第二話② その言葉が、なぜか俺にしっくりくる
朝食はフレンチトーストだった。
一が昨夜のうちに仕込んでいたらしい。卵液に一晩浸けた食パンを弱火で焼くと、甘い香りが台所に広がって、居間まで届いた。律の分も作ってあった。昨日来たばかりの律の分まで。
「(……一さん、昨日の夜のうちに俺の分まで仕込んでくれてたんか。こんなに甘えてしまっていいんやろか)」
居間のテーブルに皿が並ぶ。一が台所と居間を何度か行き来して、フレンチトーストと小さく切った果物、それに紅茶を運んでいく。ななせはもう席についていた。律がフォークを手に取ろうとしたとき、廊下のほうから足音がした。
好だった。
さっき台所を出ていったときと同じパーカー姿で、マグカップを片手に居間の入口に立っていた。席に着くかどうか一瞬だけ迷ったように見えたが、一が「好ちゃん、こっちに置いとくね」と端のほうに皿を置いたのを見て、黙ってそこに座った。
律は少し驚いた。昨日の夕飯は自室で食べていたはずだ。
「(……でも、来てくれたんや。さっきの話の後やからかな。それとも一さんの朝ごはんが食べたかっただけかな。……まあ、どっちでもいいか)」
四人で食べ始めた。ななせが二切れ目に手を伸ばしたとき、居間の引き戸がゆっくりと開いた。
銀色の髪だった。
肩にかからないくらいの長さで、朝の光を反射してくすんだ白に近く見える。パジャマの上にカーディガンを羽織っていて、裾が手の甲まで被さっている。整った顔立ちに見えるが、まだ半分寝ているような目をしていた。十三歳だとは聞いていたが、背が小さいぶんもっと幼く見えた。
「(——この子が、千ちゃんか)」
昨日の夕飯に来なかった子。ななせが名前だけ口にしていた住人。一が部屋に皿を運んでいた子。
千は何も言わずに席についた。律やななせのほうは見なかった。見ていないというよりは、視界に入れていないという感じだった。一の近くの席——好とは反対側の端——に、するっと座った。
一はすでに動いていた。千が来てから皿を用意したのではない。台所から居間に運ばれたとき、端のほうにもう一枚、小さめの皿が置いてあった。フレンチトーストが一切れだけ載っている。焼き色がほかの皿より少しだけ薄い。
「(……先に用意してあったんか。千ちゃんが来るの、わかってたみたいに)」
一が千のほうを見た。笑顔でもなく、心配顔でもない。ただ確認している、そういう目だった。
「千ちゃん、粉砂糖いる?」
「……いらない」
「はちみつは?」
千は一秒だけ黙った。
「……ちょっとだけ」
一がはちみつの瓶を傾けて、千の皿に垂らした。細い糸みたいな量。たぶん千が望んだ「ちょっとだけ」と、ぴったり同じだったのだろう。千は何も言わずにそれを受け取って、小さく切って口に運んだ。
律はフレンチトーストを味わいながら、そのやりとりを見ていた。
「(……あの二人、ほとんど喋ってないのに、通じてる。一さんは千ちゃんの好みを知ってて、千ちゃんは一さんにだけ短い言葉で答える。すごいな、あの距離感)」
好はマグカップを両手で包んだまま、テーブルの端から全体を眺めていた。律と目が合いそうになって、今度は律が先にそらした。好の唇が、かすかに動いた。何か言いかけたのか、それとも笑いかけたのか——わからなかった。
ななせが三切れ目のフレンチトーストに手を伸ばしながら言った。
「ねー律くん、一さんのフレンチトースト、おいしくない? 卵液に一晩浸けるのがコツなんだって」
「うん、美味しい。甘すぎへんし、ちょうどいい」
「でしょー。私これ毎回おかわりするんだよね」
一が台所から紅茶のポットを持ってきながら、ふんわり笑った。
「ななせちゃんはいつも三枚食べるから、多めに仕込んでるの」
「バレてたー」
千はフレンチトーストを半分食べたところで、静かに手を止めた。残した。一はそれを見たが、何も言わなかった。「もっと食べなよ」とも「残していいよ」とも言わず、千が立ち上がるのを見送っただけだった。
千は立ち上がりながら、一瞬だけ律のほうを見た。
目が合った。
銀色の前髪の奥から、こちらを観察するような視線。表情は動かなかった。何かを測っているような、でもまだ結論を出していないような——そういう目だった。一秒もなかった。千はすぐに視線を外して、居間を出ていった。
「(……なんやろ、今の。千ちゃん、俺のこと見てたな。でもなんで見てたんかは、わからん)」
一が千の残したフレンチトーストに黙ってラップをかけた。好の分にも同じようにしていたのを、昨日の夕飯で見た。
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朝食の片付けは、律と一でやった。
律が洗って一が拭く。自然にそうなった。一がスポンジと洗剤の場所を教えてくれて、律が袖をまくって蛇口をひねった。
「律くん、洗い物慣れてるね」
「大阪でもやってたんで。母親が仕事遅いときは」
「えらいなぁ」
一の「えらいなぁ」は、見下すような響きではなかった。ただ素直に感心している、そういう声だった。律は少し面映ゆくなって、皿をすすぐ手を速めた。
「一さんって、ここ長いんやったっけ」
「もう二年くらいかな。好ちゃんが一年半くらいで、ななせちゃんが一年くらい。千ちゃんは半年くらいだと思う」
一はタオルで皿を拭きながら、ふんわり笑った。
「みんな来た時期はばらばらなんだけど、気づいたらこうなってた。不思議だよね」
律はその言葉をぼんやりと受け止めていた。
「律くん」
「うん」
「何か困ったことがあったら、いつでも言ってね。私、ここ長いから」
その声には、昨日の夕方に庭で水を撒いていたときと同じ柔らかさがあった。社交辞令ではない。「本気で言っている」という芯が、声の奥に一本通っている。
「ありがとう。なんかあったら頼るわ、一さん」
「うん」
一は最後の皿をタオルで拭きながら、少し首を傾げた。
「……なんか、弟みたいな感じがして」
ふわっと笑った。あの笑顔だ。昨日の夕方、庭に水を撒いているときに見たのと同じ。特別に親しげなわけでもよそよそしいわけでもない、ただ自然にそこにある笑顔。
「弟って——確かに、一さんより年下やけど、年下は全員弟ってことなんかな」
「あはは、そうかも。でも律くんは特に、なんかそういう感じがする」
律は皿を洗い終えて、蛇口を閉めた。手を拭きながら、一が棚に皿を並べていくのを見ていた。
「(弟、か。……まあ、悪くはないか)」
不思議だった。初対面に近い人に「弟みたい」と言われて、普通ならもう少し引っかかるものだろう。年上の女の人に弟認定されて喜ぶ十六歳はあまりいない。でも一が言うと、反発が起きない。しっくりくる。
——しっくりくる。
「(一さんのことば、全部しっくりくるな。「困ったことがあったら言ってね」も、「弟みたい」も、俺に向けて言ってくれてるように聞こえる。でも——ほんまに俺だけに向けてるんかな)」
昨日の夕方、一がごはんを作ってくれたとき。「一人ぶん増えるくらい全然平気だよ」と言っていた。千の分をラップして部屋に運んでいた。好の分も自然に取り分けていた。全員に、同じ温度で、同じ丁寧さで。
「(——それが、一さんのことわりつきなんかな)」
律はそこで考えるのをやめた。ななせが「本人に聞いてあげて」と言っていたのを思い出したからだ。推測で決めつけるのは違う。
「ありがとう、一さん。じゃあ弟として、これからもちょいちょい洗い物やるわ」
「ふふ、頼もしい」
一は台所の電気を消して、居間のほうに歩いていった。
律は台所に残った。窓から庭が見える。昨日一が水を撒いた場所だけ、草の色がほんの少し違って見えた。
「(弟、か。……まあ、悪くはない。悪くはないけど——)」
あの「しっくりくる」感覚が、法則なのか人柄なのか。今はまだ、わからなかった。




