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第四話② 好きかどうか、確かめる方法がない

 好はうなずいた。


 玄関を出るとき、律は後ろを振り返った。ななせが廊下の壁に手をついて、首を振っていた。「なんだろ、なんか変……」と呟いている。一は台所の入り口で立ち止まったまま、好が出ていく方向をじっと見つめていた。千だけが自分の部屋に戻っていた。引き戸を自分で閉めていた。——あの子は、直感で何かを察知したのかもしれない。


 好と二人で、大学通りに出た。


 七月の日差しが容赦なく降りかかる。街路樹が落とす影を選んで大学通りを歩いた。


 好は律の三歩先を歩いていた。早足だった。距離を取ろうとしているのが歩幅でわかる。律との距離ではなく——世界との距離だ。


 通行人とすれ違った。


 スーツ姿の男性が、好の横を通り過ぎた瞬間、足を止めた。振り返った。好のほうを——見ている。


 好は気づいていた。歩く速度が上がった。


 反対方向から来た女性が、好の近くを通ったとき、同じように足を止めた。好を見つめている。知らない人のはずだ。なのに目が離せないという顔をしている。


 「(外でも効いてる。通行人にまで。好さんの吊り橋効果が——半径ごと広がってるんか)」


 好が足を止めた。


 大学通りのベンチの前だった。歩道脇に設置された木製のベンチ。好はそこに座り込んだ。座ったというより、崩れ落ちたという方が近い。膝の上に両手を置いて、下を向いた。


 律は好の一メートル横に立った。


 「好さん」


 「……来ないで」


 「来ないでって言われても、もう来てるし」


 好は顔を上げなかった。下を向いたまま、小さく言った。


 「律くんには効いてないんでしょ。だからわからないと思うけど——今の私の近くにいたら、律くん以外の人は全員おかしくなる。知らない人まで。通りすがりの人まで。私のことわりつきが、勝手に——」


 声が途切れた。


 「……勝手に、人の心に入り込んでる。止められない。止め方がわからない」


 律は黙ってベンチの隣に座った。好との間に五十センチほどの隙間がある。


 好の手が膝の上で震えていた。


 律はその手を見た。白い指が、ジーンズの膝をつかんでいる。指先が少し紫がかっている。血の気が引いているのだ。


 「(好さん、手ぇ冷たそうやな)」


 考えるより先に、手が動いた。


 律は好の右手の上に、自分の左手を置いた。


 好の指が——冷たかった。七月の朝で、日差しがあるのに。指先から手のひらまで、全部冷たい。


 好が顔を上げた。律の手を見ている。


 「……律くん、私の手、冷たいでしょ」


 「冷たい」


 「でもどきどきはしてない?」


 「してない。全然」


 律は好の手を握った。好の指が、律の手の中で震えていた。


 「触っても俺はどきどきしない。さっきの通行人みたいにならない。好さんのことわりつきは、俺には届いてない。だから——今の俺の手の温度は、ことわりつきとは関係ない。ただの体温や」


 好が律を見た。目が合った。今日二度目だった。でも朝の台所とは全然違う。好の目に涙はなかったが、目の奥で、涙になる前の何かが動いていた。


 「……ことわりつきと、関係ない」


 好が繰り返した。


 律は好の手を両手で包んだ。それでも好の震えは止まらなかった。通りの向こうから歩いてくる人が、好のほうを向いている。まだ効果が出ている。


 だから律は——好を抱きしめた。


 考えてやったことではなかった。好の手が冷たくて、震えていて、通行人がまだ好のほうを見ていて、好の顔がさっきから青いままで。そのどれか一つが理由だったのか、全部が重なったのか、律にはわからなかった。ただ、触れたら止まるかもしれないと思った。手を握っただけでは足りない。もっと広い面積で触れたら——もしかしたら。


 好の体が、律の腕の中で強張った。


 細い、と思った。好は律より背が高い。話すときはいつも少しだけ見上げる。なのに腕の中に収まった肩は驚くほど華奢で、律の腕が余った。そして柔らかかった。同じ人間の体なのに、自分のそれとは材質から違う。力を入れたら壊れてしまいそうな、そういう柔らかさだった。ふわりと、髪からいい香りがした。香水ではない。好自身の自然な香りだ。律はそれを、深夜の台所で隣に座っていたときには気づかなかった。


 三秒。五秒。十秒。


 好の華奢な肩から、力が抜けていった。


 震えが止まった。


 通りの向こうで足を止めていた通行人が、首を振って歩き出した。何に惹かれて立ち止まっていたのか、自分でもわからないという顔で。ベンチの前を通り過ぎていく人が、好のほうを見なくなった。


 空気が——戻った。


 好の吊り橋効果が、律の体の中に吸い込まれるように消えていった。少なくとも、律にはそう見えた。実際に何が起きたのかはわからない。触れた。止まった。それだけが事実だった。


 好が律の胸に顔を埋めたまま、声を出した。


 「……止まった」


 「止まったね」


 「なんで」


 「わからんけど……でも触ったら止まった」


 好は動かなかった。律も動かなかった。ベンチの上で、大学通りの木漏れ日の中で、二人とも動かなかった。


 「(……なんで止まったんやろ……そんなことできるんか?)」


 答えは出なかった。でも結果は出ていた。好の暴走は止まった。手が温かくなり始めている。七月の気温が、ようやく好の指先に届いている。


 好がポケットからスマホを取り出した。片手で。まだ律の胸に顔を半分埋めたまま。


 「……記録しなきゃ」


 「今は記録せんでいいんちゃう?」


 好の指が止まった。


 「……うん」


 スマホをポケットに戻した。


 それから好が律から離れるまでに、たぶん一分くらいかかった。


---


 二人で大学通りを歩いて帰った。


 好は律の一歩後ろを歩いていた。来たときは三歩先だったのが、帰りは一歩後ろだった。距離の取り方が変わっていた。


 蝉が鳴いていた。さっきまでと同じ蝉のはずやのに、少し遠くで鳴いている気がした。世界の音量が、半段だけ下がったような。


 「(……俺、意外と落ち着いてるな)」


 考えてみればおかしな話だった。年上の綺麗な人を、大学通りのベンチで一分以上抱きしめた。心臓が走り回っていてもいい場面だ。なのに胸の中は妙に平らで、静かだった。


 「(まあ——非常事態やったしな。そういうもんか)」


 「律くん」


 「ん?」


 「さっきの——誰にも言わないで」


 「うん、言わんとく」


 「……ありがとう」


 今日二度目の「ありがとう」だった。朝のそれとは重さが違った。


 好は歩きながら、ぽつりと言った。


 「律くんのことが気になってる。ずっと」


 律は前を向いたまま聞いていた。


 「でもこれ、法則だと思う。今朝だって——律くんに笑いかけただけで不安定になった。笑うくらいで壊れるんだから、私のことわりつきは」


 「……好さん」


 「律くんには効かないって知ってる。だから逆に、律くんに感じることが一番『本物に近い』可能性がある。でもそれすら、確かめる方法がない」


 律は何を返せばいいかわからなかった。好の問いには正解がない。本物かどうかを確かめる方法がないのは、好自身が一番知っている。律が「本物だよ」と言っても、好は「ことわりつきの影響を受けない人間にそう言われても、私の側の問題は何も変わらない」と返すだろう。


 「(好さんは、自分の心を疑いながら生きてるんや。ずっと。自分が誰かを好きだと思っても、それが本物かどうかわからんまま。法則が勝手に心臓を動かすから。自分で動かしたのか、勝手に動いたのか——その区別が、つかない)」


 「(それは——俺が想像するよりずっと、しんどいんちゃうかな)」


 セオリア荘の門が見えてきた。好は門の前で立ち止まった。


 「入ったら、みんないるよね」


 「いてるやろね」


 「……大丈夫、もう収まってる。さっき触ってもらったから」


 好はそう言って、自分の手を見た。さっきまで律が握っていた右手。好の指先は、もう紫がかっていなかった。普通の色に戻っている。


 「……ことわりつきと関係ない温度って、こういう感じなんだ」


 小さくそう言って、好は門をくぐった。


---


 居間に戻ると、ななせがテーブルの前で頬杖をついていた。律の顔を見て、ぱっと起き上がった。


 「あ、律くん。おかえり。さっきなんか変だったんだけど——なんか急に好さんのことが気になって。でも今はもう平気。なんだったんだろ」


 「ああ、うん。なんか——ちょっとあったみたいやけど、もう大丈夫」


 ななせは「ふーん」と言って、それ以上追及しなかった。さっきまで廊下で好の部屋に引き寄せられていたことを、もう気にしていないのか、あるいは気にしないことにしたのか。


 一が台所から顔を出した。


 「律くん、好ちゃんと一緒に出てたの? 好ちゃん大丈夫?」


 「大丈夫です。ちょっと体調崩しかけてたみたいで、散歩してきました」


 一は「そっか」とうなずいた。優しい顔だった。朝のあの、焦点の合いすぎた目はもう消えている。いつもの一だった。自分がさっき好に向けた言葉の熱を、覚えているのかどうか。律にはわからなかった。


 千は居間の隅で、絵を描いていた。スケッチブックの上を鉛筆が動いている。律が近くを通っても顔を上げなかった。ただ、鉛筆の動きが一瞬だけ止まったのは見えた。


 「(千ちゃんも戻ってるな。さっき自分で部屋に引っ込んだのは——やっぱり何か感じてたからか。ゲシュタルト崩壊のことわりつき。意味が見えなくなる。好さんの暴走で自分の感覚がおかしくなったのを、本能的に察知して距離を取った——のかもしれん)」


 律は居間に座り、参考書のページを一枚めくる。手をつけていなかった問題を解き始めた。わからないことを考え続けるよりは、わかる問題を一つ解くほうが建設的だった。


 そうやって問題を三つ解いたあたりで、視界の端に動きがあった。好が、自室から出てきていた。台所に入って、コーヒーを入れている。一と何か話している。笑い声ではないが、日常的なトーンの会話だった。


 好が台所から戻ってきて、居間を横切るとき、律のほうをちらっと見た。


 目は合わなかった。合わせなかった。でも好の歩き方は、朝よりも少しだけ軽かった。


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