第四話③ とん、とん、と夜が鳴る
夕方になっていた。
居間はオレンジ色の光で満ちていた。西日が縁側の硝子戸を通して入ってきて、畳の上に四角い影を落としている。一が台所で夕飯の支度を始めていて、出汁の香りが居間まで漂ってきた。千は先ほどから二階の自室にいる。好も部屋に戻っている。
ななせが一人で、縁側に座っていた。
珍しかった。ななせは普通、誰かの近くにいる。居間で律の隣に座るか、台所で一に話しかけるか、千にちょっかいを出すか。一人で縁側に座って庭を見ている、というのは四日間で初めてだった。
律は参考書を閉じて、縁側に向かった。
「珍しいな、一人で」
ななせが振り向いた。いつもの顔だった。ケロッとしている。でも——律は四日間でこの子の「ケロッと」に何種類かあることを知り始めていた。本当に何も考えていないケロッと。何かを考えたうえでケロッとしているケロッと。今日のは、後者に近い気がした。
「さっき、デジャヴ感じた」
ななせが言った。
「また?」
「うん。でもなんにも起きなかった」
律はななせの横に座った。縁側の板が日差しで暖かかった。
「なんにも起きへんのって、困るん?」
ななせは庭を見たまま、少し首を傾げた。
「困る、っていうか——ずっと、『これから何かが起きる』って思ってて。体がそう反応するの。で、何か起きたときは『ほら来た』って思うんだけど、止められないし、助けにもなれないし」
律は黙って聞いていた。
「逆に、何も起きなかったときは——へんな感じになる。拍子抜けっていうか。準備だけして、何もなくて、ただ元に戻る。それの繰り返し」
ななせの声には感情がなかった。いや、感情がないのではなく、感情を均一にならしている、そういう話し方だった。大きくも小さくもなく、ただ平らに。
「なんのために見えてるんだろ、とか思うことはある」
律の胸に、その言葉が刺さった。
「(何かが起きるのはわかる。でも何が起きるかはわからない。起きても止められないし、起きなかったら意味がない。それを——毎日繰り返してるんか、この子は)」
「……いつから?」
「デジャヴ? 物心ついたときには、もうあったよ。だから普通だと思ってたんだけどね〜」
ケロッと笑った。今度は本物の——少なくとも律にはそう見える——ケロッとだった。
でも、さっきの「なんのために見えてるんだろ」が、律の頭に貼りついていた。
「(ななせはケロッとしてるから、大丈夫そうに見える。でも大丈夫な人が、『なんのために見えてるんだろ』なんて言うかな。言わんやろ。見える意味がわからなくて、でもずっと見えてて。それって——毎日、答えのない問いを抱えて生きてるってことやんか)」
律は何も言えなかった。「大変やな」と言うのは違う。「しんどいな」も違う。律には、ななせの言葉を受け止めきれない気がした。
だから、何も言わなかった。
代わりに、ななせと同じ方向を見た。庭。雑草。一が毎日水を撒いている地面。夕方の光が、草の上に影を落としている。猫はもういなかった。
「(見えるだけで何もできない。それでも見える。止められない。止まらない。ななせのことわりつきは——ずっとそうなんや)」
ななせが突然、律のほうを向いた。
「ね、律くん」
「ん?」
「律くんがさ、好さんと散歩してたとき——なんか、セオリア荘の空気がちょっとだけ軽くなった気がしたんだよね」
「……気のせいちゃう?」
「かもね〜」
ケロッとしていた。でもその目が、ほんの一瞬だけ律の顔をちゃんと見ていた。その顔のまま、目だけが違うことを見ている。律はそれに気づいたが、気づいたことを口には出さなかった。
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その夜のことだった。
律はマットレスの上で、天井の木目を見ていた。眠れなかったわけではない。眠りに入る直前の、意識が薄くなりかけるあの時間帯。体は布団の中にあるのに、頭だけがまだ起きている。
今日一日のことが断片的に浮かんでは消えていた。好を抱きしめたときの肩の硬さ。通行人が振り返らなくなった瞬間。好の「ことわりつきと関係ない温度」。ななせの「なんのために見えてるんだろ」。
全部が一日の中に収まっている。たった一日だ。四日目。まだ四日しか経っていない。
——と、そこまで振り返ったところで、遅れてきた。
顔が、急に熱くなった。
好さんを抱きしめた。あの細い肩。髪の香り。腕の中の柔らかさ。昼間はあんなに平らやった胸の中が、いまごろになって騒ぎ出している。律は布団の中で寝返りを打った。
「(なんで今なんや。普通、その場でなるやろ、こういうのは)」
昼間の自分は、静かすぎた。まるで感情だけがどこかに預けられて、夜になって返ってきたみたいだった。
答えは出なかった。出ないまま、頬の熱だけが残った。
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引き戸の桟を、指先で軽く叩く音がした。とん、とん。
律は布団の中で目を開けた。時計を見る。午前一時十二分。
もう一度。とん、とん。控えめな、でもはっきりした二回。
律は布団から出て、引き戸を開けた。
ななせが立っていた。
パジャマだった。半袖のTシャツとショートパンツ。アホ毛がいつもよりさらに跳ねていて、枕に押しつけた跡が残っている。でも目は覚めていた。眠れなかったのだろう。
「……律くん、起きてた?」
「起きてた。というか、起きた」
ななせは廊下に立ったまま、少しだけ俯いた。
「さっき——デジャヴ見えた」
律は黙った。
「猫が通って、また同じ猫が通って。でもその後ろに——もっとたくさん続いてた。朝とおんなじ。いっぱい。なんか大きいことが起きる感じがして。でも何かわからなくて」
ななせの声は平らだった。感情が均されている。さっきの夕方と同じだ。ケロッとしていない。でも泣いてもいない。ただ、平らだった。
「一人でいると、なんかイヤになって」
律は引き戸を大きく開けた。
「入り」
ななせは一瞬ためらった。でも入った。
律は自分の布団をななせに譲って、押し入れから座布団を二枚引っ張り出した。壁際に並べて、その上に横になった。マットレスの上の布団に比べると硬いが、煎餅布団の三日間に比べればどうということはない。
ななせは律の布団に潜り込んだ。布団の端を顎の下まで引き上げて、天井を見ていた。
沈黙があった。
「律くんって、なんかいるだけで落ち着く」
ななせが言った。天井を見たまま。
「なんでだろ」
律は座布団の上で横を向いた。ななせの横顔が、部屋の闇の中でぼんやり見えた。アホ毛のシルエットだけがはっきりしている。
「(なんでやろ。俺にもわからん)」
「(でも——今朝、好さんに触って暴走が止まった。それと同じようなことが、ななせにも起きてるんかな。俺がここにいるだけで、何かが安定する。ことわりつきの影響を受けない人間が近くにいると——それだけで、少しマシになる)」
「(もしそうなら——俺がここにいることに、ちょっとだけ意味があるのかもしれん)」
「まあ、朝まで寝てたらええよ」
ななせは何か返事をしたみたいだったが、もう声が小さくなっていた。三十秒もしないうちに、寝息が聞こえ始めた。
律は座布団の上で仰向けになった。天井の木目を見た。昨夜は笑っているように見えたが、今夜は——何も見えなかった。ただの木目だった。
「(ななせは、デジャヴが見えるたびにこれを一人で抱えてたんか。何かが来るって体が感じて、でも何も起きなくて。あるいは何か起きて、でも止められなくて。その繰り返しを——ずっと)」
「(しんどいって言わん子やな)」
「(でも——一人でいるとイヤになった、とは言った。だから来た。俺の部屋に)」
「(この子がここにいて、少しでもマシになるなら。まあいいか)」
目を閉じた。硬さに体が慣れている。慣れるのが早い。いいことなのか悪いことなのかはわからないが、今夜は——硬さが少しだけ心強かった。
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四日目を振り返ると、たぶん一番長い一日だった。
俺がここにいる意味。家賃が安いから来た。それは変わらない。でも今日、好さんの暴走を止めた。止められた。触って止めた。
なんで俺にそれができるのかは、まだわからん。なんで俺だけ平気なのかも、まだわからん。
でも——できる、ということだけはわかった。
四日目が終わった。ななせの寝息が聞こえている。座布団は硬い。でも悪くはない夜だった。




