第三話③ 背中が痛くないだけで、幸せだ
夜中に目が覚めた。
背中は痛くなかった。マットレスが仕事をしている。煎餅布団の下にたった四センチの低反発が入っただけで、世界がこんなに変わるのかと思った。快適だった。快適すぎて、短い時間で深く眠れたのかもしれない。
水を飲みに台所に行った。
明かりがついていた。
好が一人で、テーブルに参考書を広げていた。
律が入ってきたことに気づいて、好の指がページの上で止まった。目が合った——今度は、一瞬ではなかった。二秒、三秒。好の視線が律の顔にとどまっていた。
そして、ゆっくりとそれた。
「……こんな時間に」
好が言った。
「水飲みに来ただけ。好さんこそ」
「締め切りが近くて」
テーブルの上を見ると、統計学のテキストが開いてあった。数式と表がびっしり並んでいる。その横にノートが一冊、好の細かい字で埋まっていた。
律はコップに水を入れて飲んだ。飲み終わっても、立ったまま少しの間そこにいた。
「(……帰ろうかな)」
と思ったが、好のテキストの見開きページに目が行った。確率分布の章だった。名前だけは知っている。再来年の受験で使うかもしれない範囲だ。
「あ、それ——俺ももうすぐやるやつかもしれん。確率のとこ」
好が律を見た。今度は、そらさなかった。
「……座る?」
「え、一緒にやっていいんですか」
律は一度自室に戻って参考書を持ってきてから、好の向かい側に座った。数学Ⅱの薄い問題集。確率と統計の章に付箋が貼ってある。
好は律の問題集を覗き込んだ。昨日——ではなく一昨日、居間で律が参考書を広げていたとき、好はちらっと見て何も言わずに去った。あのときに中身を確認していたのかもしれない。
「ここ」
好の指が、律の問題集のある問題を指した。条件付き確率の計算問題だった。
「この手の問題、ベン図で考えるより表を書いたほうが早いよ。こう」
好がノートの端に二行三列の表を書いた。赤ペンで数字を入れていく。手際がよかった。教え慣れている手つきではないが、自分が理解していることを正確に伝えようとする、そういう丁寧さがあった。
「……あ、そういうことか。ベン図でやってたから毎回ごちゃごちゃになってたんやけど」
「表にすると、漏れが見えるから」
好は次のページの問題も解説してくれた。律が計算を書いている間、好は自分のテキストに戻って統計の問題を解いていた。
二人の間に会話はほとんどなかった。たまに律が「ここの式変形、合ってますかね」と聞いて、好が覗いて「合ってる」と言う。それだけだった。でも、その沈黙が居心地悪くなかった。台所の蛍光灯のジーという低い音と、二人の鉛筆が紙を擦る音が交互に聞こえていた。冷蔵庫のモーターが思い出したように唸って、また黙った。
一時間ほど経ったころだった。
律はふと気づいた。
「(好さん、さっきから——目ぇそらしてない)」
朝の台所では、律の顔を見ると数秒で視線が外れた。それが好の通常運転だった。吊り橋効果のことわりつき。近くにいる相手にどきどきが起きるから、そのどきどきに振り回されないように、視線をそらす。そういう仕組みのはずだった。
でも今、好は律の問題集を覗き込んだまま、視線をそらしていない。律の式を目で追って、間違いを探して、「ここ符号逆」と言って、また自分のテキストに戻る。その間ずっと、好の目は安定していた。揺れていなかった。
「(……勉強に集中してるときは、吊り橋効果が薄れるんかな)」
仮説にすぎない。でも辻褄は合う。吊り橋効果は「心臓のどきどきを恋愛感情と勘違いする」という現象だ。勉強に没頭しているとき、心臓は穏やかに動いている。どきどきがなければ、勘違いも起きない。つまり好のことわりつきには、集中という抜け穴がある。
「(好さんには、そういう隙があるんや)」
それが嬉しいのか安心なのか、律にはまだわからなかった。ただ、好が目をそらさずに数学の話をしてくれるこの時間が、悪くないと思った。
好が参考書を閉じた。ノートをぱたんと重ねて、鉛筆をペンケースに戻した。
「もうこんな時間」
壁の時計を見ると三時前だった。律のスマホも同じ時刻を指していた。
「すみません、付き合ってもらって」
「敬語」
好が言った。
「え?」
「敬語じゃなくていい。律くんとは」
一拍の間があった。好はペンケースのファスナーを閉めながら、テーブルのほうを見ていた。律のほうではない。でもそらしたのとも違った。言うべきことを言い終わって、視線の行き場を探しているだけに見えた。
「……わかった。ありがとう、好さん」
好は小さくうなずいた。テキストとノートを抱えて、台所を出ていった。スリッパの音が廊下を遠ざかって、部屋の引き戸が閉まる音がした。
律は一人になった台所で、残りの水を飲んだ。
---
布団に入った。
マットレスの低反発が、体をじんわりと受け止めた。昨日まで畳の凹凸が背中の一つ一つに当たっていたのが嘘みたいだった。たかが四センチ。されど四センチ。
三日目が終わった。
背中が痛くなかった。それだけで、十分に幸せな夜だった。




