第五話① 好さんは、ドキドキを記録している
第五話「国立、二人で」
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目が覚めたのは、香りのせいだった。
布団の香りではない。自分の香りでもない。座布団の上で仰向けになったまま、律は半分眠っている頭で考えた。何かが鼻の奥をくすぐっている。焦げたような、甘いような、日差しの中に置き忘れた何かのような——。
太陽の香りだった。
初日に、ななせに詰め寄られたときと同じだ。あのとき感じた、日向ぼっこをした後の猫みたいな不思議な香り。あれが今、部屋の中にある。ごく薄く、でもはっきりと。
律は首だけ動かして、布団のほうを見た。
ななせが寝ていた。
律の布団を顎の下まで引き上げて、横向きになっている。アホ毛だけが布団から飛び出して、朝の光の中でぴょんと跳ねている。規則正しい寝息が聞こえる。口が少しだけ開いていて、寝顔は初日の印象より幼く見えた。
昨夜のことを思い出した。デジャヴが見えて、怖くなって、一人でいるとイヤになって——ななせがこの部屋に来たのだ。律は布団を譲って座布団で寝た。それだけ。何もない。何もないのだが、同い年の女の子が自分の布団で寝ているという事実は——客観的に見て、なかなかの絵面だった。
「(……起こしたほうがいいんかな。いや、でも、昨夜だいぶ参ってたし。もう少し寝かしといたほうがええか)」
律は座布団の上でゆっくり起き上がった。背中が硬い。マットレスの上で寝ていた昨日とは段違いだ。座布団二枚では畳の硬さをごまかしきれない。三日目以前の煎餅布団時代を思い出す体の軋みだった。
音を立てないように着替えた。ジーンズとTシャツ。財布とスマホをポケットに入れて、引き戸をそっと開ける。廊下に出ると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。一が朝ごはんを作っている。
台所に入ると、一が鍋から目を上げた。
「あ、律くんおはよー。今日は早いね」
「おはようございます」
壁の時計を見ると七時十分だった。昨日が八時四十分だったから、一時間半ほど早い。座布団の硬さが目覚まし時計の代わりをしたのだ。
一が味噌汁をよそいながら、さりげなく聞いてきた。
「ななせちゃん、まだ寝てる?」
律の手が一瞬止まった。
「……なんでわかるんですか」
一はふわっと笑った。
「朝、ななせちゃんの部屋の引き戸が開いてたから。で、律くんの部屋の前を通ったら寝息が二人分聞こえたから」
「(……一さん、耳ええな。ていうか通りがかりに寝息の人数数えるんか、この人)」
「好ちゃんには言わないであげるね」
「……お願いします」
一は楽しそうだった。律が困っていることを面白がっているわけではなく、家の中で何かが起きていること自体が嬉しい、という感じの笑い方だった。料理をしている手は止まっていない。器用なものだ。
千が台所に入ってきた。パジャマ姿で、目をこすりながら。二階から降りてきたらしく、髪が寝癖で左に流れている。
「……おはよう」
「おはよう、千ちゃん。今日も早いな」
千は律の向かいの椅子に座った。テーブルに頬杖をついて、ぼんやりしている。一が千の前に味噌汁と焼き鮭を置いた。千が「ありがと」と小さく言った。一は何も返さなかったが、千の箸の位置をそっと直していた。
好が来た。いつもの格好。朝からきっちりしている。台所に入ってきて、律と目が合った。
一瞬——好の目がそれから外れた。いつもの反射だ。でも外してから、もう一度律のほうを見た。
「……おはよう」
「おはよう、好さん」
敬語ではなかった。一昨日の深夜に「敬語じゃなくていい」と言われてから、律は意識して崩すようにしている。まだ少し慣れないが、好のほうは特に気にしていないようだった。
好がコーヒーを入れ始めた。マグカップを棚から取って、インスタントの瓶を開ける。一連の動作が淀みなく、他の誰のリズムとも混ざらない。好は自分のペースだけで台所を動く人だった。
ななせが来たのは、全員の食事が半分ほど進んだ頃だった。
「おはよー……」
声がいつもより低い。寝起きだ。目の焦点が合っていない。パジャマのまま台所に入ってきて、律の隣の椅子を引いて座った。律の隣。自分の定位置のように。
一が「ななせちゃんおはよー。味噌汁いる?」と聞くと、ななせは「うん」とだけ答えて、テーブルに突っ伏した。
好がコーヒーを飲みながら、ななせと律を交互に見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。代わりにスマホを取り出して、何かを打ち込んだ。律は見えなかったが、たぶんメモアプリだ。
「(……記録してるな、好さん。今朝は何を書いたんやろ)」
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朝食が終わって、律は居間で参考書を広げた。数学の演習問題を三ページ分やって、英語の長文を一題読んだ。時計を見ると十一時を過ぎていた。台所では一が昼の仕込みを始めている気配がする。勉強はそこそこ進んだが、昨夜の座布団の影響で背中がずっと主張していた。姿勢を変えながらごまかしていると、ななせが着替えて出てきた。
さっきまでの寝ぼけた顔は完全に消えていて、いつものケロッとした表情に戻っていた。
「律くん」
「ん?」
「国立の街、まだちゃんと歩いたことないでしょ?」
律は参考書から顔を上げた。ななせが縁側のあたりに立っていた。朝の光を背中に受けていて、輪郭が少し白く飛んでいる。
「ないな。来た日に駅から歩いたくらいで」
「じゃあ今日、案内する。私、ここ詳しいから」
「詳しいって、ななせもまだ——」
「いいから! 行こ!」
律は参考書に栞を挟んだ。断る理由がなかった。部屋にこもって勉強するのは真っ当だが、そもそも国立の街のことをほとんど知らない。立川は初日と三日目に歩いた。例の聖地巡礼を済ませて、ドンキでマットレスを買った。でも国立は、セオリア荘と駅の間を往復しただけだった。
「ちょっと出てくるわ」
律が台所に声をかけると、一が「いってらっしゃーい」と返してきた。好は自室に戻っていて、千は居間の隅でスケッチブックを開いていた。千が律とななせを見て、少しだけ首を傾げたが、何も言わなかった。




