第二話③ 少しずつ、家の輪郭がわかってくる
午後は何もなかった。
律は居間のテーブルで参考書を広げていた。数学Ⅱの微分。再来年の受験に向けて基礎を固めないといけない。予備校の夏期講習は来週からだが、それまでに苦手なところを潰しておきたかった。
ななせが隣に座って、「なにこれ〜」と言って律の参考書を覗き込んでは飽きて離れ、しばらくするとまた戻ってくる、ということを三回くらい繰り返した。四回目はなかった。扇風機の前で昼寝を始めたからだ。
「(……なんやねんこの生き物)」
好は自室にいるらしかった。朝食の後、一瞬だけ居間に顔を出して律の参考書をちらっと見たが、何も言わずに出ていった。
一は台所で何か作っていた。夕飯の仕込みかもしれない。ときどき包丁の音がして、ときどき水の音がする。昨日もそうだった。この家の台所の音は、一のリズムで動いている。
千の姿は見なかった。自室にいるのだろう。朝食のとき一瞬だけ律を見たあの視線が、まだ少し気になっていた。
---
夕方になった。
居間に入る光が橙色に変わって、畳の上に長い影ができている。ななせはまだ昼寝していて、扇風機の風を受けてアホ毛だけが微妙に揺れていた。律は参考書を閉じて、伸びをした。
縁側に出た。庭が目の前にある。夕方の光の中で見る雑草は、昼間よりも少しだけ柔らかく見えた。昨日もここに座って、一の水撒きを眺めていた。同じ場所に座ると、一日しか経っていないのに、もう少し前からここにいたような気がした。
ぼんやりしていると、廊下のほうで板が軋む音がした。誰かが歩いている。一ではない。一の足音はもう少し軽い。好でもない。好はスリッパを履いている音がする。
振り返ると——千がいた。
居間と縁側の境目あたりに立っていた。カーディガンの裾を片手で握っている。こちらを見ている。朝食のときと同じ、何かを測るような目。
「……どうしたん?」
律が声をかけると、千は少しだけ首を傾げた。
「……お兄ちゃん、みたい」
律は一瞬固まった。
「え?」
千はそれだけ言って、くるりと背を向けた。パジャマの上のカーディガンの裾がふわりと揺れて、廊下のほうに歩いていく。足音がだんだん小さくなって、どこかの引き戸が閉まる音がした。
律は縁側に座ったまま、千が消えた方向を見ていた。
「(……なんやねん、今の)」
お兄ちゃんみたい。唐突だった。脈絡がなかった。でも——
「(嫌な感じはしなかった。なんか、あの子の「お兄ちゃんみたい」は、言ってみたかったから言った、っていう感じの声やった。計算じゃなくて、思ったことがそのまま口から出てきた、みたいな)」
一に「弟みたい」と言われ、千に「お兄ちゃんみたい」と言われた。一日のうちに「弟」と「お兄ちゃん」を一つずつもらった計算になる。律は一人っ子だったから、その手の感覚はよくわからない。
でも、悪い気はしなかった。
「(千ちゃん、朝は俺のこと見てただけやったのに、今はちゃんと話しかけてきた。あの子なりに距離を測ってたんかな。測って、これだけ近づけるって判断した。その距離が「お兄ちゃん」やった——)」
それ以上は考えなかった。千のことは、千のペースで知っていけばいい。急いでも仕方がない。
---
夜。
律は自室で布団に横になっていた。煎餅布団は相変わらず煎餅布団で、背骨がじわじわと主張してくる。明日あたり、何か敷くものを買いに行こうかと思った。
窓の外は昨夜と同じ虫の声。庭の向こうのブロック塀がぼんやり見える。二日目の夜はもう、この景色に少しだけ慣れていた。
「(……でも、まあ)」
「(悪くないな、ここ)」
答えの出ない問いばかりが増えていく家。でも不思議と、居心地は悪くなかった。




