第五話② 隣で勉強することくらいは、できる
大学通りは、昨日歩いたときと表情が違っていた。
昨日は好の暴走の最中だった。通行人が好のほうを見ていた。空気がおかしくなっていた。今日はそれがない。普通の、七月の土曜日の午前だった。木漏れ日が歩道に落ちていて、時折自転車が横を通り過ぎていく。
並木道に並んでいるのは桜とイチョウだった。初日に「桜かな」と思ったのは半分正しかった。春には桜色が映えて、秋になったら黄金色に輝くんだろう。桜とイチョウが交互に植えられた並木道。律は大阪にいた頃、こういう道を歩いたことがなかった。箕面にも並木はあったが、街全体が一本の道を軸に設計されている感覚は、ここだけのものだ。
ななせは律の半歩先を歩いていた。距離感が近い。初日に居間で詰め寄ってきたときほどではないが、他人と歩く距離ではなかった。でも律はもう下がらなかった。四日で慣れた。
「この通りね、春は桜がすごいんだよ。トンネルみたいになるの。それでね、秋になるとこんどはイチョウが全部黄色になって、一年に二回楽しめるの」
「見たことあるん?」
「あるよ。ここ長いから」
ななせはケロッと言った。「長い」がどのくらいなのか、律は知らなかった。
「あ、ここ」
ななせが一軒のパン屋の前で足を止めた。通りから少し入ったところにある小さな店で、木の扉にガラス窓がはまっている。窓の向こうにパンが並んでいるのが見えた。
「ここのクリームパン、おいしいんだよ」
「クリームパン」
「うん。あとカレーパンも。どっちにする?」
「……両方気になるんやけど」
「じゃあ両方買お! 私がクリームパンで、律くんがカレーパンで、半分こ」
「半分こて」
「いいじゃん半分こ。効率的だよ」
ななせは律の返事を待たずに店に入っていった。律は財布を出しながら後を追った。
店の中はパンの焼ける香りで満ちていた。カウンターの奥で年配の女性が生地をこねている。ななせはトレーを取って、迷いなくクリームパンとカレーパンを載せた。律が「俺が払うわ」と言うと、ななせは「え、いいの?」と言ってから「じゃあ次は私ね」とすぐに返した。次がある前提で話が進んでいる。
パンを受け取って外に出た。大学通りに戻ると、歩道脇にベンチがあった。桜の木陰に入る位置で、座ると木漏れ日がちょうど膝のあたりに落ちた。クリームパンを半分にちぎって交換する。ななせのちぎり方が雑で、クリームがはみ出していた。
「律くんさ」
「ん」
「この街、好き?」
律はカレーパンをかじりながら考えた。
「……嫌いじゃない。静かで。立川よりは好きかも。立川は一緒に行ったとき楽しかったけどね」
「ドンキ?」
「ドンキもだけど、なんか街の感じが。……実は来た日にも寄ってるんよ。好きなアニメの舞台が立川やったから」
「えー、聖地巡礼! 何てタイトル?」
「タイトル?タイトルはぁ——まあ、ええやん。苦学生が超頑張る映画」
ななせは「ふーん」と言って、それ以上は聞いてこなかった。代わりに「わかる、あのへんの雰囲気いいよね」と言った。律が何の映画か言っていないのに。
「(……何てタイトルかもわからんのに「わかる」って言えるのが、ななせやな)」
クリームパンは生地がふわふわで、口に入れるとほのかにバターの香りがした。中のカスタードがとろりと舌に広がる。甘すぎない。ちゃんと卵の風味がする甘さだった。カレーパンは衣がさくさくで、歯を立てた瞬間にぱりっと割れた。中のカレーは甘さのあとからじわっと辛味が追いかけてくる。どっちも美味しかった。どっちも、半分こで正解だった。
食べ終わって歩き出すと、ななせが不意に足を止めた。
街路樹の枝に——スズメが一羽とまっていた。二日前の朝と同じだ。小さな頭を傾けて、ぱっと飛び立った。
一瞬の間。
また同じスズメが——同じ枝に、同じ角度でとまった。頭を傾けて、ぱっと飛び立った。
ななせが「あ」と言った。
「デジャヴ、見えた」
律は咄嗟に周りを見た。通行人。自転車。パン屋。街路樹。何も変わっていない。体が勝手に構えていた。昨日の暴走のことが、まだ体に残っている。何かが起きる。デジャヴの後には何かが起きる。猫が二回通った初日はななせが話しかけてきた。スズメが二回飛んだ三日目は鍋のふたが落ちた。猫が何匹も続いた四日目は——好が暴走した。
十秒。三十秒。一分。
何も起きなかった。
通行人はそのまま歩いていった。自転車は通り過ぎた。空には雲が一つ浮かんでいるだけだった。
ななせは首を傾げた。
「……今回は何も起きなかった。たまにあるんだよね、こういうやつ」
「はずれのデジャヴは、いいデジャヴ」
標語みたいに、すらすらと言った。何十回も口にして角が取れた言葉の、あの滑らかさだった。言ってから、ななせは自分の言葉に自分でうなずいた。
「……って、ことにしてるんだ〜」
ケロッとしていた。いつもの顔だ。デジャヴが空振りだったことを、この子は気にしていない。少なくとも表面上は。
律は歩き出すななせの横顔を見ていた。
「(一緒に歩いてないと、わからんかった)」
ななせが振り返った。
「律くん、遅い。置いてくよ」
「あはは、ごめんごめん」
律は小走りで追いついた。ななせは笑った。初日に居間で笑ったのと同じ、くしゃっとした笑い方だった。
裏道に入って、古い文具店や、閉まったままの喫茶店や、壁に蔦の這った集合住宅の横を通った。ななせは住宅地の細い道をよく知っていた。角を曲がるたびに「ここの猫がね」「あの屋根の鳩がね」と動物の話をした。この子は人よりも動物の位置を覚えているらしい。
「猫ってさ、毎日ちょっとずつ場所が違うんだよ」
蔦の塀の前で、ななせが言った。
「同じ塀の、同じ日向でも、昨日と今日で寝てる向きが違うの。そこがいいんだよね。毎回、ちゃんと違うから」
「(毎回、ちゃんと違うから——って、褒め方が独特やな)」
それにしても、とも思った。ななせがこの街に住んで、確か一年くらいだと一さんが言っていた。一年でこんなに覚えられるものだろうか。どの角にどの猫がいて、どの屋根に鳩が帰ってくるか。
「(……いや、毎日散歩してたらそんなもんか。動物好きみたいやし)」
律は勝手に納得して、勝手に納得したことも忘れた。
二時間ほど歩いて、セオリア荘に戻った。門をくぐるとき、ななせが言った。
「また行こうね」
当然みたいに、言った。
律は「うん」と返した。悪い気がしなかった。悪い気がしないどころか、また行こうと思っていた。それを口に出す前にななせに言われただけだった。
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夕方になった。
好が台所のテーブルに参考書を広げていた。研究室の資料らしいものも横に積んである。律が水を飲みに来たのを見て、好がちらりと顔を上げた。
「律くん、今日も勉強する?」
昨夜——いや、一昨日の深夜の台所で勉強したのが二回目だ。今日で三回目になるのか。律は自室から参考書を取ってきて、好の向かいに座った。
「お邪魔します——じゃなかった。お邪魔するわ」
「……敬語、抜けきってないね」
「丁寧な振る舞いをモットーにしてるからね」
好は小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。律にはまだ判別がつかなかった。
三十分ほど、それぞれの勉強をした。律は数学の演習。好は何かの論文を読んでいる。台所には鉛筆の音とページをめくる音だけがあった。時々、好がマーカーを引く音が混じる。蛍光ペンの摩擦音は独特で、誰の音かすぐにわかった。
律がふと顔を上げると、好の手元にある資料が目に入った。統計のグラフがいくつも並んでいて、棒グラフの横に手書きの注釈がびっしり書き込まれている。字が小さくて几帳面だった。
「好さん、それ何の研究?」
好の手が一瞬止まった。マーカーのキャップを閉めて、律のほうを見た。目はすぐにそらさなかった。勉強中は吊り橋効果が薄れる。一昨日の深夜に発見した、好の法則の抜け穴だ。
「認知バイアスの数値化」
「認知バイアス」
「人間の思い込みを数字にしようとしてる。思い込みの強さとか、どういう条件で発動するとか——統計的に」
律は好の資料を見た。横軸に「刺激強度」、縦軸に「認知歪曲度」と書いてある。数字の羅列。重回帰分析。律が昨日習ったばかりの統計手法が、ここではもう道具として使われていた。
「……自分のことわりつきを研究してるん?」
好の指が止まった。マーカーをテーブルに置いた。
「……そう見える?」
「なんとなく」
沈黙が三秒あった。好は資料の端を指で弾いた。紙がぱたぱたと鳴った。
「正確には、自分を理解したくて始めた研究。私のことわりつきは吊り橋効果で、自分の感情が本物かどうかわからない。だから——感情のメカニズムを数字にできれば、本物かどうか判定できるんじゃないかって。そう思って始めた」
好は律を見ていた。集中モードの好の目は、普段とまるで違う。逸らさない。怯えない。ただまっすぐに相手の顔を見ている。
「でも、答えが出るかはわからない。二年やってる。データは増えた。でも増えるだけで、『これが本物です』って教えてくれる数字は、まだ見つかってない」
好の声は平坦だった。感情を均しているのではなく、もうとっくに均し終わった後の声だった。何度も同じことを考えて、何度も同じ結論に行き着いて、それでもまだやっている人の声。
律は何も言わなかった。言えなかった。
「(二年。二年間、自分を理解しようとして、データを取り続けて、答えが出ない。それでもまだやってるんか、好さんは。毎日メモに『今日のどきどき』を書いて、本物かどうか確かめようとして。確かめられないまま、それでも——)」
「(しんどいな。すごいし、しんどいな)」
好がまた視線をそらした。集中が途切れたのだ。テーブルの木目に目を落として、小さく言った。
「……ごめん、変なこと言った」
「変なこととちゃう」
律は言った。
「好さんが自分のことを理解したくてやってることやろ。変なこととちゃうし、謝ることでもない」
好は顔を上げなかった。でも指の動きが止まっていた。聞いている。
「俺には好さんの研究のこと、全然わからん。でも——好さんが答え探してるの、俺はすごいと思う。答え出んかもしれんのに、二年もやり続けてるの。それは——応援したい、って思った」
律は自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。応援したい、はちょっと大袈裟やった。でもそれが一番近い言葉だった。
好は三秒ほど黙っていた。それから、ペンケースからマーカーを取り出して、キャップを外した。
「……ありがとう」
小さく、でもはっきり。三日目の深夜に敬語を外してくれたときと同じ声だった。
好はそのまま資料に目を戻した。蛍光ペンの音が再開した。律も参考書に視線を戻した。台所の空気はさっきと変わっていなかった。変わっていないのに、何かが一つだけ軽くなった気がした。
「(好さんの研究は、答えが出ないかもしれない。好さん自身がそう言ってる。でも——答えが出ないこと自体が苦しいんじゃなくて、答えを探し続ける毎日がしんどいんやと思う。毎日記録して、毎日確かめて、毎日わからないまま次の日が来る。それを二年やってるんや)」
「(俺に何かできるわけちゃう。でも——隣で勉強してることくらいは、できる)」




