第20輪 浮遊(ふゆう)パンジー
パンジーは目を覚ます。
自身を包むベッド、カーテン、下宿の床までもが暗黒に一体となったような真夜中。
当然、起きるべき時間ではなかった。
意識を覚醒させたものは、からだの内から発する異様な熱だ。
パンジーが「ううん……」と悩ましい唸り声を上げ、ベッドから這い出す。
首に背に腹に、びっしょりと寝汗をかいていることに気づく。
「や、やだ……タオル……」
なぜか真っ先にネグリジェを半分脱いで、だらしない格好でパンジーは立ち上がる。
不快感に屈折した姿勢はもはや老婆のようだ。
タンスを漁ってタオルを手に取り、からだを拭きながらベッドへ戻る。
少しして、部屋中央の発動機に手を伸ばし、硬紐を引いて、光球をつける。
花柄のガラス球が、夜闇に咲く。
光が照らし出したもの――それは、パンジーの赤く腫れた腕や胸元だった。
あらためて床に就くも、眠れぬまま朝を迎える。
パンジーは熱に浮かされた感覚に、重々しい眠気を加えた、どうしようもない苦しみに身をよじる。
また汗をかいていた。
「今日は、仕事を休んだ方がいいかしら。風邪かもしれないし。感染してしまうかも……」
そうは言っても、彼女には過去一度として流行病にかかった覚えがない。
体感は、仕事を始めてからずっと続いてきた筋肉痛の症状と、発熱があるのみ。
発熱は、いつもよりひどいものだが。
これが風邪なのか否か、わからない。
「でも、今日も掃除をするだけだし……きっと、大丈夫だわ」
パンジーは穏当な結論を出した。
それからは迷いなく、気だるいからだを叱りつけ、何とか作業着に着替える。
いつもの時刻に、家を出る。
「パンパン」には、立ち寄れそうになかったので、昼食は昼休みに調達することにしよう。
そう決めて、とぼ、とぼ、ゆっくりと工場に向かう。
強い日差し。
ぐらぐらと煮える石畳の町。
ファクトリアの職人たちも、ほとんどが通勤時に作業着を着なくなっている。
たいていは半袖の薄着だ。
そこへ、作業着でめかし込んだ、赤く焼けた肌色の娘が1人混ざる。
パンジーだ。
人々は本能から、彼女を避けて歩いた。
光球工場に続く、慣れ親しんだ花壇の坂も、今日の日ばかりは地獄坂。
上りきるには命を削るくらいの覚悟を要した。
正門をくぐり、そのまま更衣室へ。
「顔色悪いけど、大丈夫?」と、パンジーの右隣の私物入れを使う女性が訊いてくるが、パンジーは笑顔とうなずきだけを返す。
製造部球幹工程まで来ると、ヒナとセント、フォルミンや他に10名ほどの作業者が掃除用具の準備をしていた。
相変わらず仕事熱心だ、とパンジーは感心する。
ヒナが声をかけてくる。
「パンジー、おはよう。って、ちょっと! 顔赤いよ。どうしたの?」
「おはようございます。うふふ、昨日ちょっとがんばりすぎたみたいで。熱っぽいだけですわ」
「風邪ひいたの? だったら、今日は帰ってもいいよ。掃除するだけだし。ゆっくり休んで?」
ヒナは、優しさとも冷淡さともとれる返事をする。
パンジーは、冷や汗をかく感じを覚える。
「いやいや。掃除するだけだから、がんばって出てきたんでしょー。どうせ明日から休みだし、ねえ、それだったら1日分でも多くお給料欲しいじゃん。だよねー、パンジー?」
「誰のせいで、掃除するだけになったんですかね……」
セントは落ち着いた声で、ヒナに反論した。
後ろでホウキを整理するフォルミンは、やつの妙に他責的な姿勢を見て、ツッコまずにはいられなかった。
しかし、セントの言い分は卑しくも、的を射ている。
パンジーが現金な事情から、体調不良を押して出勤した事実はない。
それでも、「何となく」の感情論より、むしろ共感できた。
パンジーはセントに愛想笑いを返す。
ヒナは、納得しなかったがその意思表示を尊重してくれた。
そして、午前中の間に、パンジーの周囲人物もれなく全員が、判断を後悔することになる。
陽が高く照り、天井の一部が破れたままの工場室温はだんだんと上昇していった。
気温の変化は、温度計の見方も知らないパンジーたちですら、肌感でわかったほどだ。
昨日同様、「ハネアリ」の一団が上から落とす大量の「揺らし石」粉末を、下で職人が掃き集める。
空気は燃えるようだが、大した労働ではない。
そんな中で、パンジーの思考回路はすでに、規格の点灯時間を過ぎた光球の金属線みたいに、熱で焼き切れる寸前となっていた。
――というのは、猛暑にあてられる人間の表現として、不適切だろうか?
否、パンジーの感じる熱は、外だけでなく、内からも滾々と湧き上がってくるのだ。
「ご、めんなさい。セントさん、ちょっと、頭が――」
パンジーはその言葉を最後に、意識を途切れさせてしまった。
無意識の闇に落ちる。
――というより、熱に浮かされたまま、それが眠りの中で見る「夢」だとわかる夢へと、落ちていた。
パンジーは望みにかかわらず、自身の胸の内をのぞき込んだ。
◆
それは、あくる日の記憶だった。
正確な日付は憶えていない。
ただ、遠い昔、あの燦爛たる豪華な5歳の誕生日パーティーを終えて、しばらくした頃。
父親が、視察の遠征にパンジーを誘ってくれた。
今は亡き荷役犬の2頭がひく、犬車荷台に乗って。
幼きパンジーの背丈をはるかに超す植物たちの大草原を、何日もかけて渡った。
道中、父親と川遊びや花摘みをして楽しんでいただろうか。
その目的地――パンジーにとって、とても印象に残る場所だ。
鬱蒼とした森林。
少しのぞいた岩肌。
側面に、ぱっくり開いた洞窟の口(確か、恐怖心を、父親がパンジーとお揃いだと言って和らげてくれた)。
中へ入ると、口唇に、わずかながら痺れるようなざらつきを感じて。
呼吸すると、むき出しの岩場の匂いがする。
「パンジー。おぼえておきなさい。これが、私たちの宝。『揺らし石』だよ」
確かに、父親はそう言った。
間違いない。
だからパンジーは、眼前に広がる真赭色の粉、コンテナに積まれたクッキーのような質感の鉱石を、ずっと忘れないでいた。
2人は、「揺らし石」採掘のようすを見て回った。
ヒゲをたくわえた小柄な鉱夫の男たちが、鑿槌やつるはしを振って、汗を流し、作業する。
洞窟内の空気に、鉱物の色が混じる。
音といえば、意外にも静かで、男たちの短い気合いの声と金属が摩擦する音だけが、粛々と響いている。
ずっとシャンデリアだとか宝石の類いだとかを見て育ったパンジーのことだ、これを「美しい」と思うはずがない。
けれど、眺めていると、喩えようのない不思議な気持ちのよさが、ウズウズが、心に募っていった。
「お父さま、私もやってみたいですわ!」なんて、当時のパンジーは口走っていただろうか?
さすがにないか。
でも、今ならきっと言ってしまうと思う。
それから、水蒸気の力で坑廃水を地上へ揚げる機械、火を使わない不思議な照明を見学した。
パンジーは洞窟の外へ出る。
ちょうど、鉱夫の男たちも昼休みに入った。
彼らと同じ食事……。
味のしないナゾの干し肉と、石鹸の味がするボソボソのパンを、パンジーも食べる。
あまりのまずさに、子ども顔がくしゃくしゃになる。
鉱夫の1人が「花を枯らすな!」と怒ると、男たちはいっせいに笑い声を上げる。
男たちは、妻伝いか知れないが、パンジーの花を知っていた。
「いいものを見せてやろう!」
また、別の鉱夫が言う。
そのそばから男たちは立ち上がると、次々に背中から大きな翅をあらわした。
彼らは「ハネアリ」なのだ。
父親はパンジーを抱え上げ、膝の上に乗せる。
男たちの1人は、コンテナの1つを場所の中心に持ってくると、なぜか、そこへつるはしで殴りつけた。
「揺らし石」は衝撃を受け、鋭い音とともに砕ける。
赤い粉が舞う。
つるはしの男は何度も鉱石を打つ。
周りの「ハネアリ」の男たちは広げた翅を大振りに、それでいて繊細な音色ではばたかせる。
やがて、翅からは鱗粉か、古い細胞か、いずれか粒子状物質が、光の粒となり飛び散る。
粒が、赤い粉にふれ、風に渦巻く。
光景は、パンジーの目に、神光のごときまばゆさを見せた。
(これが……お父さまが言っていた、「揺らし石」の祭儀?)
夢中の幼いパンジーではない。
夢を見るファクトリアのパンジーが、無意識に疑問を呈する。
「『揺らし石』は、世界を揺らすことができる鉱石なんだ。世界のすべては『粒』。それは『波』によって、人や植物、鉱物に姿を変える……そう教えたね? だから『ハネアリ』たちは、『揺らし石』を研いで『波』を起こす。その『波』が自分を揺らし、世界を揺らす。そうして本当の正しさと、思いやりを知るのさ」
夢中の父親は、まるで2人のパンジーに教育するように、愛情深い声で言って聞かせる。
しかし、実際のところ、2人のパンジーにとって言葉はまだ古き雑感に過ぎなかった。
「いつか、パンジーも
――父親の顔と声は真っ白く溶けて。
一転、パンジーの視界には暗闇が広がる。
熱く灼ける現実が、汗ばんだ、きゃしゃなからだへと圧しかかってくる。




