第六話③ その一言は、「ごめん」じゃなかった
縁側に出ると、ななせが座っていた。
夕暮れの光が庭に差し込んでいて、黒板塀の上の空がオレンジ色に染まっている。ななせは膝を立てて座っていた。
律は何も言わずに隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。台所から一が千に何か話しかけている声が聞こえる。好の部屋の引き戸がかたんと閉まる音がした。縁側の外では蝉が鳴いていたが、日が落ち始めるとともに声が小さくなっていった。
ななせの横顔を見た。いつもと違った。
ケロッとしていなかった。
怒っているわけではないし、泣いているわけでもない。ただ——ケロッとしていない。初めて見る顔だった。ななせの顔にはいつも何かの表情がある。笑っているか、ケロッとしているか、「えー」と驚いているか。表情のない瞬間がない子だった。でも今のななせは——何もつけていなかった。
「律くん」
ななせの声は低くはなかった。でも抑揚がなかった。いつもの上がったり下がったりする声ではなく、一本の線のような声だった。
「私のデジャヴの話、もう一回していい?」
律は「うん」と答えた。
ななせは庭を見ていた。夕暮れの光が顔の半分を照らしている。
「デジャヴって言ったよね、最初に。嘘は言ってない。でも——全部は言ってない」
律は動かなかった。ななせの声を聞いていた。
「私のデジャヴは——時間が戻るの」
蝉が鳴きやんだ。
「全部。セオリア荘の時間が、リセットされて、最初からやり直しになる」
律の頭の中が一瞬白くなった。言葉の意味を理解するのに三秒かかった。時間が戻る。全部。最初から。
「リセット——って、どういう」
「そのまんま。時間が巻き戻る。セオリア荘だけじゃない、ぜんぶ。東京も、日本も、たぶん世界も。ぜんぶが前に戻って、何もなかったことになる」
ななせの声は揺れなかった。一本の線のまま。感情を制御している声だった。
「私だけ覚えてる。みんなリセットされて、何も覚えてなくて。また最初から。一さんも、好さんも、千ちゃんも——全員が何も覚えてない状態に戻って、また同じ日々を繰り返す」
律は縁側の板を握っていた。指が白くなっていたが、気づかなかった。
「何回——」
「二十回」
沈黙が落ちた。
庭の雑草が風に揺れた。塀の向こうを車が一台通り過ぎる。遠い音だった。
律は声を出そうとしたが、出なかった。二十回。二十回のリセット。二十回の繰り返し。数字の意味が頭の中で膨らんで、言葉を押し出す隙間がなかった。
ななせが続けた。声は変わらなかった。
「戻るたびに、もっと遠くに飛ぶの。最初は二ヶ月前。二回目は四ヶ月前。三回目は六ヶ月。今回は——四十ヶ月前まで戻った」
「四十ヶ月——」
「毎回2ヶ月ずつ増える。1回目が2で、2回目が4で、20回目が40」
律の頭が動いた。数字が並んだ。2+4+6——等差数列だ。高校数学で先週やった。初項2、公差2、項数20。合計は2×20×21÷2で——。
「四百二十ヶ月」
律が言った。声が掠れていた。
「年にすると三十五年」
ななせがゆっくりとうなずいた。
「私、十六歳だけど——戻るたびに生き直してきた時間と合わせると、五十一歳分の記憶がある」
五十一歳。
律は隣に座っている女の子を見た。十六歳。身長は律より少し低くて、アホ毛が跳ねていて、クリームパンを半分こしようと言う子。その子の中に、俺のおかんより長い時間が入っている。
「(三十五年。三十五年間、一人でこれを繰り返してきたんか。リセットされるたびに、全員が何も覚えてない状態に戻って——また最初からやり直す。二十回。二十回も)」
頭が追いつかなかった。理解はできる。数字も計算も合っている。でも、それが目の前にいるこの子の人生だという事実が——追いつかなかった。
「……なんで戻るん」
律の口から出た言葉は、ほとんど反射だった。
ななせは少し考えてから言った。
「何かが——壊れるの。みんなのことわりつきが暴走して、連鎖して、手がつけられなくなって。その先は、まだ——言わないでおく。今日は多すぎるから」
律はうなずいた。多すぎた。すでに多すぎた。
ななせが庭を見たまま言った。
「律くんに会うのも最初と合わせると二十一回目」
律の呼吸が止まった。
「毎回、律くんは何も覚えてない。——毎回、『はじめまして』から始まる」
そこだけ、声が揺れた。
ほんの少しだけ。崩れたわけではない。線が震えただけ。でも律は聞き逃さなかった。六日間、この子のケロッとした声を聞いてきた。初日の「まあいっか!」も、パン屋での「半分こ」も、デジャヴの後の「たまにあるんだよね」も、全部同じトーンだった。そのトーンが、今この一行だけ、揺れた。
初日のことを思い出した。ななせが律の顔を見て止まった瞬間。「あれ、なんかデジャヴ」。あれは——二十回目の再会だった。ケロッとした顔でそれを受け流した。「まあいっか!」で蓋をした。二十回分の記憶を全部しまい込んで、また最初から「ようこそセオリア荘へ」と言った。
「ちょっと、めんどくさいけどね」。初日に庭で黒猫を見ながら言った一言。あれが——三十五年分の重さだった。
律の目の奥が熱くなった。でも泣かなかった。
「(泣くんは俺の役ちゃう。三十五年泣かんかった子の前で、六日目の俺が泣くのは——筋が違う)」
「ななせ」
律は言った。
「俺、なんかわかる気がする」
ななせが初めて律のほうを向いた。夕暮れの光が両方の顔を照らしていた。
「初めてここに来たとき、初めてじゃない感じがあった。家賃が安いからだけでここに来たんちゃう気がしてた。なんでわざわざ東京に来たのか、自分でもわからんかった。でも——何かがここにあるって思ってた。何かをせなあかんって、ずっと」
ななせの目が少し大きくなった。
「それ、ループの残りカスみたいなもんなんちゃうかな」
律は自分の手のひらを見た。昨夜、千の頭を支えていた手。四日目に好を抱きしめた手。ななせとパンを半分こした手。
「俺も九回分くらい——覚えてないけど、残ってるんやと思う。リセットされて記憶は消えてる。でも何かが残ってる。ここに来るべきやったっていう感覚とか、何かをせなあかんっていう直感とか。それが——九回分の残像なんちゃうかな」
ななせの目が見開かれた。
夕暮れの光の中で、ななせの瞳が揺れた。ケロッとした顔も抑揚のない声も消えている。今のななせは——ただ驚いていた。
ななせは律を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。唇が微かに動いたが、声にならなかった。
「……律くん」
ようやく声が出た。少し震えていた。
「今みたいなこと言った律くん、一人もいなかった」
二十回。二十人の律。全員がリセットされて、何も覚えていなくて、「はじめまして」から始まる律。その十九人が——誰一人として、こんなことは言わなかった。
ななせの手が震えている。膝の上に置いた手が、小刻みに揺れていた。
律は何も考えずに、右手を伸ばした。ななせの左手に触れる。指先だけ。触れただけ。
ななせの手の震えが——止まった。
「(……あ。止まった。好さんのときと同じや。触れたら、止まる)」
でも——これは違うかもしれなかった。好の暴走を止めたときとは。ことわりつきの抑制ではなく、ただ——隣にいるということ。それだけかもしれなかった。
ななせは律の手を振り払わなかった。指先が触れたまま、二人で庭を見ていた。夕暮れが終わりかけていた。空のオレンジが薄くなって、藍色が端から滲み出している。
「……ありがとう」
ななせが小さく言った。「ごめん」ではなかった。
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その夜。
律は目を閉じたまま、右手の指先を見た。見えないけれど、さっきの感触が残っている。ななせの手に触れた感触。震えが止まった瞬間の感触。
今日の分の重さを抱えたまま、律は眠った。




