつもりないけどっ」
「私は、球幹工程の職人ですわ! 工場なら何でもいいなんて、これっぽっちも思っていません。つらくたって、逃げません! あの場所がいいんです。ですから、どうかこれからも、あの場所で働かせてください!」
パンジーは、ヒナに面と向かって言い放つ。
短く切られた髪を乱して、頭を下げる。
もう彼女の姿からは、「豪商の1人娘」という肩書きを感じることもできない。
ただのか弱い少女だ。
だからこそ、言葉を、願いを。
ヒナは冷淡に突き放すことができる。
特別待遇するべき相手ではないとわかったから。
ヒナは、くすぐったそうに小粋に、笑って。
最後には、パンジーを受け入れてしまった。
「……わかった。じゃあ、工場が直ったら、最初に安全管理の対策を考えよう。どこぞのバカみたいに、2回目以降のミスは怠慢だからねっ。仕事はそれから!」
「あり、がとうございます。ヒナさん。本当に。よかったぁ……」
「んふふ。アタシも、よかった。パンジーがうちの職人になってくれて。大丈夫、大事にするよ」
ヒナはそう言って、パンジーの髪を撫で梳く。
髪は、心なしか粉を吹いていた。
こうして、パンジーは心から、ファクトリアの職人となった。
これからも、身を粉に、粉にまみれながら、光球という「人々の夢」をつくり続けていくだろう。
この「夢」から、目覚めるまでは。
あなたはこの先をどう読みますか?




