第三話② 大学通りは、まっすぐすぎる
朝食の片付けが終わった後、律は居間で伸びをしながら言った。
「今日、ドンキ行こうかなと思ってるんやけど」
「ドンキ! なに買うの!」
ななせが即座に反応した。台所から戻ってきたばかりで、まだ手を拭いている途中だった。
「敷きパッドか、マットレスか——とにかく背中に敷くもの。煎餅布団がもう限界で」
「あー、律くんの布団ぺったんこだもんね。私のもだけど、私は慣れちゃった」
「慣れたくはない」
「じゃあ一緒に行こ! 立川のドンキでしょ? 私も見たいものあるし!」
断る理由がなかったので、断らなかった。
ななせと二人で国立駅まで歩いた。七月の朝は九時を過ぎると容赦がない。大学通りの木陰を選んで歩いたが、日向に出るたびに頭のてっぺんから汗が滲んだ。ななせは暑さを気にする様子もなく、三歩に一回くらいの頻度で話題を変えながら歩いていた。好きな飲み物の話から、セオリア荘の風呂の順番の暗黙ルールの話になり、いつの間にかカブトムシの話になっていた。律はところどころで相槌を打ちながら、話題の接続詞がどこにあったのかを必死に探していたが、見つからなかった。
「(……この子の頭の中、どういう構造になってるんやろ)」
中央線のホームに立つと、電車はすぐに来た。一駅。乗降口の横のつり革に二人で並んで立って、三分で着いた。
立川の改札を出た瞬間、空気が変わった。
やはり、国立とは別の街である。駅前のペデストリアンデッキに人が溢れていて、頭上にはモノレールの高架が走っている。ビルの壁面に大きな広告が並び、信号待ちの歩行者が五列くらいの厚みで揺れていた。
二日前もここにいた。新幹線から乗り継いで最初に降りた駅。好きなアニメ映画の舞台になった街。あの映画の主人公が毎日見ていた空も、たぶんこんな色をしていたのだろう——とか、二日前はそんなことを考えていた気がする。今日はそんな余裕がなかった。隣でななせが「あ、クレープ屋!」と指差していたからだ。
「帰りにな」
「えー」
「先にドンキ」
「はーい」
素直だった。この子は主張が強いわりに、引き際が綺麗だ。ごねない。「えー」で終わる。大阪の友達にもこのタイプがいて、律はそういう人間が嫌いではなかった。
ドンキは駅から少し歩いた場所、駅前のビルの中ではなく、通りを一本入った先にある。二日前にも来ているので道は覚えていた。看板の圧縮陳列が視界に入った瞬間、ななせが「うわー」と声を上げた。
「この感じ好き。モノが多い場所って安心するんだよね」
「(モノが多い場所で安心する、か。俺はどっちかっていうと疲れるタイプやけどな)」
店内に入ると、ななせの行動パターンが変わった。
それまで律の半歩横を歩いていたのが、急に二メートルくらい先を行くようになった。棚の端から端まで視線を走らせて、気になったものに手を伸ばし、三秒ほど裏面を読んで棚に戻す。次の棚。同じ動き。異様に効率的だった。
「(……買い物慣れてるな、この子)」
律は寝具コーナーを探した。エスカレーターで上の階に上がると、圧縮陳列の隙間に布団やらマットレスやらが詰め込まれていた。折りたたみマットレスが三種類、敷きパッドが五種類。律は厚みと値段を順番に確認していった。
四センチの低反発マットレスが二千九百円。これでいい。煎餅布団の上に敷けば、合計七センチくらいにはなる。背骨が畳に届かない厚さ。それだけで十分だった。
抱えて振り返ると、ななせがいた。
手にポテトチップスの大袋を持っていた。
「律くん、これ買っていい? セオリア荘のお菓子棚に置くやつ」
「俺に聞かれてもなぁ」
「だって今日お金持ってきてないんだもん」
律は三秒ほど黙った。
「……交通系ICカードでもお求めいただけますよ?」
「ICカードには帰りの電車賃ぶんしか入ってないんだもん」
律は諦めてななせに尋ねる。
「……おいくら万円?」
「百九十八万円!」
安かった。マットレスの十五分の一以下だった。
「……ええよ」
「やった! ありがとう律くん! あ、ななせって呼んでくれてるのに私が律くんて呼ぶの、バランス悪い?」
「別にええけど」
「じゃあそのままでいいや。律くんは律くんって感じだし」
「(感じって何の感じやねん)」
レジに二人で並んだ。マットレスとポテチ。組み合わせとしてはよくわからなかったが、ななせは満足そうだった。
「(三千百円か。このマットレスで背中がましになるなら、安い買い物やな)」
袋に入れてもらったマットレスを抱えて店を出た。七月の日差しが正面から当たる。ななせがポテチの袋を振りながら隣を歩いていた。
「律くん、立川好き?」
駅に戻る途中で律に買ってもらったクレープを食べながら、ななせが尋ねる。
「好きっていうか——前にも来てるし、嫌いではないかな」
「なんか慣れてるよね、道とか」
「二日前に来ただけやけどな」
そう返してから、少し引っかかった。慣れている、と言われると否定しにくい。道を覚えていることだけではない。駅前の空気そのものに、妙な馴染みがある。
「……でもまあ、なんか落ち着くな、ここ」
言ってから、自分で変だと思った。二日前に一回来ただけの駅前だ。人は多いし、騒がしいし、落ち着く要素はどこにもない。なのに足の裏が地面を知っているような、そういう感覚がある。理由がわからなかった。
ななせが律の顔をちらっと見た。一瞬だけ、何かを確認するような目をした気がした。でもすぐに前を向いた。
「わかるー。私も立川好き」
それだけだった。律の「落ち着く」を拾いも掘りもしなかった。
「(……まあ、気のせいやろ)」
中央線で一駅戻って、大学通りを歩いて、セオリア荘の門をくぐった。マットレスを抱えたまま玄関の引き戸に手をかけて、開けた。
「ただいま」
言ってから気づいた。
三日目だ。三日目で「ただいま」が出てくるか、普通。
「おかえりー」
台所のほうから一の声が返ってきた。あまりにも自然だった。間がなかった。律が言い終わる前に「おかえり」が始まっていたくらいのタイミングで、声のトーンも何かを待っていたのではなく、条件反射のように滑らかだった。
「(……ツッコむ暇がなかった。一さんの「おかえり」が自然すぎて、俺の「ただいま」のほうが正しいみたいになってしまった)」
ななせは律の横をすり抜けて、「ただいまー! ポテチ買ってきたよー!」と居間に駆け込んでいった。律はマットレスを抱えたまま、玄関の土間に立っていた。
「(まあ、ええか。ただいまでも、おかえりでも。別に誰も気にしてないなら、俺も気にせんでいい)」
靴を脱いだ。廊下の木の感触が足の裏に冷たかった。三日前にも感じた冷たさだ。でも今日は、少しだけ懐かしい冷たさだった。
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マットレスを自室に敷いて、煎餅布団をその上に乗せた。手で押してみると、四センチの低反発が体重を受け止めて、じわっと沈んだ。畳の硬さが届かない。
「(これで今夜から人間の背中に戻れるな)」
部屋を出て居間に向かうと、縁側に二つの影があった。
一と千だった。
並んで座っている。二人とも庭のほうを向いていて、何も喋っていなかった。一がスマホを眺めている。千は膝を抱えている。二人の間に会話はないのに、空間が破綻していなかった。沈黙が沈黙のまま成立している、そういう並び方だった。
一が唐突に口を開いた。
「千ちゃん、好きな食べ物ある?」
「……別に」
沈黙が戻った。
律は廊下の角に立ったまま、動けなかった。この二人のやりとりは、観客を必要としていない。でも、見ていたかった。
しばらくして——十秒か、二十秒か——千がぼそっと言った。
「グラタン、嫌いじゃない」
一が振り向いた。にこっと笑った。
「じゃあ今日の夜はグラタンにしよっか」
千は何も返さなかった。でも膝を抱える腕の力が、わずかに緩んだように見えた。
「(……なんやあの二人。なんか、いいな)」
律は、なぜ「いいな」と思ったのか、自分でもよくわからなかった。二人の会話は最小限で、感情表現もほとんどない。でもあの沈黙の密度と、千の「嫌いじゃない」の遅さと、一の笑顔の速さ。あのバランスが、見ていて妙に心地よかった。
「(千ちゃんは「別に」って言ったけど、あれは拒否やない。考えてたんやな。自分が何を好きなのかを、ちゃんと確認してから答えた。で、一さんはそれを待てる人やった。待って、出てきた答えを嬉しそうに受け取った)」
「(——なんか、そういうのって、時間かけて作るもんやんな)」
律は音を立てずに廊下を離れた。
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夕方になって、縁側から庭を見ると一が柄杓を持って水を撒いていた。初日の夕方にも見た光景だった。あのときは「雑草に水やってるんか」と思ったが、今日は少し違う角度で見えた。
「律くんも撒いてみる?」
一が振り向いて言った。律がぼんやり見ていたのに気づいたらしい。
「いいの?」
「うん。はい、柄杓」
木の柄杓を受け取った。バケツの中の水は日差しで少しぬるくなっていた。一が撒いていた場所の隣に立って、同じように水を撒いた。雑草の根元に水が落ちて、じわっと土に染みていく。葉の表面に残った水滴が、夕方の光を受けて小さく光った。
「この庭、雑草だらけやんね」
「雑草って言うと、ちょっとかわいそうかな」
一はしゃがんで、足元の草を指先でそっと撫でた。
「本当はこの子たちにもちゃんと名前あるんだよ。意味なく生えてるものって、たぶんないの」
立ち上がって、柄杓でもう一杯、庭の奥のほうに水を撒いた。草たちの隙間から小さな花が一輪だけ咲いていて、水を受けて茎が揺れた。名前は知らない。でも、ある。
「一さん、いつからこれやってるん?」
「んー、いつからだろ。ここに来た日からかな。庭見たら枯れかけてる草があって、なんかほっとけなくて」
「ほっとけない、か」
「うん。私、そういうの苦手でさ。枯れそうなものをそのままにしとくの」
一は柄杓をバケツに戻して、腰に手を当てた。夕方の光が庭に長い影を落としている。一の影が雑草の上に伸びて、水を撒いた跡と重なっていた。
「(……一さん、雑草にも水やるんか。ここの住人全員に朝ごはん作るのと、たぶん同じ感覚なんやな。枯れそうなものをほっとけない。元気になるから、それでいい。理由はそれだけ)」
律は黙ってもう一杯撒いた。水が土に沈んでいく音は、思ったよりも静かだった。




