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ファクトリアッ! 夢づくりの工場物語  作者: 石鬼 輪たつ
陰に風流あらざれば病となる
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19/31

第18輪 寄植(よせうえ)パンジー

 イライと健《すこ》やかに昼寝《ひるね》をしたパンジー。


 遮光布《サンシェード》のごとくふたりの上を覆《おお》ってくれた雲は、気づかぬ間《ま》に黒々(くろぐろ)として……やがて雨《あめ》を降《ふ》らせる。


 さすがにパンジーも目を覚《さ》まし、イライの背《せ》に乗《の》せてもらい急《いそ》いでファクトリアまで戻った。



 雨はついに、豪雨《ごうう》となる。

 通《とお》りの人々も、足早《あしばや》に屋根《やね》のある場所まで避難《ひなん》する。


 ところが、小《こ》1時間の後《のち》には空が晴れ、また今朝《けさ》のごとくカラっとした天気になってしまった。


 陽《ひ》の強《つよ》い光と熱が、乾燥《かんそう》をもたらす。

 人々は、空に気《き》まぐれな水やりをされた気分を味《あじ》わった。



 一方《いっぽう》のパンジーたちはどこにいるのかというと、ファクトリアの工場《こうじょう》区《く》裏手《うらて》の滝《たき》から出て、南西に行った先《さき》の、居住《きょじゅう》区《く》西端《せいたん》につながる通用門《つうようもん》だ。


 ここも、ゴシック様式《ようしき》の城《しろ》を模《も》した正門《せいもん》同様《どうよう》、いかなる守衛《しゅえい》の姿《すがた》もない。


 それでいて、正門《せいもん》の天枠《てんわく》が荷役犬《にえきいぬ》舎《しゃ》くらい高いのに対して、西端の通用門といえばパンジーの背丈《せたけ》と変わらない大きさの入口をしていた。


 だから、イライは窮屈《きゅうくつ》そうに姿勢《しせい》を低《ひく》くし、腹《はら》を地にこすりながら入ることを強《し》いられた。



「イライ、見て! タイルの間《あいだ》に、水が流《なが》れていますわ!」



 石畳《いしだたみ》を指《ゆび》さして、ずぶ濡《ぬ》れのドレスを着直《きなお》したパンジーが声を上げる。


 雨に降られ、おまけに先の入門方法のせいで腹《はら》もしとど濡《ぬ》れたイライは見るからに不機嫌《ふきげん》な顔をしている。


 いちいちそんなことで騒《さわ》ぐなという反抗《はんこう》心ゆえか、鼻先《はなさき》でパンジーをぐいっと押《お》し、先を行くよう催促《さいそく》する。



「どこへつながっているのかしら……行ってみましょっ!」



 パンジーは流れる水の行方《ゆくえ》を追《お》って、歩き出す。


 彼女の発見によると、町の石畳《いしだたみ》は一見《いっけん》規則《きそく》正《ただ》しく敷《し》き詰《つ》められている。


 ただそれだけではない。


 民家《みんか》の玄関《げんかん》先など道の左右《さゆう》ではタイルの隙間《すきま》に細《ほそ》い溝《みぞ》が彫《ほ》られ、「水の筋道《すじみち》」となっているのだ。


 それは居住《きょじゅう》区《く》の路地《ろじ》を通じ、なだらかな勾配《こうばい》を下《くだ》って。


 ついには中央《ちゅうおう》広場《ひろば》まで続《つづ》いた。


 一度は雨天《うてん》により人のはけた噴水《ふんすい》の周《まわ》りに、「巨大《きょだい》な水たまり」が出現している。


 遠目《とおめ》に、各地《かくち》の水流も見える。

 全部、その水たまりへと集中《しゅうちゅう》しているのだ。



「まあっ、大《お》っきな池! ここへ集めるために、中心がくぼんでいたんですのね!」



 声を上げるパンジー。


 心底《しんそこ》驚《おどろ》いた、という顔を浮《う》かべるが、口にしているものはどこか感情から切《き》り離《はな》されたような論理《ろんり》的《てき》納得《なっとく》のせりふだ。


 球幹工程(セント組)の思考回路がクセになってきたのか。


 事情《じじょう》のわからないイライはくぅんとひと鳴《な》きし、ただ呆然《ぼうぜん》と景色を眺《なが》めることしかできなかった。



 満足したパンジーは「いちど、家《うち》で着替《きが》えたいですわね」と、噴水《ふんすい》を見る前にそうしておけという至極《しごく》当たり前なことを言ってから、びしょびしょの格好《かっこう》で、元来《もとき》た居住《きょじゅう》区《く》の方に引き返す。


 水が引いた後《あと》の居住《きょじゅう》区《く》は、すっかり肌《はだ》に染《し》みる暑《あつ》さが戻《もど》っている。


 パンジーは、なだらかな勾配《こうばい》を歩いて上《のぼ》るごとに疲《つか》れがたまっていく。


 下宿《げしゅく》まで数分の距離《きょり》ではあるが、どこかで涼《すず》みたい気持ちもある。


 そのとき、前方《ぜんぽう》から耽美《たんび》な香《かお》りが、パンジーのところまでやって来た。



「この、焙煎《ばいせん》した匂《にお》い……コーヒーかしら? すると、あそこはカフェ?」



 目《め》を凝《こ》らして見ると、それらしい場所がある。


 たたずまいは他の民家《みんか》と大差《たいさ》ないものだが、植物の鉢植《はちう》えが通《とお》りにかかるほど飾《かざ》られている。


 そこから、客が1人出てくる。



「――サルビオラさんっ!」



 赤みのある黒い髪、自信なさげな立ち姿の女性。

 手に小包をもって。


 サルビオラだった。


 サルビオラは植物に囲《かこ》まれながら店を去《さ》ろうとする。


 その目の前に、ずぶ濡《ぬ》れドレスの金髪《きんぱつ》小娘《こむすめ》が全力《ぜんりょく》疾走《しっそう》してきて、立ちふさがる!


 パンジー! なぜここに! 

 という顔で、サルビオラは動揺《どうよう》する。


 あとなんかデカい白《しろ》いずぶ濡《ぬ》れ犬《いぬ》も走ってきた。



「おはようございますっ!」


「えっ。あの、もう、お昼ですけど……」


「やあっと、目を見てお話しできましたわ!」



 と、勝手《かって》に悦《えつ》に入《い》るパンジー。


 2人のそれはまるで会話になっていない。



「私《わたくし》、ずっとお礼が言いたくって。工場では、お会《あ》いできなくて、忘《わす》れかけてしまってたけれど……光球《こうきゅう》のパ(・)ン(・)ジ(・)ー(・)、彫《ほ》ってくださったのって、サルビオラさんですわよねっ? とっても嬉《うれ》しかったですわ! ありがとうございます!」


「あ、あっ、いえ……私、もう帰《かえ》るところなので。そこ……」



 サルビオラは後《うし》ろや横《よこ》を見回《みまわ》した後、指《ゆび》をさす。


 前を塞《ふさ》がれている状況《じょうきょう》なので、そこをどいてほしいという意思表示だと、パンジーにもわかった。


 ただし、なぜ自身の礼《れい》に対《たい》する返事がそれだけなのか、わからなかった。


 パンジーがきょとんとして道《みち》を開《あ》けると、サルビオラは逃《に》げるように帰ってしまう。



「私《わたくし》、失礼《しつれい》なことは言っていないはずだけれど……」



 そうは言っても、恥《は》ずかしがっているのかもしれないと考えて、道《みち》行《ゆ》く人を見るが、誰《だれ》も注目《ちゅうもく》などしていないし。


 ではカフェの店内の人目はどうかとにらんでも、小さなガラス窓《まど》越《ご》しに、客はそもそも1人もいなかった。


 視線《しせん》は流れ、店の上に掲《かか》げられた看板《かんばん》に向く。


 彫刻《ちょうこく》文字で「カフェ・コンテナ(CAFE CONT(・)A(・)NER)」と記《しる》されている。


 少し開いた扉には「P」のひとつに斜線《しゃせん》が入った「OPPEN」の木札《きふだ》が下げられ、中からドリップコーヒーのふくよかな芳香《ほうこう》が漂《ただよ》ってくる。



「スペルがくちゃくちゃ……でも、ふふっ、何かいただいていこうかしら」



 何か手土産《てみやげ》でも持って帰らないことには、居心地《いごこち》が悪い気がして、パンジーは店に入る。


 店員の女性も、逃げて行った彼女に似《に》て口下手《くちべた》な印象だ。


 しかし、クッキーとモカコーヒーの粉《こな》を買《か》って帰《かえ》る際《さい》にくれた笑顔は、店先に咲《さ》いていた青いトレニアのように慎《つつ》ましく可愛《かわい》らしかった。



 ◆



 翌々(よくよく)日(じつ)。

 また、1週間の仕事が始まる。


 準備《じゅんび》。

 朝礼《ちょうれい》。

 持《も》ち場《ば》について、作業開始。


 パンジーが作業場《さぎょうば》にシートを広げると、すぐにも隣《となり》からセントはいなくなり、少《すこ》し離《はな》れた場所へ行って、取《と》りつけ前の部品の点検《てんけん》を始めた。


 パンジーは作業しながら、今朝《けさ》の朝礼のことを思い出す。

 細工《さいく》工程《こうてい》の列《れつ》に並《なら》んでいた、サルビオラのようす。


 目元《めもと》を隠《かく》していたが、解散《かいさん》するとき、すれ違《ちが》ったパンジーのことを意識しているみたいだった。



(離《はな》れているけれど……今《いま》、同じ工場でサルビオラさんも働いているのね)



 パンジーは想《おも》いをはせる。


 言わずとも知れたことだ。

 しかし、意識すると、なぜか嬉《うれ》しくなる。



 時は流れて(と言うと、職人の重労働を軽《かろ》んじるみたいに聞こえるだろうか)、昼休みがやってくる。


 午前中に気温が上がり、製造《せいぞう》部《ぶ》内は蒸《む》し風呂《ぶろ》のように暑《あつ》くなっている。


 猛暑《もうしょ》から逃《に》げようとしてか、パンジーはそわそわしてすばやく席《せき》を立った。



「パンジーさん。お昼にいきましょう」


「え、ええ! その、今日は私《わたくし》、行(・)き(・)た(・)い(・)と(・)こ(・)ろ(・)があって。ごめんあそばせー」



 後《うし》ろの席からフォルミンが明るい声をかけてくれる。

 せっかくの誘いだった。


 だがパンジーは軽々(かるがる)とあしらうと、焦《あせ》り気味《ぎみ》に出て行ってしまう……。


 昼食が入った袋《ふくろ》を持《も》って。

 訪《たず》ねる先は、工場裏手にいるヒナだ。



「ヒナさんっ!」


「パンジー? ……なあに、また何かやらかして泣《な》きついてきたの。おっちょこちょいだなー」


「今回は違《ちが》いましてよっ。サルビオラさんが、お昼休みにいらっしゃる場所を知りませんか?」



 ヒナのからかいに取り合わず、パンジーは真摯《しんし》な表情で訊《たず》ねる。


 その魂胆《こんたん》とは、仕事日の昼休みであればサルビオラも遠《とお》くへ行かれまい、ゆっくりと話《はなし》ができる、というもの。


 もっとも、その事情をヒナは知《し》る由《よし》もなかった。



「……確か、光球工場の(この)上の公園《こうえん》にいたはずだよ。何回か、顔《かお》見《み》に行った気がするし。隣《となり》にパルプ紙《し》の工場があってね、彼女、元《もと》はそこの職人だったの。その頃《ころ》からお気に入りなんだろうね」


「えっ。サルビオラさんって、他の工場から来た方《かた》だったんですの?」


「いけねっ、しゃべりすぎちゃったか……まあ、そこは触《ふ》れないであげてね」



 ヒナは自身の発言を反省《はんせい》する意図《いと》か、白色の前髪《まえがみ》越《ご》しの額《ひたい》をぺちんと叩《たた》くと、先の言葉を濁《にご》す。


 パンジーも空気を読んで、先を急ごうとした。



「会いに行くんでしょ? でも、強引《ごういん》なのはダメだよ。人と、距離《きょり》を置《お》きたい性質《たち》の子だからさ」



 ヒナの暖《あたた》かみのある声は、その釘《くぎ》を刺《さ》すような意味だろう発言をするとき、温度を失《うしな》った感じをさせ、張《は》り詰《つ》めていた。


 それは忠告《ちゅうこく》でも、やましさの表出《ひょうしゅつ》でもない。

 感情をころして、無(・)感(・)情(・)で(・)い(・)る(・)という印象《いんしょう》だった。



「でも、私《わたくし》とサルビオラさん、同じ下宿《げしゅく》に住《す》んでいますわ。2つ隣《となり》で。とっても近くですわよ?」


「……ごめん。忘《わす》れてた。それは偶然《ぐうぜん》と言うか、何と言うか」


「うふふ。だから、大丈夫《だいじょうぶ》ですわっ」



 パンジーは、ヒナをたしなめると腕《うで》を振《ふ》って歩き出す。


 小道《こみち》を通り、カンカン照《て》りの上《のぼ》り坂《さか》につく。


 工場《こうじょう》区《く》は、工場《こうじょう》連盟《れんめい》の権威《けんい》を示《しめ》すためだろう、道幅《ひちはば》が広くとられ、豪華《ごうか》な植栽《しょくさい》が整備《せいび》されている。


 パンジーの背丈《せたけ》より大きなグラジオラスが気高《けだか》く咲《さ》き。

 同様に大きなニワシロユリ、テッポウユリの柑橘《かんきつ》めいた香《かお》りが、熱《ねつ》帯《お》びたからだに清涼《せいりょう》を与《あた》えてくれる。



 花《はな》やいだ風情《ふぜい》の中、突如《とつじょ》きな臭《くさ》い空気が流れてくる。


 目の前に、パルプ紙《し》工場だろう建物《たてもの》があらわれる。


 そのすぐそばに公園がある。パンジーが向かう。


 大樹《たいじゅ》の幹《みき》が立ち並ぶ、公園。


 木陰《こかげ》の一角《いっかく》に東屋《ガゼボ》があって、その屋根の下に、サルビオラがいた。



「ごめんあそばせ」



 と、パンジー。


 ワイン色の髪《かみ》の後《うし》ろから、声をかける。


 驚《おどろ》くサルビオラ。

 ただ、振《ふ》り返《かえ》る前、すばやく手元《てもと》で何かを隠《かく》す仕草《しぐさ》をしたのだ。



「こちらに座《すわ》ってもよろしいですか?」



 訊《たず》ねて、数秒の後、サルビオラはうなずく。

 同席することは許してくれた。


 パンジーも東屋《ガゼボ》の日陰《ひかげ》に入り、ベンチに腰《こし》かける。


 サルビオラは沈黙《ちんもく》している。


 パンジーが持参《じさん》した袋《ふくろ》から「パンパン」のパンを取り出し、口につけると、さらに会話は生まれなくなる。


 しばらくそれが続いた。



 太陽《たいよう》が南中《なんちゅう》し、東屋《ガゼボ》は暗《くら》い影《かげ》に覆《おお》われる。


 目《め》を伏《ふ》せるサルビオラ。

 長い前髪というカーテンも手伝《てつだ》って、表情もうかがい知れない。


 それでも、色白《いろじろ》の肌《はだ》はみずみずしく光って見え、汗《あせ》の染《し》み込《こ》んだ作業着《さぎょうぎ》姿《すがた》に、パンジーは親近《しんきん》感を覚えた。



「……この前は、急にお声がけしてしまって、ごめんなさい。お会いできたのが、嬉《うれ》しくって」



 パンジーがようやく咀嚼《そしゃく》を終《お》えて、話すための口《くち》を開《ひら》く。



「サルビオラさんは、私《わたくし》の名前――『パ(・)ン(・)ジ(・)ー(・)』が花の名前だって、ご存《ぞん》じだったんですのね。私《わたくし》、パンジーって名前、大好きなんです。だから、光球《こうきゅう》のこと、本当に嬉しかったんですの」


「……それは。私も、名前に『ビ(・)オ(・)ラ(・)』って入っていて。同じだなと思ったから……」



 サルビオラは言葉を喉《のど》につかえさせながらも、何とかパンジーに返してくれる。



「同じ?」


「ビオラも、野生《やせい》のスミレを品種《ひんしゅ》改良《かいりょう》した花です。笑《わら》ってるような模様《もよう》で、小さな花をたくさんつける……」


「まあ! もしかして、光球《こうきゅう》に彫《ほ》ってくださったのって、そのビオラの花でしたの?」



 問《と》いに、サルビオラは首を半分ほど下げ、肯定《こうてい》とも無視《むし》ともつかない反応を示す。


 パンジーは自分の言ったことが、そうに違《ちが》いないと思い込んで、勘違《かんちが》いしていたことを謝《あやま》った。



「……本物《ほんもの》のパンジーは、見たことないんです。実家にいた頃《ころ》、旅《たび》のお貴族《きぞく》さまが、聞かせてくれて。ビオラよりずっと大きな花を咲かせる、って。……ステキですよね」



 昔話《むかしばなし》をするサルビオラは、どういう心境《しんきょう》か知れないが、現実《げんじつ》離《ばな》れした恋愛《れんあい》に夢見《ゆめみ》る少女のようにうっとりしたようすに見えた。


 彼女もまたステキだった。


 パンジーは、そんな彼女の純心《じゅんしん》へ、このように応える。



「ぱあっ! ほらっ。パンジーが咲きましたわ!」



 と、手《て》を葉《は》に、口《くち》開《あ》いた顔を花に見立《みた》てた、悪ふざけをもって。


 度《ど》しがたいほどのふてぶてしさしか覚《おぼ》え得《え》ない態度《たいど》だが……。

 不思議《ふしぎ》なことに、サルビオラは怒《おこ》るどころか、含《ふく》み笑《わら》いをしてくれる。



「サルビオラさんって、本当に植物がお好きなんですのね。慎《つつ》ましやかで、気品《きひん》があって。とってもお似合《にあ》いのご趣味《しゅみ》だと思いますわ。この前も、ベランダでお花《はな》を愛《め》でていらしたし」


「そ、それはハーブで。じゃなくて、あのときは、すみません……。驚《おどろ》いて、つい」


「構《かま》いませんわ。だって、これからいつでもサルビオラさんとお会いできるんですもの」



 パンジーは調子よく返事する。

 

 嬉しそうにする。


 サルビオラは、見るに、少し困惑《こんわく》している。



「今日、こうしてお話ししていただけたから、嫌《きら》われているわけじゃないって分かって。正直《しょうじき》、安心しましたわ……」


「嫌《きら》うとか! そういうんじゃ、ないです。ただ……」



 対面《たいめん》するパンジーに、サルビオラの言葉はそこまでしか聴《き》き取《と》れなかった。


 ただ、確《たし》かに彼女は続けた、「怖《こわ》くて」と。


 植物が、時季《じき》終《お》えた花びらを散《ち》らすように、冷酷《れいこく》に。



「もう行きます……!」



 と、サルビオラは律儀《りちぎ》にも断《ことわ》りを入《い》れ、東屋《ガゼボ》のベンチを立つ。


 瞬間《しゅんかん》、屋根《やね》の端《はし》から強《つよ》い日差《ひざ》しが放《はな》たれた。


 逆光《ぎゃっこう》の中、彼女のいたたまれなくなった表情が浮《う》き上《あ》がる。



 サルビオラは静《しず》かに去《さ》っていった。


 パンジーは公園に取《と》り残《のこ》された。


 すると、サルビオラの座《すわ》っていた場所の地面に、彼女がとっさに隠《かく》した何(・)か(・)の(・)紙(・)も転がっていた。


 パンジーはテーブルの下へもぐり込んで、その紙を拾《ひろ》い上《あ》げる。



「これって、便箋《びんせん》かしら?」



 落とし物は、誰《だれ》かへ宛《あ》てた手紙《てがみ》のようだ。


 ただ読むには忍《しの》びなく、パンジーは紙面《しめん》の汚《よご》れをはたき落とすだけしてから、袋《ふくろ》にしまった。


 下宿《げしゅく》に帰《かえ》ったら、彼女の家のポストに入れておこう。



 公園を出る。


 坂道《さかみち》を下《くだ》って、工場に戻ってくる。


 仕事をして。

 同僚《どうりょう》とだべって。


 終業《しゅうぎょう》のベルが鳴《な》ったら帰《かえ》る支度《したく》をして。

 家路《いえじ》について。

 夕食を食べに出て、公衆《こうしゅう》浴場《よくじょう》で身《み》を清《きよ》めて。



 やはり、どこにいてもパンジーとビオラの花は、ファクトリアには咲《さ》いていないようだった。


 公園での出来事《できごと》は、何か絵本《えほん》の物語《ものがたり》と記憶《きおく》とがごちゃ混《ま》ぜになっているのではないか――。


 夜更《よふ》けに、パンジーはそんなことを考《かんが》えて。

 休日にカフェで買って帰った、モカコーヒーを淹《い》れて、光球《こうきゅう》の明《あ》かりを眺《なが》めていた。


 名前もわからなくなった花《はな》の彫刻《ちょうこく》は、美《うつく》しく複雑《ふくざつ》に、内《うち》からの光《ひかり》を反射した。

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