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第14輪 格闘(かくとう)パンジー

 パンジーの、柔《やわ》らかく閉《と》じられた目《ま》ぶたが上がる。


 同時に、また柔らかな朝日《あさひ》が、カーテンの精緻《せいち》な刺繍《ししゅう》のあいだを通《とお》って差《さ》し込《こ》んできて。


 パンジーの視《し》神経《しんけい》の奥《おく》の奥へと、染《し》みわたった。



「ひぎっ!?」



 自然《しぜん》がもたらしてくれる穏《おだ》やかな目覚め。


 というのに、どうしてかパンジーは引きつったような短《みじか》い悲鳴《ひめい》を発《はっ》して。


 ベッドメイキングの前のブレイクなどとの冗談《じょうだん》のつもりか、苦悶《くもん》の表情を浮《う》かべ、さらにのたうち回《まわ》ってみせる。


 それは、単《たん》に小娘《こむすめ》の癇癪《かんしゃく》という事情ではなかった。



「か、からだがっ、痛《いった》いですわぁ……」



 それは恐《おそ》らく、筋肉痛《きんにくつう》だろう。


 手首《てくび》、手の表《おもて》に裏《うら》、首筋《くびすじ》へと及《およ》ぶ、熱《ねつ》をもった痛みとしびれ。


 お屋敷《やしき》という無風《むふう》の環境《かんきょう》に育ったパンジーは、今《いま》しがた自身をむしばむ執拗《しつよう》なその感覚の正体に、見当《けんとう》がつかなかった。


 だから、まっさきにお医者《いしゃ》にかかる必要を考えていた。



(で、でも、診察《しんさつ》にもきっとお金がかかるし……。働《はたら》けない、こともないし……)



 能天気《のうてんき》なパンジーは、重病《じゅうびょう》にめげない健気《けなげ》なヒロインを気《き》どりながら、よろよろと立ち上がって、くの字《じ》の体勢《たいせい》で作業着《さぎょうぎ》に着替《きが》え始める。


 もっとも筋肉痛《きんにくつう》とは、チャレンジから得《え》た達成《たっせい》感の余韻《よいん》――否《いな》、後味《あとあじ》のようなもので、いずれは飽《あ》きてしまうものだ。


 こうやって感覚に大げさにくよくよしているうちが、きっと一番《いちばん》楽《たの》しいに違《ちが》いない。



「い、いってきまーす……」



 パンジーは部屋に向かってあいさつする。


 使用感は少ないものの、若干《じゃっかん》の粉末《ふんまつ》汚《よご》れと繊維《せんい》のほつれをきたした、誰かのお下《さ》がりの作業着姿(すがた)で。


 外に出ると、昨日は気がつかなかった――ピンクと白の鮮《あざ》やかな花が、太陽の方を向いて、玄関《げんかん》前の段《だん》つき一面《いちめん》に咲《さ》いていた。


 パンジーは花たちを踏《ふ》まぬよう、へたくそなスキップで跳《は》ねてから、そのままの勢《いきお》いで道に出る。



 ◆



 光球《こうきゅう》工場《こうじょう》に着《つ》いた。

 朝礼が始まるまで、時間がある。


 何をしていようかと思案《しあん》するパンジーは、製造《せいぞう》部《ぶ》のあたりをぐるぐるとそぞろ歩きする。


 作業工程を眺《なが》め見れば、やはり今日も、始業前というのに幾人《いくにん》もの職人《しょくにん》が何ごとか仕事をしていた。



 気がつけばパンジーの足は、自身の担当《たんとう》する球幹《きゅうかん》工程《こうてい》まで歩き出していた。


 まだ誰もいないはず。

 しかし、誰かいるとすれば、一体《いったい》何をしているのか?


 気になって来てみると……人影《ひとかげ》が、あった。

 

 それが真相《しんそう》だが、体感として正確ではない。

 パンジーが工程に近づいた時点で、すでに甲高《かんだか》い金属音が断続《だんぞく》的に聞こえてきた。


 音の発生源《はっせいげん》を見に行くと、人影《ひとかげ》があったのだ。



「あの……何をなさっているんですの?」



 おずおずと訊《たず》ねるパンジー。


 人影は、そこでようやく彼女の存在に気づいたという風《ふう》に、顔を向けてきて、その手を止《と》めた。


 手にはおっかない大きな金槌《かなづち》が握《にぎ》られている。


 もっとも、その職人の見た目はどうにも、パンジーよりずっと若《わか》い少女という印象だった。


 丸《まる》っこい顔に、丸《まる》っこい縁《ふち》のメガネをかけ、髪型《かみがた》は黒髪のお団子《だんご》。


 それにメガネの鎖《チェーン》を巻《ま》いて固定している。

 金槌《かなづち》を振《ふ》るっても落ちないようにするためだ。



「外装《がいそう》をつくって……じゃなくて。誰ですか? ここ、球幹《きゅうかん》工程なんですけど……」



 職人の少女が発したのは――ネガティブな疑《うたが》いの言葉とは正反対の、美しい声《こえ》だ。


 原《はら》っぱに一陣《いちじん》の涼風《りょうふう》が吹《ふ》き、草本《そうほん》を撫《な》でいつくしむような情感《じょうかん》の音《ね》。


 心《こころ》が惹《ひ》きつけられる……そうして聞き入って、にんまり口《くち》が開《ひら》きっぱなしになるパンジーに反《はん》して、職人の少女はさらに警戒《けいかい》心《しん》をつのらせる。



「フ(・)ォ(・)ル(・)ミ(・)ン(・)? 失礼《ごあいさつ》だよ。パンセロットさんは、うちの期待の新人なんだから」



 と、横やりが入る。


 2人が見ると、手押《てお》し車《ぐるま》に山盛《やまも》りの「揺《ゆ》らし石《いし》」粉末《ふんまつ》を載《の》せた、茶髪《ちゃぱつ》の麗人《れいじん》、セントだ。


 神出《しんしゅつ》鬼没《きぼつ》とはこのこと、パンジーたちは荷運《にはこ》びする彼の気配《けはい》、手押し車の錆《さ》びた車輪《しゃりん》の音に気づくこともできなかった。


 職人の少女は(セントの諫言《かんげん》あるいは登場に)驚《おどろ》いた顔になり、パンジーという存在をまじまじと見つめる。



「新人、って……そっか。シフォンさんの」



 と、ひとり言《ごと》を言ってから、ようやくパンジーの目に向き合う。



「はじめまして、フォルミンっていいます。その…………よろしくお願いします」



 どこか納得《なっとく》していないようすながら、フォルミンという職人の少女はうやうやしく自己紹介をしてくれる。


 それで、パンジーといえば、邪《よこしま》な感情などひとっつも浮《う》かばずに、ただ嬉《うれ》しい気持ちになってしまった。



「まあ、こちらこそ、よろしくお願い申《もう》し上《あ》げます! 私《わたくし》はパンセロット・コンサバンスと申しますわ。どうぞ、パンジーと呼んで――あら、セントさんにはお伝えしていなかったかしら!」



 言葉たちから、彼女のなんとも言いがたい人柄《ひとがら》が伝《つた》わったのかもしれない。


 それを聞いたばかりのフォルミンも、ふいに相好《そうごう》をくずして、ほほ笑《え》んでいた。



 マイペースなパンジーは、2人にあらためて愛称《あいしょう》のことを説明する。


 まったく、パンジーのナゾの執着《しゅうちゃく》に付き合う道理《どうり》もないが……、「パンセロットさんって長くて呼びにくかったから、助かるよ」と、セントが前向《まえむ》きな返事をくれたお陰《かげ》で、この場は和《なご》やかに収《おさ》まりがついた。



「さて! やっと(球幹工程の)全員そろったね。ちょうどいいや、パンジーには午前中、うちのひと通《とお》りの仕事を見てもらおうかなー」



 セントが言った。


 まもなく朝礼《ちょうれい》の時間となり、パンジーは昨日と同じ作法《さほう》をとる。


 そしてこの後も、昨日と同じように働き始めるつもりだった。


 しかし、先のセントの提案《ていあん》がパンジーの手を取ってきて。

 パンジーは、ふたたび見学者《けんがくしゃ》の席《せき》へといざなわれた。



「セントさん。仕事を見る、とおっしゃっていましたけれど……」


「ああ、うん。しばらくパンジーには、シートづくりの作業を任《まか》せるつもりだけど、球幹《きゅうかん》工程《こうてい》には他にも仕事があってねー。シートを取りつける球幹《きゅうかん》外装《がいそう》でしょ。『揺《ゆ》らし石《いし》』の粉末《ふんまつ》でしょ。発光部《はっこうぶ》の金属線でしょ。そんで、もろもろの測定《そくてい》と検査《けんさ》!」


「そ、そんなに細《こま》かく分かれているんですのねっ。知りませんでしたわ」



 セントは軽口に言ってみせたし、考えてみれば当然《とうぜん》のことだろう。


 製造《せいぞう》部《ぶ》の球幹工程。

 光球《こうきゅう》工場《こうじょう》全体の、2割ほどという小さな作業場。


 職人はパンジー、セント、フォルミンと、共通語の通じない他2名ばかり。


 つくっている球幹自体も、光球を照明《しょうめい》たらしめる「心臓部《しんぞうぶ》」であるものの、消費者《しょうひしゃ》にとってはあくまでも光《ひかり》の当《あ》たらない、地味《じみ》な部品《ぶひん》だ。



 フォルミンの仕事風景を見る。


 深《ふか》い金《きん》光沢《こうたく》を帯びた1枚の金属板《きんぞくばん》を、手回《てまわ》し式の曲げ加工機(ベンダー)で円筒《えんとう》状に曲《ま》げ、金槌《かなづち》で叩《たた》いて規格品《きかくひん》へと仕上《しあ》げる。


 昨日は静《しず》かだった工程内に、ひらめきのごとき轟音《ごうおん》が鳴《な》る。


 しとやかそうで華奢《きゃしゃ》な少女が、迷《まよ》いなく、激《はげ》しく金槌を振《ふ》る。


 豪快《ごうかい》な光景がくり広げられている。



 次《つ》いで、パンジーとセントは、球幹工程から歩いて少しの場所にある、重厚《じゅうこう》な戸《と》1枚で区切《くぎ》られた部屋へ。



「ここは、『揺《ゆ》らし石《いし》』を砕《くだ》いて粉末にする場所で。火房《カブ》、って言ったりもするんだけどー」



 穏《おだ》やかな口調《くちょう》で語《かた》り始めるセント。


 ただし、油断《ゆだん》した隙《すき》に、また温風のごとくうっとうしい解説が始まる! 


 パンジーの脳《のう》は、少しでも負担《ふたん》を減《へ》らそうと、おしゃべりマシーン・セントのざれ言《ごと》を草案《そうあん》とし、空想劇《くうそうげき》を目の前の景色にくり広げた――。



 ただ静寂《せいじゃく》なる火房《カブ》。


 セントは手始めに鑿《のみ》槌《つち》で、顔ほどの大きさの「揺らし石」を砕《くだ》いていく。

 加える摩擦《まさつ》は最小限《さいしょうげん》に。


 それから石を磨《す》り臼《うす》にかけ、粉末にする。


 磨《す》り臼《うす》による粉砕《ふんさい》では、どうしたって「揺らし石」の特性である高温の発熱が引き起こされる。


 火房《カブ》は、その名にふさわしく灼熱《しゃくねつ》の檻《おり》となり、セントの皮《ひ》ふを炙《あぶ》る。


 汗《あせ》が滝《たき》と流れ出す。

 それでも、職人《しょくにん》の誇《ほこ》りが手を動かす。

 「揺らし石」は、光球の存在《そんざい》証明《しょうめい》そのものだからだ。


 セントは真剣に、粉末《ふんまつ》の粒子《りゅうし》が規格通りの大きさになるよう、均一《きんいつ》に、冷徹《れいてつ》に、何度も何度も磨《す》り臼《うす》にかけてゆく。



「……私《わたくし》、勘違《かんちが》いをしていましたわ。工場は、『1(いち)から2(に)、3(さん)と順番《じゅんばん》に作業をしていく場所』だって。でも、私《わたくし》が1から始められるのは、みなさんが『1』を用意してくださっていたからですのね」



 パンジーががく然《ぜん》とした表情で、至極当然(あたりまえ)のことを述べる。


 どうしてか? パンジーには、想像もつかなかったからだ。



「あと、『1(いち)の前のゼロ』もね、工具《こうぐ》の手入《てい》れとか。そういうのはみんな、朝(・)に(・)や(・)っ(・)て(・)る(・)んだよ」



 セントが教えてくれる。


 これまで、始業前にパンジーの見てきた働く職人たちは、みな朝《あさ》一番《いちばん》の仕事を始めるために、「ゼロから1」をつくっていたのだ。


 多分、パンジーの分までも。



「あー、でもそれで、パンジーにあれやこれや言いたいわけじゃないんだー。ただ、今の自分の工程がどういう役割《やくわり》を担《にな》ってるのか……。それと、工場の仕事って、作業《さぎょう》の外側《そとがわ》にもいろんな手順《つながり》があるんだって、知ってほしくて。ホント、それだけ」



 それだけではないような重々(おもおも)しさの内《うち》に、セントは言葉を切《き》った。


 パンジーに過度《かど》な重圧《プレッシャー》をかけないようにするための配慮《はいりょ》だろうか。


 何にせよ、示《しめ》したものはずっと、単なる事実だ。


 パンジーはその受け止め方を、みずから考えなければならない。



(いつまでも、自分のことばかりに構《かま》っていてはいけないわ。みなさん、お金を稼《かせ》ぎたい気持ちは一緒《いっしょ》だもの。その上で、力を合わせて、最良《さいりょう》の仕事をしようと……なら、私《わたくし》も!)


「――さて。俺《おれ》のわがままに付き合わせちゃってごめんね。仕事にもどろっか」



 いつもののんびりした調子で、セントが笑いかけてくれる。


 が、パンジーは少し顔を曇《くも》らせた。



「あ、あの、セントさん……私《わたくし》、今朝《けさ》から手と腕《うで》が、痛いような熱いような気がして。もちろん仕事はできますわ! でも……お医者さまにかからなくって、大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか?」


「あー、それ筋肉痛《きんにくつう》っていうんだよー。ダイジョブダイジョブ、頑張《がんば》ったって証拠《しょうこ》なだけだから。でも、一昨日《おととい》見学に来たときも色々(いろいろ)やらされてたじゃん。そっちは、大丈夫だったのー?」


「えっ。言われてみれば、昨日は何ともありませんでしたわ。どうしてかしら……」



 ナゾも痛みも解《ほぐ》れぬまま、パンジーは本日もまた粉塵《ふんじん》渦巻《うずま》く運命の中へと呑《の》み込《こ》まれていく。





 シートを切り切り。


 ニカワを塗《ぬ》り塗《ぬ》り。


 粉末《ふんまつ》振《ふ》り振《ふ》り。


 確認《かくにん》、確認《かくにん》、飽《あ》くまで確認《かくにん》。


 仕上げにヨダレを1、2滴《てき》。


 台無《だいな》しシートの完成だ!





「ごめんなさーいっ!」



 そんな茶番《ちゃばん》は何度かありつつも、結果的にパンジーは、昨日よりも多い23枚(犠牲者《ぎせいしゃ》含む)のシートを完成させた。


 気がつくと――夕方《ゆうがた》だ。


 昼食をとった記憶はあるのに、窓《まど》に茜《あかね》が差《さ》してくる瞬間を見た覚えがなかった。


 本当に、不思議《ふしぎ》な感覚……。


 ただ、手のひらや顔に移《うつ》った「揺《ゆ》らし石《いし》」による熱が引《ひ》いていく。

 口や鼻《はな》周《まわ》りに取りついた粉末の不快《ふかい》感を、手の甲《こう》でぬぐう。

 作業着と一緒に汗を着ているという生《なま》暖《あたた》かさ。


 なんて、リアルの感触《かんしょく》たちが、これまでのことは全部事実だったとパンジーに報《しら》せてくれた。



「お疲れさまでしたー!」



 パンジーは、セントやフォルミン、他にすれ違《ちが》った職人《しょくにん》たちとねぎらい合って、作業場を出る。


 通路をわたって更衣《こうい》室《しつ》に向かい、気《け》だるげな仕草《しぐさ》で作業着を脱《ぬ》ぎ、私服《しふく》に着替《きが》える。



「あっ――! つぅぅ! 洋服がこすれるだけで、痛いですわぁ……」



 工場を後にし、よろよろと歩いてしばらく。

 家に帰った。


 軒先《のきさき》で光球《こうきゅう》の明《あ》かりが出迎《でむか》えてくれている。


 と、いうのは錯覚《さっかく》で、夕焼《ゆうや》けの燦《さん》たる光《ひかり》を照《て》り返《かえ》しているだけだった。


 今朝《けさ》に見たかわいい花々(はなばな)も、顔を隠してしまっている。


 パンジーは1人ぽつぽつといって自宅に上がった。



 西日《にしび》を閉《し》め出《だ》した室内。


 目に、家具やらの輪郭《りんかく》は見てとれるものの、すっかり闇《やみ》の色《いろ》をしている。


 照明が、煤《すす》や脂《やに》をかぶって汚《よご》れてしまった。

 そんなような感じ。


 言いすぎだろうか? 

 けれども、町の人々の光をつくり出す職人が暮《く》らす部屋にしては、あまりに陰気《いんき》だった。


 パンジーは救《すく》いを求《もと》めるみたいに、部屋の中央で鎮座《ちんざ》した発動機《はつどうき》へすがりつき、紐《ひも》を力《ちから》いっぱい引いて、どうにか明《あ》かりをつけた。


(!)


 格子《こうし》模様《もよう》の彫《ほ》られた光球《こうきゅう》は、内側から発光《はっこう》すると、巨大なオレンジの宝石《ほうせき》に変身する。


 角度を変えると、生き生きとしたパ(・)ン(・)ジ(・)ー(・)の花《はな》図柄《ずがら》も浮かんできて。まるで琥珀《こはく》のようでもある。


 しかし……琥珀《こはく》色《いろ》の光はその強さのあまり、意図《いと》せず、照《て》らすべきでないものの正体をも暴《あば》いてしまう。



「ふう……」



 ため息《いき》ついて、パンジーが手荷物《てにもつ》を床《ゆか》に下《お》ろす。


 粉《こな》まみれ汗《あせ》まみれ、ニカワの悪臭《あくしゅう》まみれという、呪物《じゅぶつ》めいた本日の作業着。


 どうするのか? 


 パンジーは、自身の生活圏《せいかつけん》から遠《とお》ざけるように部屋の隅《すみ》へと持っていく。


 大判《おおばん》の古《ふる》い木桶《きおけ》がある。

 そこに放置《ほうち》した!


 見れば、木桶《きおけ》の中には、他に使用《しよう》済《ず》みの衣類も積《つ》み上《あ》がっている。


 無論《むろん》、ゴミ置《お》き場《ば》ではない。


 それは、衣類たちの洗濯《せんたく》控室《ひかえしつ》。


 さらに、衣類たちの下部はぬるい水に浸《つ》かっているありさまだ。



「ちゃんと水で洗(・)っ(・)た(・)のに、全然《ぜんぜん》キレイになってない……洗濯《せんたく》の仕方《しかた》が、悪いのかしら?」



 パンジーは、正気《しょうき》らしく悩《なや》ましげにつぶやく。


 声は自然と消えるが、目下《もっか》のおそろしい現実は消えるどころか一層《いっそう》深《ふか》い影《かげ》を落《お》としていた。


 今は、物《もの》言《い》わぬ光球《こうきゅう》だけが、おろか者《もの》に代《か》わって、この影を粛々(しゅくしゅく)と直視《ちょくし》しているのだった。

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