第六話② 見つめるほど、わからなくなる
夕方になった。
一が台所で夕飯の仕込みを始めていた。ハンバーグ。ななせのリクエストだ。玉ねぎを刻む音、ひき肉をこねる音が台所に響いている。律は居間で参考書を広げていたが、集中できなかった。午後の千の言葉が頭から離れなかった。
ななせが居間に来た。着替えて、髪を結んでいる。いつものアホ毛だけが結び目から飛び出していた。
「うわー。ハンバーグだ」
ななせが台所に入っていく。律も参考書を閉じて台所に向かった。
台所では一がハンバーグの種を丸めていた。ななせが「手伝うー」と言って横に立ち、見よう見まねで肉を丸め始めた。形がいびつだった。一が「ななせちゃん、空気抜かないとね」と言って、手のひらで打ちつける動作をやって見せた。
そのとき——一がふと手を止めた。
「ななせちゃん、最近ちょっと疲れてない?」
一の声はいつもと変わらず柔らかかった。少なくとも律にはそう聞こえた。でも——言葉の先端が鋭角だった。
ななせの手が一瞬止まる。ハンバーグの種を持ったまま、ほんの一秒だけ、指が硬直した。
律は見ていた。
ななせが答える。
「そう? 元気だよー」
ケロッとしていた。いつもの声。いつもの笑顔。一秒前の硬直は嘘のように消えていて、ななせは何事もなかったかのようにハンバーグを丸め続ける。
一も「そっか。ならいいんだけど」と言って、フライパンを火にかけた。
「(……一さん、いつもはもっとふわっとしてたのに)」
律は台所の隅で水を飲みながら考えていた。一はいつもこういう聞き方をする人だ。「何食べたい?」「困ったことない?」「寒くない?」。全部、ふわっとしていて、押しつけがましくなくて、受け取っても受け流してもいい距離感の言葉。
でも今のは違った。
「疲れてない?」「無理してる感じがする」。それは感想ではなく、診断だった。ななせの内側を読み取って、表面の下にあるものを指でなぞるような言葉だった。一がそんな言い方をしたのを、律は六日間で初めて聞いた。
「(今の、ななせは一瞬だけ固まった。すぐに戻したけど——刺さってた。ケロッとしてる子の中にある何かに、一さんの言葉が届いてしまった。たぶん一さん自身は気づいてない。いつもどおりのつもりで言ったんやと思う。でも——ちょっと、鋭かった)」
フライパンの上で肉が焼ける音が台所に広がった。ジュウ、という低い音。一がフライ返しで形を整えている。ななせはもう別の話をしていた。「ねえ一さん、チーズ入りにしていい?」「いいよー」。笑い声。普通の夕方。
千が台所に入ってきた。麦茶を取りに来たらしい。冷蔵庫を開けてボトルを出す。その背中に一が声をかけた。
「千ちゃん、今日おひるのとき、あんまり食べてなかったよね。お腹空いてない?」
千は冷蔵庫の扉を閉めながら振り返った。
「……別に。お腹空いてないだけ」
「でもさ」
一の声は優しかった。笑顔も変わっていなかった。でも——言葉が止まらなかった。
「千ちゃん、最近ちょっと、減ってきてる気がして。ごはんの量。……一人でいる時間も増えた気がするし」
千の手がボトルの上で止まる。
「……別に。もともとそんなもんだし」
千はそのまま台所を出ていった。足音が廊下を歩いて、階段を上がっていく。二階の引き戸がぴしゃりと閉まる音が遠くに聞こえた。
一は千が出ていった廊下を見ていた。
「……あれ、何か変なこと言っちゃったかな」
ななせが「大丈夫だよ、千ちゃんいつもああだし」と軽く言った。一は「そうだよね」と笑って、フライパンに戻った。
律は水のコップを持ったまま動けなかった。
「(一さん。いつもなら千ちゃんの『別に』を流す人やのに。今日は二回続けた。しかも『減ってきてる』『一人の時間が増えた』——あれは気遣いやない。観察結果や。一さんの頭の中に、千ちゃんについてのデータが積み上がってて、それがそのまま口に出てきた感じがした)」
「(一さんのことわりつき。誰にでも当てはまるような言葉が、なぜか相手にだけ深く刺さる。いつもの一さんは、それをふわっとした距離感で使ってる。だからみんなに好かれる。でも今日は——距離感が狂ってる。ふわっとさせるフィルターが薄くなって、中身がそのまま出てきてる。本人は気づいてない。いつもどおりのつもりで喋ってる。でも——届き方が変わってる)」
律だけが、その変化を記憶に留めていた。
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夕飯の後。
ハンバーグは美味しかった。ななせのチーズ入りは形がいびつだったが味は悪くなかった。千は普通に食べた。午後の縁側での顔は消えていて、いつもの「別に」の千に戻っていた。
片付けの間に、好と律が台所に二人で残った。好が皿を洗い、律が拭いている。いつの間にかできた分担だった。
好が手を止めた。蛇口から水が流れ続けている。
「律くん」
「ん」
「私——律くんのこと、もう少し理解したいと思ってる」
律は手を止めた。好は蛇口に目を落としたまま、言葉を探している様子だった。水が流れている。
「研究対象として、じゃなくて。……いや、研究対象としても。でもそれだけじゃなくて——」
好は途中で口を閉じた。蛇口の水を止めた。手をタオルで拭いて、少しだけ律のほうを向いた。
「……ごめん、変なこと言った」
好はそのまま自室に戻っていった。
律は濡れた皿を持ったまま、台所に一人で立っていた。
「(あ)」
気づいた。
「(また『ごめん』や)」
昼の千。「ごめん、変なこと言った」。夕方の好。「ごめん、変なこと言った」。同じ言葉だ。同じタイミング。自分の内側を少しだけ見せた後に、反射的に扉を閉める。閉めるときに添える言葉が——どちらも「ごめん」。
「(好さんも千ちゃんも、自分の中にあるものを見せた後に、謝るんやな。自分の内側が相手に届いてしまったことを——迷惑をかけたと思ってる。でもそれ、謝ることちゃうやろ。自分のことを話しただけや。自分のしんどいところを、ちょっとだけ見せただけや。なんでそれが「ごめん」なんやろ)」
「(でも——わかる気もする。ことわりつきを持ってたら、自分の内側を見せること自体が怖いんかもしれん。見せた瞬間に、何かが変わってしまう。好さんは自分の感情が本物かわからないから、見せること自体が賭けになる。千ちゃんは見えなくなるから、近づくこと自体が怖い。だから見せた後に「ごめん」って言う。保険みたいに。——いや、保険ちゃう。防壁や。自分で自分を守るための)」
律は皿を拭き、食器棚に戻した。台所の電気が蛍光灯特有の白い光で部屋を満たしている。窓の外が夕暮れの色に変わり始めている。




