第10輪 鉢上(はちあげ)パンジー
陽が傾き始めた午後。
パンジーは、元の美しい刺繡が入った、小汚いドレス姿で、ヒナと町の中を歩く。
ヒナの作業着姿の、荷物を背負った背中を眺めていると、未来の自分を想像して、気分が上がる。
居住区は、中央広場の西側に位置している。
地図上では工場区と隣接しているが、勾配のゆるやかな場所に家々が点在しているため、露店や市場通りの方が、感覚としての距離は近かった。
やがて、2人は、パンジーの下宿先となる建物へ到着する。
壁を水色に塗装された、黄色い屋根の平屋建て。
隣り合う部屋同士の境界には色とりどりの光球が設置され(誰かが点灯してくれたのだろう)、パンジーの訪れを祝うように光りかがやいている。
「ステキなおうちですわあ!」
パンジーは本心から口にする。
かつて暮らしていたお屋敷と比べれば、目の前にあるのは犬小屋も同然という小さな建物なのに。
――もしかすると、彼女にとって「家」とは、「幼少期から閉じ込められてきた私室」のことなのかもしれない。
すると、その下宿がよほど立派な住まいに見えているのか。
建物の角部屋、玄関先の段差にポーチュラカのつぼみが生い茂る。
2人はその先へ入っていく。
部屋の中身は、「もぬけの殻」だ。
それは、原義にすれば誤った表現だろう。
しかし、真実がそうなのだ。
生活みの染みた衣装タンスとテーブル、ベッド、空の本棚。
数着の散乱した衣服。
ワインのラベルが貼られた空き容器。
キッチンには調理器具と、数点の食器類があって。
住人はない。
ないはずのものがあり、あるはずのものがない。
パンジーには分からなかった。
これがどういう状況なのか、また、なぜこんなにも物を残したまま自分が新たな住人となるのか。
「ごめんね、掃除がまだできてなくて。ブレビスのおじさんがまた、急なこと言うから……」
「前の方は、きっと大急ぎで、ご家族の元に帰ってしまわれたのね。かわいそうに。でも、いきなり私が住んでしまって、鉢合わせになったらどうしましょう?」
「それは絶対ないから、安心して……」
パンジーが頭に花を咲かせている娘でよかった、とヒナは思った。
気を取り直して、ヒナは持参した荷物をひろげる。
「それは、光球と、発動機だったかしら? ……まあ、このガラス、私が彫ったものですわ!」
「うん。あと、この球幹もね。光球工場へようこそ! って意味で。よかったら使ってあげて」
「ありがとうございます、ヒナさんっ!」
パンジーは目を細めて、泣きそうな顔をするが、疲労のためか先に鼻水が一条垂れてきた。
ドレスの脇のポケットからハンカチを取り出し、顔全体をおおうようにして拭う。
顔を上げ、ヒナを見る。
こんどはしぼんだような、沈痛な表情だ。
パンジー百面相に、ヒナはくつくつと笑いをこらえながら「どうしたの?」と訊ねる。
「その……この光球の代金、私のお給料から差し引いてもらうことはできますの?」
「いやいや! それはプレゼントっ。お金とか気にしないでー」
「えっ! では、えっと……お給料は、毎日のお仕事終わりにいただけるものですの?」
「せっかくの雰囲気なのにゲンキンな話が続くなー。毎週と、月の終わりにまとめてとで選べるけど。そのぶんだと、けっこう散財する感じ? 毎週にしておく?」
「そんな……私、いま、お金が必要なんですの!」
「そう言われても。工場の決まりだからね。頑張って節約したら、1週間くらい――」
「だって、私、お金をもっていませんのよっ!!」
パンジーが叫んだ!
キーンと響く高い声。
部屋を超えて、周囲の民家を騒然とさせる。
「お金を、もっていませんのよ!」
「二度も言わなくても……えっ、まさかだけど、すかんぴんでファクトリアに来たってこと?」
恐れをなして、ヒナの声も上擦る。
すかんぴんの小娘は涙目で「スカンピンって何ですの……」と、たわ言をのたまっている。
もう、手の施しようがない。
ヒナは一度、深く、とても深く頭を悩ませた。
「……ここまで生活力がない子だとは思わなかった。まあ、赤ちゃんみたいなもんか。わかったわ、ひとまず、先立つお金はアタシが立て替えるから。この部屋で言うのはちょっと怖いけど、ちゃんとお給料をもらったら返してね。パンジー?」
ヒナは注意深く言葉を選びながら、パンジーに提案をしてくれた。
親切という表現には収まりきらない、もはや聖母が降らせる慈雨のごとき、愛情に満ちた提案だった。
「返す……、お金を返す……、私が借りる? つまり、『借金』っ!?」
しかし!
パンジーは、ヒナが(パンジーのせいで)感じた恐れとは異なる、生命の危機に相当する恐怖に全身をわななかせていた!
「お断りしますわあっ!」
急性の中毒、または禁断症状を催したような異常発汗と、悪寒から口をぶるぶる震わせる。
彼女の実家が抱える問題について、何も知らないヒナ。
パンジーの不可解な態度をどうするものかと、ふたたび頭を悩ませる羽目になってしまった……。
◆
そろそろ、ファクトリアでも標高が高い場所にある工場連盟本部の屋根へ、太陽が沈み込もうとするころ。
思い返すと、パンジーがこの町にやって来てから、いまだ丸1日も経過していない。
ダイナミックに流れ去った出来事は、すべてが少女にとって美しい宝石だった。
宝石は宝石でも、1列に並んだ、種類も大きさもまちまちという、ずさんなものではある。
ただし、これらの中心を見えざる「運命の糸」が貫き、1つの芸術品を成したのなら、誰もが感動するに違いない。
――無論、パンジーが、「運命の糸」なんて代物を持っているはずもないので、この話はお終いだ。
さて、無謀なすかんぴん娘のパンジーは、暗くなり始めた町中の、本当に見知らぬ道をたどたどしく歩いていた。
ドレスの裾を可憐に振っている姿は、愛らしくとも、不憫さを隠しきれない。
パンジーの手には手さげ袋。
下宿の前入居者のものである衣類(それも、上等な綿やタフタで作られた高級なドレス、パジャマなど)が、数点入っている。
『じゃあ、こういうのはどう? パンジーがいらないものをお金に変える、っていう。古物転売をしてるレンス、って婆さんがいて。うさん臭い人だけど、アタシも町に来たばっかりのころに世話になってさ、それなりに信用できるよ。1回、相談してみて?』
と、下宿案内の後、別れ際にヒナが教えてくれた。
パンジーは提案にすがりつくしかなかった。




