第二話① なんで俺だけ、平気なんやろ
第二話「気がして、だけど」
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目が覚めたのは、背中の痛みだった。
煎餅布団が、律の体重をまったく受け止めていなかった。畳の目が背骨の一つ一つに主張していて、横を向いても仰向けになっても逃げ場がない。
スマホを見ると五時十四分。すでに太陽が昇っていて、眩しい朝日の光と夏らしい青空が広がっている。
二度寝する気にはならなかった。背中が痛いのもあるし、知らない場所の二日目の朝というのは、妙に意識が冴える。体は疲れているのに頭だけが起きている、そういう感じだった。
律は布団を畳んで、顔を洗いに行った。洗面所は台所の手前にあった。蛇口をひねると水が冷たくて、顔にかけた瞬間に肩が縮まった。タオルで顔を拭きながら廊下に出ると、台所のほうからかすかな音がした。
コーヒーの香りだった。
台所に入ると、好が一人でいた。
テーブルの端に座っていて、片手にマグカップ、もう片方の手でスマホを操作している。昨日と同じ黒髪が背中にまっすぐ落ちていた。薄手のパーカーにスウェットのパンツという、寝起きそのままの格好だった。朝の五時台にコーヒーを飲んでいるということは、早起きなのか、あるいは昨夜から起きているのか。
律が入ってきたことに気づいて、好の指がスマホの上で止まった。
目が合った——一瞬だけ。そしてまた、昨日と同じように視線がそれた。今度は律の肩ではなく、テーブルの角を見ている。
「(……また目ぇそらした)」
「おはようございます」
律が声をかけると、好は小さくうなずいた。
「……おはよう」
昨日の「よろしく」と同じ声量だった。聞こえないほど小さくはないが、会話を広げる気はないという距離感がある。
律は蛇口で水を汲んだ。コップに水を入れて、好と反対側の端に立って飲んだ。台所の窓から庭が見える。雑草が朝露で少し光っていた。
沈黙。
冷蔵庫のモーターが低く唸っている音だけが、かえって静けさを際立たせている。
このまま黙って自室に戻るのが正解な気がした。好は明らかに一人でいたい雰囲気だし、律と目を合わせたくないのも昨日から一貫している。
でも——律は戻らなかった。
理由は、水がまだコップに半分残っていたからだ。それだけの話だった。
「……律くん」
好のほうから声がかかった。
律は少し驚いて振り向いた。好はスマホを伏せてテーブルの上に置いていた。マグカップを両手で包んでいる。まだ律のほうを見ていないが、さっきまでとは空気が違った。何かを言おうとしている。
「吊り橋効果って、知ってる?」
律はコップを持ったまま、一拍考えた。
「ああ、心臓がどきどきする状況で、そのどきどきを恋愛感情と勘違いしてしまう、みたいなやつですよね」
「そう。それ」
好はマグカップを一口傾けた。コーヒーの湯気が細く立ち上る。
「私のことわりつきが、それ」
律は黙った。
昨日ななせから聞いた言葉が頭に浮かんだ。ことわりつき。心の法則が人に宿った状態。ななせの場合はデジャヴ。好の場合は——吊り橋効果。
「……それで、目ぇそらすんですか」
言ってから、もう少し言い方があった、と思った。でも好は特に怒った様子もなかった。むしろ、律がそこに気づいていたことを確認したような顔をした。
「……そう。近くにいる人に対して、どきどきが勝手に起きる。近くにいる人にもどきどきが伝染する。新しい人は特に」
好はマグカップの縁を指で撫でた。
「だから、自分の気持ちが——本物かどうか、よくわからない。近くにいる人が私に向ける気持ちも——」
静かな声だった。感情がこもっていないわけではない。むしろ逆で、こもりすぎないように抑えている、そういう声だった。
「……それ、辛いな」
律が言うと、好は少しだけ口角を上げた。笑顔とは言えなかった。かといって自嘲でもない。なんと呼べばいいのかわからない表情だった。
「慣れたよ」
好はそう言って、スマホを手に取った。裏返しにしていた画面を起こして、指で何かを打ち込んでいる。速い。親指だけで打っているが迷いがない。
律は何も言わずに水を飲んだ。好がスマホで何をしているかは見ようとしなかった。覗き込むのは失礼だと思ったからだ。
でも、見えてしまった。
好がスマホを傾けた角度と、律が立っている位置がちょうど噛み合ってしまったのだ。メモアプリが開いている。白い背景に黒い文字。
「今日のどきどき:律くんと話した(早朝、台所)」
律は視線を庭に戻した。
「(……記録してるんや。『今日のどきどき』って——日記みたいなもんなんかな)」
好はスマホを伏せて、また律のほうを——正確には律の肩のあたりを見た。
「記録しとくと、後で見返せるから。本物かどうか、わかる気がして」
一拍置いて、付け足した。
「気がして、だけど」
律はコップを流しに置いた。
「(……好さんは、ずっとこれをやってるんか。誰かに会うたびにどきどきして、でもそのどきどきが法則のせいなのか自分の気持ちなのかわからなくて、だからメモに記録して。答えが出るかもわからんのに、ずっと記録し続けてる)」
「(それは——しんどいっていうか、なんか、律儀やな)」
好がマグカップに残ったコーヒーを飲み干した。立ち上がって流しに来る。律の隣に立ったとき、目が合いそうになって——今度は律のほうが目をそらした。好の視界に入らないように、窓のほうを見た。
好の手が止まった。
「……今、そらした?」
「いや、なんか——こっちが見たら、好さんしんどいんちゃうかなと思って」
沈黙が二秒。好がマグカップを洗いながら、小さく息を吐いた。
「……そういうこと、あんまり言われたことない」
「そうなんですか」
「普通は『気にしなくていいよ』って言う。そういうことじゃないのに」
律は何も返せなかった。「気にしなくていいよ」と言いかけた自分がいたことを、律自身が一番わかっていたからだ。
好はマグカップを水切りに置いて、台所を出ていった。出ていくときに一瞬だけ、本当に一瞬だけ律のほうを見た。目が合った。今度はそらさなかった。
そのまま背中が廊下に消えていく。
律は台所に一人残された。
「(なんで俺だけ、平気なんやろ)」
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七時を過ぎると、家が動き始めた。
最初に現れたのはななせだった。居間の引き戸をがらっと開けて、目をこすりながら入ってきた。アホ毛が昨日以上に跳ねている。寝癖というより、もともとそういう構造の髪なのかもしれない。
「おはよー……」
「おはよう」
律は居間のテーブルの前に座って参考書を開いていた。自室の煎餅布団の上で勉強する気にはならなかったし、居間の畳は朝の光で暖かくて居心地が良かった。
ななせが台所に消えて、しばらくしてマグカップを持って戻ってきた。中身は牛乳だった。冷蔵庫から出してそのまま注いだだけらしい。
「律くん、もう好さんに会った?」
「うん、さっき台所で」
「あ、よかった。好さん、律儀だからなぁ。新しい人が来たら早めに説明しとくタイプなんだよね」
「……吊り橋効果のこと、教えてもらった」
「あ、もう言ったんだ。好さんらしい。誤解されたくないんだと思う」
律はうなずいた。好の性格を考えれば、確かにそうだろう。自分の行動の理由を説明しないまま放置するのは、好には耐えられないことなのかもしれない。
「この家の人って、みんなことわりつきなんかな」
「うん。律くん以外はね」
ななせはケロッと答えた。
「一さんも、千ちゃんも。みんな何かしら宿ってるよ」
「何が宿ってるかは——」
「それは本人に聞いてあげて。私から言うのは、ちょっと違う気がするから」
ななせは笑いながらそう言ったが、その一言だけ、妙にちゃんとしていた。普段の距離ゼロの感じとは違って、一線を引いている。他人のことわりつきを勝手に喋らない、というのは、ななせなりの礼儀らしかった。
「(……四人のことわりつき、か。ななせはデジャヴ、好さんは吊り橋効果。一さんと千ちゃんが何なのかは、まだわからん)」
台所のほうから、とんとんとん、と包丁がまな板を叩く音が聞こえてきた。果物でも切っているのだろう。昨日の夕飯のときにも聞いた、あの一定のリズム。
「あ、一さん起きたんだ。朝ごはん作ってくれるよ、きっと」
ななせが嬉しそうに立ち上がった。




