第三話① 飲み込んだ違和感の、置きどころ
第三話「理憑きたちの日常」
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三日目の朝は、肩甲骨の痛みで目が覚めた。
煎餅布団が、ついに背中だけでは飽き足らず肩にまで侵食してきたらしい。仰向けだと背骨、横向きだと肩甲骨。寝返りを打つたびにどこか一箇所が畳の硬さを主張してくる。布団というよりは敷物だった。いや、敷物でも厚みがある分まだマシかもしれない。
昨夜の決意を思い出した。今日こそ何か敷くものを買う。絶対にだ。
スマホを見ると六時四十分。前日より一時間半遅い。体が慣れてきたのか、それとも疲労が蓄積しているのか。どちらにしても、背中が痛いのは変わらなかった。
顔を洗って台所に行くと、もう全員いた。
一が流しの前に立っている。鍋を火にかけていて、味噌の香りがする。和食の朝だ。昨日のフレンチトーストからの振り幅が大きいが、一の料理はどうやら気分で決まるらしい。好はテーブルの隅でコーヒーを飲んでいて、千はその反対側の端で黙って座っている。ななせは縁側のほうに体を向けて、あぐらをかいたまま庭を見ていた。
「おはよう」
律が声をかけると、返事が四つ返ってきた。一の「おはよー」が一番大きくて、千の「……おはよう」が一番小さかった。ななせの「おはよ〜!」は振り向きもせず庭に向かって言っていた。
返事をしたあとも、ななせは庭を見ていた。何かが起きているわけではない。雑草が揺れて、軒先に朝の光が引っかかっているだけの庭だ。それをななせは、あぐらのまま、微動だにせず見ていた。
「(……よう飽きんな)」
律なら三分で飽きる。でもななせの座り方は——そうやって座って過ごすことに慣れた人の背中に、一瞬だけ見えた。
律がテーブルに座ろうとした、そのときだった。
縁側の外——庭に面した軒先のあたりに、スズメが一羽飛んできた。手すりにとまった。小さな頭を二度ほど傾けて、ぱっと飛び立った。
一瞬の間。
また同じスズメが——同じ角度から飛んできて、同じ手すりにとまった。同じように頭を傾けて、ぱっと飛び立った。
「(……今の、二回来たよな?)」
律がまばたきする間もなく、ななせがあくびをしながら言った。
「あー、デジャヴ見えた〜」
直後だった。
台所でガシャン、と金属がぶつかる音がした。一が鍋のふたを落としたのだ。ふたが流しの中で回転して、甲高い音を立てながら止まった。味噌汁の湯気が天井に立ち上っている。
ななせが振り向いて、にっと笑った。
「ほら、なんか起きた!」
「ごめんね〜、手が滑った」
一はまったく動じていなかった。落ちたふたを拾い上げて、さっと流水で洗い、鍋に戻した。慣れた動きだった。慣れすぎていた。この現象が日常的に起きていることが、その一連の所作だけでわかった。
「(デジャヴの直後に何かが起きる——か。昨日も猫が二回通った後にななせが話しかけてきたし。偶然かもしれんけど、二日続くとちょっと気になるな)」
律が椅子を引いて座ると、好がマグカップを両手で包んだまま、小さな声で言った。
「この家、だいたいこんな感じ」
律は好のほうを見た。
「(……親切やな、この人)」
一が味噌汁を配り始めた。白い湯気が五つの椀からゆらゆら立ち上がる。焼き鮭と、たくあんと、ごはん。旅館かと思うような朝食だった。
「一さんって毎朝こんなにちゃんと作るん?」
「んー、気分かな。今日は和食な気分だったから」
「昨日のフレンチトーストと全然ちゃうやん。振れ幅すごいな」
一がふわっと笑った。
「律くんが来てからごはん作るのが楽しくて。人数増えると献立変えたくなるんだよね」
その「楽しくて」がやけにしっくり来た。一の言葉にはいちいち角がなくて、聞いているだけでこちらの肩の力が抜ける。二日目に「弟みたい」と言われたときの、あのしっくりくる感覚と同じだった。
「(……また来た、このしっくりくる感じ。一さんの人柄なのか、ことわりつきなのか、まだわからんけど)」
千がいつの間にか律の隣に移動していた。
気づいたのは、千の箸が動き始めてからだった。最初は好の隣にいたはずなのに、律がぼんやりしている間に席を変えていたらしい。移動した気配がまるでなかった。猫でももう少し音を立てる。
ななせが鮭をほぐしながら、律のほうを見て言った。
「千ちゃんってさ、もともと兄弟いないんだよね。だから律くんが珍しいんじゃないかな」
律は千を見た。千は黙って味噌汁を飲んでいた。否定しなかった。
「(なるほど。それで「お兄ちゃんみたい」か)」
昨夜の廊下でのことを思い出した。唐突に「お兄ちゃんみたい」と言って去っていった千。あのとき感じた不思議さの正体が、ようやく腑に落ちた。兄弟がいない子が、初めて「お兄ちゃん」と呼べる相手を見つけた——そういうことだったのだ。
千は律の隣で、黙々とたくあんをかじっている。とくに甘えてくるわけでも、話しかけてくるわけでもない。ただ隣にいる。それだけだった。
「(……まあ、それでええか)」
ななせが思い出したように言った。
「そういえば千ちゃんのことわりつきって——」
言いかけて、ななせは自分で止まった。
「……あ、だめだ。私から言うのは違うんだった」
二日目の朝に聞いた台詞だった。それは本人に聞いてあげて。他人のことわりつきを勝手に喋らない——距離ゼロのくせに、そこだけ律儀に一線を引く。ななせの礼儀は今日も生きているらしい。
微妙な間が空いた。聞いていいのか、やめておくべきなのか。律が迷っている、その半端な沈黙に——
「ゲシュタルト崩壊」
千が言った。たくあんを飲み込んで、律のほうは見ずに、味噌汁の椀に視線を落としたまま。
「同じ字をじっと見てると、字に見えなくなるやつ。あれが、ことわりつきになってる。……それだけ」
「それだけ」の言い方が、妙に念を押すようだった。それ以上は聞くな、という札を立てるような言い方。ななせが何か言いかけて、やめた。鮭に戻った。
「(自分で言うんか。好さんは一晩かけて、迷いながら教えてくれた。千ちゃんは三秒で言い切った。……いや、逆かもしれん。三秒で言い切れる形に、あらかじめ削ってあるんや。それ以上踏み込まれへんように)」
律は千の横顔を見た。銀色の前髪。箸は止まっていない。
「(ゲシュタルト崩壊——さっき、気配もなく隣に来てたのと関係あるんかな。いや、あれはたぶん能力の話やなくて。存在の輪郭を消すのが上手いんや、この子は)」
律はごはんを頬張りながら、ふと思い出したことをななせに聞いた。
「なあ、ななせ。デジャヴってどれくらいの頻度で出るん?」
ななせは鮭の骨を器用に避けながら首を傾げた。
「んー? どれくらいって言われても。日による、かな。多い日もあるし、ない日もあるし」
「昨日も出てたやろ。猫のとき」
「あー、そうだっけ? 私はあんまり気にしてないんだよね、いちいち」
ケロッとしていた。毎回きちんと「デジャヴ見えた」と口に出すくせに、本人は頻度を数えていないらしい。
「(初日も猫が二回通ったし、三日間で少なくとも三回か。……多いのかどうかもわからんけど、なんか引っかかるな)」
律だけが、その引っかかりを飲み込んだ。




