第四話① ドキドキの理由が、わからない
第四話「今日のどきどき」
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四日目の朝は、寝坊から始まった。
スマホを見ると八時四十分。律が入居してから一番遅い起床だった。原因ははっきりしている。昨夜途中で目が覚めて、好と台所で勉強していたら明け方になっていたのだ。合計の睡眠時間としては十分あったはずだが、体内時計がずれたのだろう。
ただ、背中は痛くなかった。昨日買ったマットレスが律の身体を過不足なく支えてくれている。たった四センチの低反発が、こんなにも人の朝を変えるのだ。煎餅布団の下に敷いただけで、背中と畳の間に別の世界が一枚挟まったみたいだった。
顔を洗って台所に行くと、一が朝食の片付けをしていた。流しの中に食器が重なっている。もう全員食べ終わったらしい。
「あ、律くんおはよー。お寝坊さん」
「おはようございます。……出遅れた」
「フレンチトーストの残りがあるよ。律くんの分取ってあるから」
ラップのかかった皿がテーブルの端に置いてあった。フレンチトーストが二枚。一はまた、律の分を確保してくれている。四日目にして、もうそれが当然のように組み込まれている。
律がテーブルに座ってフレンチトーストを食べ始めたとき、台所の入り口に人影が現れた。
好だった。
カットソーにジーンズで、手にはマグカップを持っている。朝のコーヒーを飲み終わって、カップを戻しに来たのだろう。律と目が合った。
今日は——そらさなかった。
二秒。三秒。好の視線が律の顔にとどまっていた。いつもなら一秒で外れるのに。昨夜の台所で一時間勉強した時間が、好の中で何かを変えたのかもしれない。
好が流しにマグカップを置いた。一が「洗っとくよー」と言ったのに小さく「ありがとう」と返してから、律のほうに体を向けた。
「昨日はありがとう」
ぽそっと、でもはっきり言った。
律はフレンチトーストを口に入れたまま、目を丸くした。急いで飲み込んでから答えた。
「いや、俺も勉強になったし。表解法、あれめちゃくちゃわかりやすかった」
好が少しだけ——本当に少しだけ、口の端を上げた。
笑顔、だった。
律はフォークを持ったまま、一瞬だけ固まった。好の表情が変わるのを、四日間で初めて見た。いつもの無表情でも、視線を外すときの硬い横顔でもない。口元だけがほんの少し柔らかくなって、目尻にかすかな線が入った。それだけだった。それだけなのに、朝の台所の空気がわずかに温度を上げたような気がした。
「(……好さんが、笑った)」
「(なんか——いいな、それ)」
好が律の視線に気づいた。笑顔が消えた。
「……見ないで」
そう言って、振り返りもせずに台所を出ていった。スリッパの音が廊下を遠ざかって、部屋の引き戸が閉まった。
一が流しの前で振り向いた。笑っていた。
「好ちゃん、照れちゃったね」
「照れたんかな、あれ」
「照れたよ。好ちゃんの照れ方、私にはわかるもん」
一はそう言って、好のマグカップを洗い始めた。
律はフレンチトーストの二枚目をフォークで切りながら、さっきの好の笑顔を思い出していた。
「(笑うんやな、好さんも。ずっと硬い顔してたから、笑わない人なんかと思ってた。でも笑うんや。なんか——ああいう笑い方、好きかもしれん)」
好きかもしれん、のあたりで思考が止まった。自分が何を考えたのかを、律はあまり正確に捉えていなかった。フレンチトーストの甘さがそこに重なって、うまく区別がつかなくなっていたのかもしれない。
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食器を洗って居間に行くと、ななせが縁側に座っていた。
庭のほうを向いている。いつもの姿勢だ。あぐらをかいて、両手を膝の上に置いて、ぼんやり庭を見ている。律が近くを通ると、ななせが「あ、律くん」と声をかけてきた。
「寝坊珍しいね」
「昨夜ちょっと遅くて」
「あー、好さんと勉強してたんだ。一さんが言ってた」
「(情報回るの早いな、この家)」
律がななせの隣に座ろうとしたとき——庭の景色が、動いた。
塀に沿った草むらの間を、猫が一匹横切った。黒い毛並みの、やせた猫だった。初日に見たのと同じ——いや、同じかどうかはわからない。でも黒い猫が庭を横切った。左から右へ、すっと。
一瞬の間。
また同じ猫が——同じ方向に、同じ速さで横切った。
「(二回目。いつものデジャヴか)」
律はもう慣れかけていた。初日の黒猫、三日目のスズメ。同じパターンだ。同じ動物が同じ動きを二度する。ななせのことわりつきが見せる予兆。
でも、今日は違った。
二匹目の猫の後ろに——もう一匹、続いた。同じ黒い猫が、同じ方向に。
さらにもう一匹。
もう一匹。
五匹。六匹。数えきれない。同じ猫が同じ軌道を同じ速さで横切り続けている。草むらの向こうに消えては、また塀の端から現れる。終わらない。
律は声が出なかった。
ななせが立ち上がった。
「——デジャヴ、見えた」
声のトーンがいつもと違った。ケロッとしていなかった。ケロッとした殻の下にある何かが、ほんの一瞬だけ表面に出た。でもすぐに戻った。ななせは目を一回こすって、息を吐いた。
「……なんか、でかいの来た。久しぶりに」
「久しぶりって——」
律が聞き返す前に、猫たちは消えていた。庭には何もいない。草むらが風に揺れているだけだった。
「(今のは、なんや。二匹どころやなかった。何匹も——同じ猫が何匹も。今までと全然違う)」
ななせは縁側に座り直した。何事もなかったみたいな顔をしている。でも律の中には、さっきの光景がまだ残っていた。あの黒い猫の列が、視界の端で何度も再生されているような感覚。
「(デジャヴの強さが上がってる。初日は一匹が二回。三日目もスズメが二回。でも今日は——何匹も続いた。何かでかいことが起きるってことか?)」
答えは、すぐに来た。
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異変が始まったのは、それから三十分もしないうちだった。
律が居間で参考書を開いていると、廊下からななせの声が聞こえた。ただし、いつものテンションではなかった。
「……あれ。なんか——好さんのこと、すごく気になる」
律は顔を上げた。ななせが廊下に立っていた。好の部屋のほうを向いている。引き戸の前で足が止まっている。
「ななせ?」
「なんだろ。好さんに会いたい。すごく。なんか——話したい、触りたい。おかしいな、私こんなこと思わないのに」
ななせが自分の胸を押さえた。困惑していた。律は参考書を閉じて立ち上がった。
台所から一が出てきた。エプロンをしたまま。昼の仕込みの途中だったらしい。一の顔を見て、律は違和感を覚えた。一の目がいつもと違う。ふわっとした優しさではなく、何かに焦点が合いすぎている。
「好ちゃん、今日なんか——」
一の声に熱があった。
「綺麗、だよね。今日、特に」
律は一を見た。一は好の部屋の方向を見ている。言葉の内容は変ではない。一はいつも住人を褒める。でも声の質が違う。優しさの上に別の何かが乗っている。
廊下の奥から、足音がした。千だった。
千が好の部屋の前に来て、立ち止まった。引き戸に手を触れかけて、止まった。じっと見ている。いつもより近い。千は普段、人との距離を自分から詰めない子だ。それが今、好の部屋の前に張り付くように立っている。
律の背中を、冷たいものが走った。
「(全員おかしい。ななせも、一さんも、千ちゃんも。全員が好さんのほうを向いてる——でも俺はいつもと特に変わらない)」
律は廊下に出た。三人の横を通って、好の部屋の前に立った。声をかけようとして——引き戸が開いた。
好が立っていた。
顔が、青かった。
「律くん——」
好の声が震えていた。好が震えるのを、律は初めて見た。
「私の——ことわりつきが、暴走してる」
「わかってる」
「わかってるの?」
「みんながおかしい。好さんの方向にだけ引っ張られてる。でも俺には何も効いてない」
好の手が引き戸の枠を握りしめていた。指が白くなっていた。
「距離を取れば止まるかもしれない。戸を閉めて——」
「閉めてた。今まで閉めてた。でもだめ。壁一枚でも届いてる。ななせちゃんが廊下で止まってた。千ちゃんも」
好の声が途切れた。
「私のせいで、みんなが——」
「好さん」
律は好の肩を見た。目ではなく肩を。好がこれ以上視線に耐えなくていいように。
「外に出よう。距離を取ったら、少しでも楽になるかもしれん」




