第17輪 栄養(えいよう)パンジー
「パンジー。お疲れさまー。ちょっと来てー」
5日間の仕事の最終日。
さらに、その仕事終わり。
くたくたの作業着から私服に着替えを済ませたパンジーは、更衣室の外で待っていたヒナに呼び止められる。
のびやかな声は警戒に値せず、パンジーは興味津々と近くに寄っていく。
そこで、ヒナは手を後ろに隠していた。
ゆっくり、手を差し出すと小さな茶封筒があらわれる。
「今週のお給料! よくがんばりました。また来週もよろしくね」
「あ、ありがとう、ございます……私の、お給料ですのね。本当にっ!」
パンジーは嬉しさのあまり、茶封筒を、ヒナの手ごと握りしめてしまった。
帰り道、居住区までの坂道を下る。
空も大気も、一面が夕焼けの色をしている。
パンジーは革靴のつま先をどこかへ引っかけないよう気遣いながら、手元の茶封筒を開く。
中からは、大小さまざまの金・銀貨が出てきて。
パンジーがらんらんとした目で見つめていると、刻まれた小太りの男性像はことごとくそっぽを向いてしまう。
そんなことはお構いなしに指でつまみ上げ、幾らあるのか値段を数えた。
「あら。私の髪より、ちょっと低いくらいしか……」
パンジーは少し残念がってつぶやく。
ウェーブのかかった金髪が、1週間の労働対価以上の値で売れたという過去のほうが驚きだろう、何も悲観することはない。
足りなければ、どうせ生えてくるのだし残りの髪もレンス商店へ売ってしまえばいいのだ。
「でもっ、はじめてのお給料っ! んうー……っ! 返済に使う分は残しておいて。はあん、何に使おうかしら! ハハハハーン!」
気分高揚したパンジー。
鼻で歌いながら、居住区につながる道をなぜか通り過ぎ、中央広場へと下っていく。
多くの露店が店終いをする中、方々にちらほらと飲食店の明かりが目立ち出す。
パンジーはそこの、魚料理の店に入って、上等な食事に舌鼓を打った。
◆
今日の太陽は、パンジーに気持ちのいい目覚めとともに、休息日をもたらしてくれた。
上体を起こすと、ベッドシーツに埋もれた手の全体、首筋に鈍い痛みが走る。
熱をはらんだ感覚がする。
……それも、すでに筋肉痛だと知っている。
だから勢いをつけ、びゅんと跳ね起きる!
カーテンを開いた先には、日差しと裏庭。
小さなベランダには物干し竿が、作業着と肌着とその他盛りだくさんの衣類をつるしている。
作業着のひとつに、パンジーの細い手指が触れるものの、水気はほとんど感じられない。
ほんの一晩干しただけで、ファクトリアの風が新鮮な乾きをくれたようだった。
「洗濯ものをー片づけたらー、イライとーおでかけー、ンハハーンっ」
覚えたての鼻歌という娯楽を存分に享受するパンジー。
昨日の仕事の昼休み、見回りにやって来た工場長ブレビスに依頼していた。
休日に、イライと外出する許可をください、と。
ブレビスは快諾してくれて、本日の予定と相なったのだ。
さて、家事モードのパンジーは洗濯ものをつぎつぎ室内へ取り込んで、適当に畳んで、お下がりの衣装タンスにしまい込む。
来週はヒナに、シワ伸ばしの仕方を学ぶべきだろう。
「あら……?」
再度ベランダに出たとたん、パンジーは手を止める。
左を向いて固まってしまう。
自身の角部屋から2つ隣のベランダ――昨日までは、いつ見ても仕切りが置かれて隠されていた場所――に、開放的なウッドテラスがあって。
素焼きの鉢植えが、幾つも並んでいて。
日差しの下で、空間が真っ白く発光して見える。
その中心に、見覚えある人物の姿があった。
パンジーと年の近い、若い娘。
熟成したワインのような艶を帯びた、赤みのある黒色の髪。
目元にかかるほど伸ばされた長い前髪の隙間から、優しい眼差しがのぞく。
彼女は、鉢植えの植物たちへ、両手に抱えるジョウロの水を、静かにそそいでいる。
「え、っと……サルビオラさん?」
パンジーは思い出した。
工場の1日体験をした日、細工工程で出会った彼女のことを。
「っ!?」
声にならない声。
離れたパンジーには聞こえないはずだったが、キン……と耳の裏にひびいたような感覚が走る。
反射的に、パンジーの目尻がしぼられる。
次の瞬間にサルビオラは室内へ引き返そうとしていて、内履きの足先だけが、パンジーの視界に映った。
「あいさつをする前に、行ってしまわれたわ……」
パンジーはしばらく呆気にとられていた。
しかし、同じ屋根の下に住んでいるとわかったのだ、急がずともまた顔を合わせる機会はある。
気を取り直して、家事を済ませ、支度に取りかかる。
リビングにもどったパンジーは、ドレスに着替える。
黄金色の、美しい刺繍が入ったドレスだ。
久々に袖を通すが、髪が短いことを忘れて背中からかき上げる仕草をしてしまう。
誰かが石鹸代わりに入れた灰と油カスが、やや布地に染みたドレスは、着るとどうしてか、パンジーに懐かしい気持ちを引き起こした。
こことは違う匂いがした。
パンジーは目を伏せた。
町に出ると、強い風が吹いている。
心なしか、太陽も近いように感じる。
「そういえば、そろそろ夏になるのね。夏服のことも考えておかないと……」
初夏の、少し熱と湿気をともなった空気。
それをマーケットの人混みとともにかき分けて、パンジーがやって来た場所は、工場区の坂途中にある、年季の入った建物だ。
正門のアーチには「光球工場荷役犬舎(LIGHT BULB FACTORY'S DOG HOUSE)」と書かれ、中に入るとすぐにも荷役犬たちの吠える声が聞こえてくる。
パンジーを縦に4人ほど積み上げなければ届きそうもない高い天井の、巨大な平屋建ての犬舎に、見える限りは7頭の荷役犬がいる。
いずれも人の倍以上もある体躯をしているが、犬種や体格に統一感もなく、きっと実力や素質で選ばれたものたちなのだろう。
「イライー? 迎えに来ましたw――んわっ!」
背後から飛びかかってきた!
視認できなかった8頭目の荷役犬。
頭は白色、首から下は茶色、いずれもふさふさの体毛に覆われていて、毛がパンジーを呑み込もうとする。
「パンセロットさんですね? お待ちしてました。この子、昨晩からもうソワソワしてて。ふふふっ、どうぞ、いってらっしゃいませ」
毛で前が見えないパンジーに、荷役犬の世話人だろう女性のあいさつだけが聞こえる。
やっと、パンジーはイライとの再会を噛みしめて、嬉しい気持ちを覚えた。
「お疲れさま、イライ!」
イライにしばらくしがみついていたパンジーは理不尽にも、イライの口にくわえられ投げ飛ばされる。
目を回している間に、大きな背中へと乗せられ、工場区を出た。
◆
「――さあっ、どこへ行きましょう! なんてっ。うふふ、実はもう決めていますの。イライ?」
イライの背に乗せられたパンジーは、小さく笑った後、イライに方角を指し示す。
イライは強風に煽られつつ、のんびり歩き出す。
そうして坂道を下って中央広場へ。
露店通りを、人混みを、噴水を抜けていき、目的地にたどり着いた。
ファクトリアの正門にほど近い商店。
小麦と砂糖を焼いた甘い匂いが、風に乗って香る。
「『パンパン』ですわ!」
なんで?
と、言わんばかりにイライは顔をしかめる。
いいからついてこいとパンジーが先導し、相変わらず「OPENE」の木札がかかった戸の前に来ると、中からイーストが出迎えてくれる。
「おはよう! もう準備できてるよ。さっ、上がっておくれ」
案内を受け、パンジーは細身のイーストの横を通って店内、その奥のダイニングに入る。
ダイニングには先のパン特有な匂いとは違う、海の匂いもわずかに漂っている。
イーストも来ると、西向きにある戸を大胆にも開け放った。
そこから、店裏に回り込んだイライが顔を出す。
「イライ、今日は腕によりをかけて作ったから。好きなだけ食べるんだよ」
そう言って、イーストは厨房から料理の皿をもってくる。
料理とは、タルト生地に焼き目のついたチーズ、ベシャメル(ホワイト)ソースを詰め、大ぶりなむきエビと、マッシュしたカボチャの乗ったものだ。
イライは表情豊かな犬ではあるが、料理を見るとなぜか喜と哀入り混じったようすになった。
「憶えていまして? 昔、お父さまと遠出した港町で食べた、エビとカボチャのタルト。イライは特に気に入っていた、って。帰ってきた、お父さまが嬉しそうに話してくれましたわ」
記憶の如何について、イライに答えを聞くことは難しい。
しかし、毛むくじゃらのマズルを窓から突き出して、執拗に料理の匂いをかぐ姿を見ると、思い出を懐かしむみたいでもあった。
「私の、身勝手に付き合わせてしまって、ごめんなさい……。きっと、イライも寂しいと思って」
だから、わざわざイライの好物を用意したのだと。
言葉足らずではあるが、言いたいことはわかる。
それすらもパンジーの身勝手に変わりはない。
「今さらなのはわかっていますわ。でも、お父さまたちのために、充分なお金が貯まるまで……私と一緒に、がんばってほしいんですのっ!」
そして、謝罪は、今後もイライをファクトリアに留めておくための免罪符なのだ。
イライはきゅう、と鳴く。
彼は利発な犬だったから、パンジーと言葉が通じずとも、信念を感じ取ることはできただろう。
その、前向きな吾がままさも。
――鳴いたのは、同意のためだった。
彼はタルトへかぶりついた。
「ホントに好きだったのね! パンジー、よかったね」
はた目に見ていたイーストは、ふたりの対話を見て、優しく微笑んでくれる。
パンジーも目を細め、ふたりに笑みを返す。
パンジーは時間を愛おしむように歩いて、イライに近寄る。
タルトが乗った皿に、約束の握手を交わすがごとく手を伸ばす。
すると、イライはパンジーに鼻水を飛ばし、歯をむいて威嚇した。
タルトを諦めたパンジーは、代わりに「パンパン」で両手に抱えるほどたくさんのパンを買った。
当人は言わなかったし、当然のことだが、例のタルトもイーストに依頼料を支払って作ってもらったものだ。
こんなことは、かつての箱入り娘であれば考えつきもしなかっただろう。
さて、パンジーとイライが次に向かった先は、ファクトリアを出て工場区側へ回り、丘陵を下った場所にある小さな滝。
沢水が白々と降りそそぐ滝壺には、子どもが遊ぶ池がある。
保護者は野草採りにでも行っているのか、子どもたちは野放図に騒ぎちらかしている。
「イライっ、水遊びしましょうっ!」
あろうことか、パンジーはためらいなくドレスを脱いで、池に飛び込んだ!
ドレスの下には膝下丈のシュミーズを着ている(麻地のワンピース。だが機能的には下着と同じであり、それで人前に出ることは恥も同然なのだ)。
ものの、それは水に透け、意味をなさなくなる。
公衆浴場で、肌をさらすことを恥じらっていたのは何だったのか。
背が伸びただけの子どもに逆戻りだ。
呆れともウズウズとも取れる表情のイライも、パンジーの後に続く。
ドボンっ!
荷役犬の巨体が飛び込んだ池は荒れに荒れ、波を起こす。
パンジーは先にいた子どもたちに混じって、波に打たれた。
しばらく遊んで、疲れてしまったからだを癒すとともに、シュミーズを乾かすため天日にみずからを干すパンジー。
草の茂る丘の上、イライと隣り合って横になる。
「イライももう、6歳になりますわね。こんなに遊んだのは子犬……って言っても、子どもの私と同じくらい大きかったけれど。それ以来かしら?」
パンジーが回顧にふけった顔で語りかける。
イライは口にパンをくわえて、ものを言わない。
「私、ファクトリアに来て、自分がどんなに小さい世界で生きてきたのか、知りましたわ。だから、お屋敷にはそんなにいい思い出がないけれど……うふふっ。イライが産まれて。汚れてきたらお風呂で洗ってあげて、一緒に遊んで。少ない時間だったけれど、今でも大好きなんですの」
打ち明けると、パンジーは手を伸ばし、イライの肉球に触れる。
イライが首を振り、彼女の手を舐めてくる。
手は、どこで挟んだのか若干赤く腫れていた。
パンジーは、気がつかないまま。
くすぐったがり、嬉しそうに少女らしい無邪気な笑い声をもらす。
「ねえ。仕事で、色んなところへ行ってきたんでしょ? どんな景色を見てきたの? もう少し、余裕が出てきたら、きっと一緒に行きましょうね。約束ですわよっ」
言葉の終わりに、パンジーの息は静かなものになり……最後には、昼寝を始めてしまった。
長いまつ毛が、彼女の安らか呼吸に合わせて揺れる。
肩上で切り揃えた、ウェーブの金髪は風に乱される。
シュミーズもドレスも、イライの毛と草まみれになっている。
イライは、風上に移り、パンジーのからだに添うようにして、目を閉じる。
太陽はそれから10分程度、雲に隠れた。




