第五話③ 何かをせなあかん気がする
その夜。
律はマットレスの上で天井を見ていた。今夜は座布団ではない。自分の布団に自分で寝ている。昨夜ななせに譲った布団が返ってきた形だ。背中が楽だった。やはり座布団とマットレスでは天と地の差がある。
時計を見ると午前零時を少し回ったところだった。眠りかけていた。
引き戸の桟を、指先が叩いた。とん、とん。
昨夜と同じだ。律は反射的に体を起こした。
——でも、違った。
音が軽かった。昨夜のななせのノックより、もっと小さくて、もっと控えめな音。叩いているというより、触れているだけみたいな音。
引き戸を開けた。
千が立っていた。
パジャマ姿だった。二階から降りてきたらしい。裸足で、足元が少し冷たそうに見えた。目が——赤かった。泣いた後ではなく、泣きそうになるのを我慢した後の赤さだった。
「……千ちゃん? どうした」
律は廊下にしゃがみ込んだ。片膝をついて、千の顔を覗き込んだ。十三歳。律より三つ下で、身長は律の胸のあたりまでしかない。しゃがむとちょうど同じ高さになった。その目が、暗い廊下の中で律を捕まえていた。
「……怖い夢、見た」
声が小さかった。いつもの「別に」よりもっと小さかった。
律は引き戸を大きく開けた。
「入る?」
千はこくっとうなずいて、部屋に入ってきた。律の布団を見て、少しためらってから、端に座った。座って、膝を抱えた。
律は押し入れから座布団を引っ張り出した。昨夜と同じだ。二日連続で座布団生活になるとは思っていなかったが、仕方がない。
「俺は床で寝るから、布団使い」
「……隣でいい」
千が言った。
律は座布団を持ったまま止まった。
「……それはちょっと」
「お兄ちゃんのとこで寝るの、普通でしょ」
「(お兄ちゃん——て、俺のことか。お兄ちゃんってそういうもんか? いや、俺は一人っ子やから兄の立場がわからんのやけど)」
千の目がまだ赤かった。怖い夢を見た、と言った。十三歳だ。怖い夢を見て、二階の部屋で一人で、眠れなくて降りてきた。
「(……まあ、子どもやし。怖い夢見たって言ってるし)」
律は座布団を持ったまま、少し考えた。それから座布団を押し入れに戻した。
「(昨日、好さんの暴走を止めたのは、触ったからやった。触れたら落ち着く。ことわりつきと関係ない温度が、誰かを安心させる。千ちゃんも——触れてたほうが、落ち着くかもしれん)」
布団の端に横になった。千との間に拳一つ分くらいの隙間がある。天井を見た。隣で千の呼吸が聞こえる。まだ眠っていない。
千がもぞっと動いた。布団の中で律のほうに寄ってきて、律の腕に頭を乗せた。
「……腕、借りる」
「……うん」
腕枕、というやつだった。十三歳の頭は思ったより軽くて、でもちゃんと重さがある。髪と頬が律の腕に触れている。胎毛のようにさらさらで、赤ちゃんのようにすべすべだった。
近づくと、ほんのり甘い香りがした。ミルクのような、やわらかい香り。箕面にいたとき、お隣の家の赤ちゃんを見せてもらったことがあった。あのとき感じたのと同じ——小さい子が安心して眠るときの、あの香りだ。
どきどきはしなかった。ななせが隣にいた昨夜とは、体の反応がまるで違う。ただ、この子がここにいて、自分の腕の上で眠ろうとしていることが——なんというか、信頼されている、という感じだった。
しばらく沈黙があった。千の呼吸が聞こえる。まだ眠っていない。
「どんな夢やったん」
律が聞いた。聞かないほうがいいかとも思ったが、千は話しに来たのだ。話したいから来た。そうでなければ、二階の自分の部屋で一人で耐えていたはずだ。
天井を見ている律の横顔をまっすぐ見たまま、千はぽつりと言った。
「……みんなの顔が、わからなくなる夢」
律は黙った。
「一さんの顔も、好さんの顔も、ななせの顔も。ぜんぶ同じに見えて。区別がつかなくなって。名前を呼んでも返事がなくて」
千の声は平らだった。でもそれは、好の平らさとは違う。好は感情を均し終わった後の平らさだ。千は感情をまだ持て余していて、ぜんぶ出すと溢れるから、表面だけ均している。十三歳のやり方だった。
「……で、最後に、律の顔もわからなくなった」
律は千のほうを向いた。千は天井を見ている。律のほうは見ていなかった。
「起きたら、ちょっと確かめたくなった。律がちゃんと律に見えるか」
「……見えてる?」
「見えてる」
千が、ふっと体の力を抜いた。布団の中で肩が下がったのがわかった。
「(ゲシュタルト崩壊のことわりつき。千ちゃんの場合は、人の顔が——仲良くなるほど、その人が誰なのかがわからなくなるんか。夢の中でもそれが出てくるってことは——起きてるときだけじゃなくて、寝てるときもことわりつきに追いかけられてるってことや)」
沈黙が長くなった。千の呼吸が少しずつ深くなっていく。
「……律って、なんかあったかい」
千がぼそっと言った。もう半分眠っている声だった。
「あったかい?」
返事はなかった。千の寝息が始まっていた。
「(あったかい、か。体温の話なのか、別の何かなのか)」
律の腕の上で、千が寝ている。腕が少し痺れてきたが、動かすと起こしてしまいそうで、そのままにしていた。顔だけを動かして千を見る。さらさらですべすべで、恐ろしく整った顔の美少女がそこにいる。
「(あらためて見ると、千ちゃん、こんなに綺麗な顔やったんやな)」
昨夜はななせだった。今夜は千だ。二夜連続で人の寝息を聞きながら眠る夜になった。
でも温度が違った。
ななせの夜はどきどきがあった。すぐ横に寝ている同い年の女の子の存在が、意識の端でずっと光っていた。千との夜にそれはない。怖い夢を見た子どもが、安心できる場所を探しにきた。律の腕に頭を預けて、美少女が寝息を立てている。ただそれだけだった。
「(……この子は、大丈夫なんやろか)」
大丈夫だと言い切れなかった。律には千のことわりつきの深さがわからない。わからないからこそ、心配が消えなかった。
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五日目が終わる。
「(何かをせなあかん気がする)」
五日間で初めて、はっきりとそう思った。
なんとなくではない。漠然とでもない。ここにいて、この人たちの横で暮らしていて、「何かをせなあかん」という感覚が——形を持ち始めていた。
好さんの暴走を止めた。触って止めた。理由はわからない。でもできた。ななせの何も起きないデジャヴが見えた。千ちゃんが怖い夢を見る。俺の腕枕で安心して寝る。
「(この家のために。この人たちのために。何をやるかはわからんけど——俺がここにおる理由が、家賃だけちゃうことだけは、もうわかる)」
答えはまだ出ない。何をすればいいのかもわからない。
でも——ここにいようと思った。ここにいて、この人たちの隣で、もう少しだけ。
五日目が終わった。千の寝息が静かに続いている。腕の痺れが、少しだけ強くなった。
でも悪くない夜だった。
——朝、目が覚めると、律は畳の上にいた。布団から転がり出たらしい。座布団は押し入れに戻したままだから、背中の下には何もない。畳の目が背中に直接食い込んでいる。煎餅布団時代を超える痛さだった。腕の痺れは取れていた。布団の中では千がまだ眠っていて、律がいなくなった分だけ布団を広く使って、大の字になっていた。
「(……結局こうなるんか)」
六日目の朝が来た。




