第六話① 千ちゃんは、見た後に謝る
第六話「ひびが入る」
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六日目の朝は、静かだった。
律が再び目を覚ましたとき、隣に千はいなかった。布団は畳んであって、枕の横にスケッチブックの切れ端が置いてあった。鉛筆で何か描いてある。律はいつもより重たい目でそれを拾い上げた。
猫だった。黒猫。丸っこい体に大きな目。横に小さく文字が添えてある。
「ありがと」
律はその切れ端をしばらく見ていた。千が描いたのだ。律が寝ている間に描いて、置いていったのだ。十三歳の字だった。丸くて、少しだけ右に傾いている。
「(……千ちゃん、起きるの早いな。いや、俺が二度寝したからか)」
時計を見ると七時半だった。背中がまだ痛い。マットレスがあるのに畳で寝るという本末転倒を二日連続でやっている。
台所から味噌汁の香りがした。一が朝食を作っている。この家では毎朝同じ光景がある。誰かが起きて、一が台所にいて、味噌汁の香りが廊下に漂っている。六日目にして、律はその香りを「日常」だと思い始めていた。
着替えて台所に入ると、一が振り向いた。
「おはよー、律くん。今日はちょっと寝不足?」
「おはようございます。……なんでわかるんですか」
一はふわっと笑った。
「目の下がちょっとだけ」
「(……この人、観察力が高いんか、それともことわりつきで俺の状態が見えてるんか。どっちにしても朝から鋭いな)」
千はもう台所にいた。テーブルの端で味噌汁を食べはじめている。律と目が合うと、少しだけ会釈をした。昨夜のことには触れなかった。律も触れなかった。あの猫の絵のことも。触れなくていいことが、触れないまま朝に溶けていくのは、悪くない感覚だった。
好が来た。コーヒーをすぐに入れ始める。律と目が合うと、一瞬だけ外してから、もう一度見た。最近はこのリズムが定着してきている。外して、戻る。以前は外したまま戻ってこなかった。三日目の深夜の台所から、少しずつ距離が変わっている。
ななせは遅かった。八時を過ぎてからパジャマのまま現れて、「おはよー」と低い声で言い、律の隣に座った。昨日と同じ席。定位置になりつつある。
五人の朝食が進んだ。
一が千の前に鮭を置いた。千が無言で受け取った。好が二杯目のコーヒーを入れた。ななせがごはんに味噌汁をかけようとして、一に「それ、もはや味噌汁にごはん入れてるね」と言われた。律は味噌汁を飲みながら、その光景を見ていた。
普通の朝だった。昨日と同じで、一昨日と似ていて、たぶん明日も同じだろうと思える朝だった。
でも——何かが違った。
何が違うのか、律にはまだわからなかった。空気の温度でもない。会話の量でもない。みんないつものように笑って、食べて、朝を過ごしている。
ただ、千の「別に」が、どこか遠い気がした。
一が「今晩なに食べたい?」と全員に聞いたとき、ななせは「ハンバーグ!」と即答し、好は「なんでもいい」と言い、律は「俺もなんでもいい」と言い、千は——。
「……別に」
いつもの返事だった。千はいつも「別に」と言う。それ自体は何も変わらない。でも今日の「別に」は、昨日の「ありがと」からは遠い場所にある声だった。
一はいつもどおりに受け流した。「じゃあハンバーグにしよっか」と笑って、皿を片付け始めた。
律だけが千を見ていた。千は気づいていなかった。
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午後。
千が一人で縁側に座っていた。
七月の日差しが庭に落ちていて、雑草の緑が光っている。一が朝に水を撒いた跡がまだ湿っていた。縁側の軒先には影ができていて、千はその境目に座っている。日向と日陰のちょうど真ん中。どちらにもいないような位置だった。
律は勉強を終えて居間から縁側に出たところで、千の背中を見つけた。
小さかった。律の部屋で大の字に寝ていた昨夜の千と、今ここに座っている千が、同じ人間だとは思えないくらい小さかった。
「千ちゃん、日向暑くない?」
千は振り向かなかった。
「……別に」
律は千の隣に座った。縁側の板が日差しで温まっていて、座ると太腿が熱かった。二人とも前を見ている。庭の雑草と、その向こうの黒板塀と、塀の上にちらりと見える電線だけの景色だった。
沈黙が長かった。律は何も言わなかった。何かを言おうとして、でも何を言えばいいかわからなくて、黙って庭を見ていた。蝉の声がどこからか聞こえてくる。七月の東京。大阪とは蝉の鳴き方が少し違う気がした。
千が口を開いた。
「……律って、友達多い?」
「普通くらいかな。多くもないし、少なくもないと思うで。なんで?」
千は膝を抱えた。足の爪先が縁側の板からはみ出している。裸足だった。
「……私、あんまり続かないから」
「続かないって?」
「仲良くなると……なんか、わからなくなる」
千の声は平らだった。でもこれは、好の平らさとも、ななせのケロッとした声とも違う。十三歳が言葉を選んでいる声だった。選んでいるというより、選ばないとこぼれてしまうから選んでいる声だった。
「その人が誰なのか、急に、わからなくなるの。顔は見えてる。でも——『この人って誰だっけ』って思う瞬間が来る。そうなったら、もうむり。離れちゃう」
律は黙って聞いていた。
「最初は気にしなかった。幼稚園のとき、いちばん仲良かった子の名前が思い出せなくなって、でもそういうものかなって思ってた。小学校でもあった。仲良くなるたびに、途中で——ぜんぶ崩れる。みんなの顔が同じに見えて、声が混ざって、名前が消える」
千が庭を見ている。雑草の穂先のあたりで、目が動かない。
「千ちゃんのせいじゃないんちゃう」
律が言った。柔らかく言ったつもりだったが、声が少し掠れた。昨夜の千の夢——みんなの顔がわからなくなる夢——あれが、現実でも起きているのだと、今わかった。
千は首を横に振った。
「わかってる。ことわりつきのせいだって、わかってる。でも——毎回、自分が悪い気がする。離れるのは私だから。わからなくなるのも私だから」
「(千ちゃんのことわりつき——仲良くなるほど、相手のことがわからなくなる。だから深入りする前に自分から離れる。離れるたびに、自分のせいだと思って。それを——何回繰り返してきたんやろ、この子は)」
蝉が鳴いていた。庭の隅で、何かの虫が草を揺らしている。千の裸足の爪先が、縁側の板の端をこすった。
「……また、見えなくなるんだろうな」
千がぽつりと言った。
律は千のほうを見た。千は前を向いたままだった。横顔は表情がなかった。でも眉の端がほんの少しだけ下がっている。泣いているわけではない。泣くよりもっと手前の、諦めに近い場所にいる顔だった。
「(「また」。「また、見えなくなる」。千ちゃんは何度もそれを経験してきて、次もそうなるとわかってる。わかっていて、でもここにいる。ここにいて、昨夜は俺のところに降りてきた。怖い夢を見て。俺の顔が見えるか確かめに来た。——確かめなきゃいけないくらい、この子は怖いんや。見えなくなることが)」
何か言わなければいけない気がした。でも何を言えばいいのかわからなかった。「大丈夫」は嘘になる。「俺がいるから」は無責任になる。千のことわりつきを律が止められるかどうかもわからない。好の暴走は触れて止めた。でも千に対して同じことができるかはわからない。わからないのに、安易なことは言えなかった。
律が言葉を探している間に、千が立ち上がった。
「ごめん、変なこと言った」
そう言って、千は縁側から居間に戻っていった。裸足の足音が廊下の奥に消えていく。
律は一人で縁側に残った。千が座っていた場所の板が、まだ少しだけ温かかった。
「(変なことなんかちゃう。全然変なことちゃう。でも千ちゃんは、自分の内側を見せた後に、反射的に謝るんやな。「ごめん」って)」




