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ファクトリアッ! 夢づくりの工場物語  作者: 石鬼 輪たつ
陰に風流あらざれば病となる
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18/31

第17輪 栄養(えいよう)パンジー

「パンジー。お疲《つか》れさまー。ちょっと来てー」



 5日間の仕事の最終《さいしゅう》日《び》。

 さらに、その仕事終わり。


 くたくたの作業着《さぎょうぎ》から私服《しふく》に着替《きが》えを済《す》ませたパンジーは、更衣室《こういしつ》の外で待っていたヒナに呼び止められる。


 のびやかな声は警戒《けいかい》に値《あたい》せず、パンジーは興味《きょうみ》津々(しんしん)と近くに寄っていく。


 そこで、ヒナは手《て》を後《うし》ろに隠《かく》していた。


 ゆっくり、手を差《さ》し出《だ》すと小さな茶《ちゃ》封筒《ぶうとう》があらわれる。



「今(・)週(・)のお給料《きゅうりょう》! よくがんばりました。また来週《らいしゅう》もよろしくね」


「あ、ありがとう、ございます……私《わたくし》の、お給料《きゅうりょう》ですのね。本当にっ!」



 パンジーは嬉《うれ》しさのあまり、茶《ちゃ》封筒《ぶうとう》を、ヒナの手ごと握《にぎ》りしめてしまった。



 帰《かえ》り道《みち》、居住《きょじゅう》区《く》までの坂道《さかみち》を下《くだ》る。


 空も大気《たいき》も、一面《いちめん》が夕焼《ゆうや》けの色をしている。


 パンジーは革靴《かわぐつ》のつま先をどこかへ引っかけないよう気遣《きづか》いながら、手元《てもと》の茶《ちゃ》封筒《ぶうとう》を開《ひら》く。


 中からは、大小《だいしょう》さまざまの金《きん》・銀《ぎん》貨《か》が出てきて。

 パンジーがらんらんとした目で見つめていると、刻《きざ》まれた小太《こぶと》りの男性像はことごとくそっぽを向《む》いてしまう。


 そんなことはお構《かま》いなしに指《ゆび》でつまみ上げ、幾《いく》らあるのか値段《ねだん》を数《かぞ》えた。



「あら。私《わたくし》の髪《かみ》より、ちょっと低いくらいしか……」



 パンジーは少し残念《ざんねん》がってつぶやく。


 ウェーブのかかった金髪《きんぱつ》が、1週間の労働《ろうどつ》対価《たいか》以上の値《ね》で売れたという過去のほうが驚《おどろ》きだろう、何も悲観《ひかん》することはない。


 足《た》りなければ、どうせ生《は》えてくるのだし残《のこ》りの髪もレンス商店へ売ってしまえばいいのだ。



「でもっ、はじめてのお給料《きゅうりょう》っ! んうー……っ! 返済《へんさい》に使う分は残しておいて。はあん、何に使おうかしら! ハハハハーン!」



 気分《きぶん》高揚《こうよう》したパンジー。


 鼻《はな》で歌《うた》いながら、居住区につながる道をなぜか通《とお》り過《す》ぎ、中央《ちゅうおう》広場《ひろば》へと下《くだ》っていく。


 多くの露店《ろてん》が店終《みせじま》いをする中、方々(ほうぼう)にちらほらと飲食《いんしょく》店《てん》の明《あ》かりが目立ち出す。


 パンジーはそこの、魚《さかな》料理の店に入って、上等《じょうとう》な食事に舌鼓《したつづみ》を打《う》った。

 


 ◆



 今日《こんにち》の太陽は、パンジーに気持ちのいい目覚めとともに、休息《きゅうそく》日《び》をもたらしてくれた。


 上体を起こすと、ベッドシーツに埋《う》もれた手《て》の全体、首筋《くびすじ》に鈍《にぶ》い痛みが走る。

 熱をはらんだ感覚がする。


 ……それも、すでに筋肉痛《きんにくつう》だと知っている。


 だから勢《いきお》いをつけ、びゅんと跳《は》ね起《お》きる!


 カーテンを開《ひら》いた先には、日差《ひざ》しと裏庭《うらにわ》。


 小さなベランダには物干《ものほ》し竿が、作業着《さぎょうぎ》と肌着《はだぎ》とその他《ほか》盛《も》りだくさんの衣類をつるしている。


 作業着のひとつに、パンジーの細い手指《てゆび》が触《ふ》れるものの、水気《みずけ》はほとんど感じられない。


 ほんの一晩(ひとばん)干しただけで、ファクトリアの風が新鮮《しんせん》な乾《かわ》きをくれたようだった。



「洗濯《せんたく》ものをー片《かた》づけたらー、イライとーおでかけー、ンハハーンっ」



 覚《おぼ》えたての鼻歌という娯楽《ごらく》を存分《ぞんぶん》に享受《きょうじゅ》するパンジー。


 昨日の仕事の昼休《ひるやす》み、見回りにやって来た工場長《こうじょうちょう》ブレビスに依頼《いらい》していた。


 休日《きゅうじつ》に、イライと外出する許可《きょか》をください、と。


 ブレビスは快諾《かいだく》してくれて、本日の予定と相《あい》なったのだ。


 さて、家事モードのパンジーは洗濯《せんたく》ものをつぎつぎ室内へ取り込んで、適当《テキトー》に畳《たた》んで、お下《さ》がりの衣装《いしょう》タンスにしまい込《こ》む。


 来週はヒナに、シワ伸《の》ばしの仕方《しかた》を学ぶべきだろう。



「あら……?」



 再度《さいど》ベランダに出たとたん、パンジーは手を止める。


 左を向いて固《かた》まってしまう。


 自身の角《かど》部屋《べや》から2つ隣《となり》のベランダ――昨日までは、いつ見ても仕切《しき》りが置《お》かれて隠されていた場所――に、開放《かいほう》的なウッドテラスがあって。


 素焼き(テラコッタ)の鉢植《はちう》えが、幾《いく》つも並《なら》んでいて。


 日差しの下《もと》で、空間《くうかん》が真《ま》っ白《しろ》く発光して見える。


 その中心に、見(・)覚(・)え(・)あ(・)る(・)人(・)物(・)の(・)姿(・)があった。



 パンジーと年《とし》の近い、若《わか》い娘《むすめ》。


 熟成《じゅくせい》したワインのような艶《つや》を帯《お》びた、赤《あか》みのある黒色の髪。


 目元にかかるほど伸ばされた長い前髪《まえがみ》の隙間《すきま》から、優《やさ》しい眼差《まなざ》しがのぞく。


 彼女は、鉢植《はちう》えの植物《しょくぶつ》たちへ、両手に抱《かか》えるジョウロの水を、静《しず》かにそそいでいる。



「え、っと……サ(・)ル(・)ビ(・)オ(・)ラ(・)さん?」



 パンジーは思い出した。


 工場《こうじょう》の1日体験(たいけん)をした日、細工《さいく》工程《こうてい》で出会った彼女のことを。



「っ!?」



 声にならない声。


 離《はな》れたパンジーには聞《き》こえないはずだったが、キン……と耳の裏《うら》にひびいたような感覚が走る。


 反射《はんしゃ》的に、パンジーの目尻《めじり》がしぼられる。


 次の瞬間《しゅんかん》にサルビオラは室内へ引き返そうとしていて、内履《うちば》きの足先《あしさき》だけが、パンジーの視界《しかい》に映《うつ》った。



「あいさつをする前に、行ってしまわれたわ……」



 パンジーはしばらく呆気《あっけ》にとられていた。


 しかし、同じ屋根《やね》の下《した》に住《す》んでいるとわかったのだ、急がずともまた顔を合わせる機会《チャンス》はある。


 気を取り直して、家事《かじ》を済《す》ませ、支度《したく》に取りかかる。


 リビングにもどったパンジーは、ドレスに着替《きが》える。

 黄金《こがね》色の、美《うつく》しい刺繍《ししゅう》が入ったドレスだ。


 久々(ひさびさ)に袖《そで》を通《とお》すが、髪《かみ》が短《みじか》いことを忘《わす》れて背中《せなか》からかき上げる仕草《しぐさ》をしてしまう。


 誰《だれ》かが石鹸《せっけん》代《が》わりに入れた灰《はい》と油《あぶら》カスが、やや布地《ぬのじ》に染《し》みたドレスは、着るとどうしてか、パンジーに懐《なつ》かしい気持ちを引き起こした。


 こ(・)こ(・)とは違《ちが》う匂《にお》いがした。


 パンジーは目を伏《ふ》せた。



 町に出ると、強《つよ》い風が吹《ふ》いている。

 心《こころ》なしか、太陽も近いように感じる。



「そういえば、そろそろ夏《なつ》になるのね。夏服のことも考えておかないと……」



 初夏《しょか》の、少し熱《ねつ》と湿気《しっけ》をともなった空気。


 それをマーケットの人混《ひとご》みとともにかき分けて、パンジーがやって来た場所は、工場《こうじょう》区《く》の坂《さか》途中《とちゅう》にある、年季《ねんき》の入《はい》った建物《たてもの》だ。


 正門《せいもん》のアーチには「光球《こうきゅう》工場《こうじょう》荷役犬《にえきいぬ》舎《しゃ》(LIGHT BULB FACTORY'S DOG HOUSE)」と書かれ、中に入るとすぐにも荷役犬《にえきいぬ》たちの吠《ほ》える声が聞こえてくる。


 パンジーを縦《たて》に4人ほど積《つ》み上《あ》げなければ届《とど》きそうもない高い天井《てんじょう》の、巨大な平屋《ひらや》建《だ》ての犬舎《けんしゃ》に、見える限りは7頭の荷役犬《にえきいぬ》がいる。


 いずれも人の倍《ばい》以上もある体躯《たいく》をしているが、犬種《けんしゅ》や体格《たいかく》に統一《とういつ》感もなく、きっと実力や素質《そしつ》で選《えら》ばれたものたちなのだろう。



「イライー? 迎《むか》えに来《き》ましたw――んわっ!」



 背後《はいご》から飛《と》びかかってきた! 


 視認《しにん》できなかった8頭目の荷役犬《にえきいぬ》。


 頭《あたま》は白色、首《くび》から下は茶色、いずれもふさふさの体毛《たいもう》に覆《おお》われていて、毛がパンジーを呑《の》み込《こ》もうとする。



「パンセロットさんですね? お待ちしてました。この子、昨晩《さくばん》からもうソワソワしてて。ふふふっ、どうぞ、いってらっしゃいませ」



 毛で前が見えないパンジーに、荷役犬《にえきいぬ》の世話人《せわにん》だろう女性のあいさつだけが聞こえる。


 やっと、パンジーはイライとの再会《さいかい》を噛《か》みしめて、嬉《うれ》しい気持ちを覚えた。



「お疲《つか》れさま、イライ!」



 イライにしばらくしがみついていたパンジーは理不尽《りふじん》にも、イライの口にくわえられ投《な》げ飛《と》ばされる。


 目を回《まわ》している間《あいだ》に、大きな背中へと乗せられ、工場《こうじょう》区《く》を出た。



 ◆



「――さあっ、どこへ行きましょう! なんてっ。うふふ、実《じつ》はもう決《き》めていますの。イライ?」



 イライの背に乗せられたパンジーは、小さく笑《わら》った後、イライに方角《ほうがく》を指《さ》し示《しめ》す。


 イライは強風に煽《あお》られつつ、のんびり歩き出す。

 そうして坂道を下って中央《ちゅうおう》広場《ひろば》へ。


 露店《ろてん》通《どお》りを、人混《ひとご》みを、噴水《ふんすい》を抜《ぬ》けていき、目的地にたどり着いた。


 ファクトリアの正門《せいもん》にほど近い商店。


 小麦《こむぎ》と砂糖《さとう》を焼《や》いた甘《あま》い匂《にお》いが、風に乗って香《かお》る。



「『パ(・)ン(・)パ(・)ン(・)』ですわ!」



 なんで? 


 と、言わんばかりにイライは顔をしかめる。


 いいからついてこいとパンジーが先導《せんどう》し、相《あい》変《か》わらず「OPENE」の木札《きふだ》がかかった戸《と》の前に来ると、中からイーストが出迎《でむか》えてくれる。



「おはよう! もう準備《じゅんび》できてるよ。さっ、上《あ》がっておくれ」



 案内を受け、パンジーは細身《ほそみ》のイーストの横《よこ》を通って店内、その奥《おく》のダイニングに入る。


 ダイニングには先のパン特有《とくゆう》な匂《にお》いとは違《ちが》う、海《うみ》の匂いもわずかに漂《ただよ》っている。


 イーストも来ると、西《にし》向きにある戸《と》を大胆《だいたん》にも開《あ》け放《はな》った。


 そこから、店裏《みせうら》に回《まわ》り込《こ》んだイライが顔を出す。



「イライ、今日は腕《うで》によりをかけて作ったから。好きなだけ食べるんだよ」



 そう言って、イーストは厨房《ちゅうぼう》から料理の皿をもってくる。


 料理とは、タルト生地《きじ》に焼き目のついたチーズ、ベシャメル(ホワイト)ソースを詰《つ》め、大《おお》ぶりなむきエビと、マッシュしたカボチャの乗ったものだ。


 イライは表情《ひょうじょう》豊《ゆた》かな犬ではあるが、料理を見るとなぜか喜《き》と哀《あい》入《い》り混《ま》じったようすになった。



「憶《おぼ》えていまして? 昔《むかし》、お父さまと遠出《とおで》した港《みなと》町《まち》で食べた、エビとカボチャのタルト。イライは特《とく》に気に入っていた、って。帰《かえ》ってきた、お父さまが嬉《うれ》しそうに話してくれましたわ」



 記憶《きおく》の如何《いかん》について、イライに答えを聞くことは難《むずか》しい。


 しかし、毛《け》むくじゃらのマズルを窓《まど》から突《つ》き出《だ》して、執拗《しつよう》に料理の匂《にお》いをかぐ姿《すがた》を見ると、思《おも》い出《で》を懐《なつ》かしむみたいでもあった。



「私《わたくし》の、身勝手《みがって》に付《つ》き合《あ》わせてしまって、ごめんなさい……。きっと、イライも寂《さび》しいと思って」



 だから、わざわざイライの好物《こうぶつ》を用意したのだと。

 言葉《ことば》足《た》らずではあるが、言いたいことはわかる。


 それすらもパンジーの身勝手《みがって》に変《か》わりはない。



「今さらなのはわかっていますわ。でも、お父さまたちのために、充分《じゅうぶん》なお金が貯《た》まるまで……私《わたくし》と一緒《いっしょ》に、がんばってほしいんですのっ!」



 そして、謝罪《しゃざい》は、今後《こんご》もイライをファクトリアに留《とど》めておくための免罪符《めんざいふ》なのだ。



 イライはきゅう、と鳴《な》く。


 彼は利発《りはつ》な犬だったから、パンジーと言葉が通《つう》じずとも、信念《しんねん》を感じ取ることはできただろう。


 その、前向《まえむ》きな吾《わ》がままさも。




 ――鳴いたのは、同意のためだった。


 彼はタルトへかぶりついた。



「ホントに好きだったのね! パンジー、よかったね」



 はた目に見ていたイーストは、ふたりの対話《たいわ》を見て、優《やさ》しく微笑《ほほえ》んでくれる。


 パンジーも目を細《ほそ》め、ふたりに笑《え》みを返《かえ》す。


 パンジーは時間を愛《いと》おしむように歩いて、イライに近寄《ちかよ》る。


 タルトが乗った皿に、約束《やくそく》の握手《あくしゅ》を交《か》わすがごとく手を伸ばす。


 すると、イライはパンジーに鼻水《はなみず》を飛ばし、歯《は》をむいて威嚇《いかく》した。



 タルトを諦《あきら》めたパンジーは、代《か》わりに「パンパン」で両手に抱《かか》えるほどたくさんのパンを買った。


 当人は言わなかったし、当然《とうぜん》のことだが、例《れい》のタルトもイーストに依頼料《いらいりょう》を支払《しはら》って作ってもらったものだ。


 こんなことは、かつての箱《はこ》入《い》り娘《むすめ》であれば考えつきもしなかっただろう。



 さて、パンジーとイライが次に向かった先は、ファクトリアを出て工場《こうじょう》区《く》側《がわ》へ回り、丘陵《きゅうりょう》を下《くだ》った場所にある小さな滝《たき》。


 沢水《さわみず》が白々(しらじら)と降《ふ》りそそぐ滝壺《たきつぼ》には、子どもが遊《あそ》ぶ池《いけ》がある。


 保護者《ほごしゃ》は野草《やそう》採《と》りにでも行っているのか、子どもたちは野放図《のほうず》に騒《さわ》ぎちらかしている。



「イライっ、水遊《みずあそ》びしましょうっ!」



 あろうことか、パンジーはためらいなくドレスを脱《ぬ》いで、池《いけ》に飛《と》び込《こ》んだ! 


 ドレスの下には膝下《ひざした》丈《たけ》のシ(・)ュ(・)ミ(・)ー(・)ズ(・)を着《き》ている(麻地《あさじ》のワンピース。だが機能的には下着《したぎ》と同じであり、それで人前《ひとまえ》に出ることは恥《はじ》も同然《どうぜん》なのだ)。


 ものの、それは水に透《す》け、意味をなさなくなる。


 公衆《こうしゅう》浴場《よくじょう》で、肌《はだ》をさらすことを恥《は》じらっていたのは何だったのか。

 背《せ》が伸《の》びただけの子どもに逆戻《ぎゃくもど》りだ。


 呆《あき》れともウズウズとも取れる表情のイライも、パンジーの後《あと》に続《つづ》く。


 ドボンっ!


 荷役犬《にえきいぬ》の巨体《きょたい》が飛び込んだ池《いけ》は荒《あ》れに荒《あ》れ、波《なみ》を起こす。

 パンジーは先にいた子どもたちに混《ま》じって、波《なみ》に打《う》たれた。



 しばらく遊んで、疲《つか》れてしまったからだを癒《いや》すとともに、シュミーズを乾《かわ》かすため天日《てんぴ》にみずからを干《ほ》すパンジー。


 草の茂《しげ》る丘《おか》の上、イライと隣《とな》り合って横《よこ》になる。



「イライももう、6歳《さい》になりますわね。こんなに遊んだのは子犬《こいぬ》……って言っても、子どもの私《わたくし》と同じくらい大きかったけれど。それ以来《いらい》かしら?」



 パンジーが回顧《かいこ》にふけった顔で語りかける。


 イライは口にパンをくわえて、ものを言わない。



「私《わたくし》、ファクトリアに来て、自分がどんなに小《ちい》さい世界《せかい》で生きてきたのか、知りましたわ。だから、お屋敷《やしき》にはそんなにいい思い出がないけれど……うふふっ。イライが産《う》まれて。汚《よご》れてきたらお風呂《ふろ》で洗《あら》ってあげて、一緒に遊んで。少ない時間だったけれど、今でも大好きなんですの」



 打《う》ち明《あ》けると、パンジーは手を伸ばし、イライの肉球《にくきゅう》に触《ふ》れる。


 イライが首を振り、彼女の手を舐《な》めてくる。


 手は、どこで挟《はさ》んだのか若干《じゃっかん》赤《あか》く腫《は》れていた。


 パンジーは、気がつかないまま。


 くすぐったがり、嬉《うれ》しそうに少女《しょうじょ》らしい無邪気《むじゃき》な笑い声をもらす。



「ねえ。仕事で、色んなところへ行ってきたんでしょ? どんな景色を見てきたの? もう少し、余裕《よゆう》が出てきたら、きっと一緒に行きましょうね。約束《やくそく》ですわよっ」



 言葉の終《お》わりに、パンジーの息《いき》は静《しず》かなものになり……最後《さいご》には、昼寝《ひるね》を始めてしまった。


 長いまつ毛《げ》が、彼女の安《やす》らか呼吸《こきゅう》に合わせて揺《ゆ》れる。


 肩上《かたうえ》で切《き》り揃《そろ》えた、ウェーブの金髪《きんぱつ》は風に乱《みだ》される。


 シュミーズもドレスも、イライの毛と草まみれになっている。


 イライは、風上《かざかみ》に移《うつ》り、パンジーのからだに添《そ》うようにして、目《め》を閉《と》じる。


 太陽はそれから10分程度(ていど)、雲《くも》に隠《かく》れた。

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