第一話③ 畳が硬い、はじめての夜
夕方になった。
日が傾いて、居間に入る光が橙色に変わっている。ななせは自室に引っ込んでいて、好の姿も見えない。律は何をするでもなく、縁側に腰を下ろしていた。
庭が目の前にある。雑草だらけだが、夕方の光の中で見ると、昼間よりも少しだけ穏やかに見えた。何かの虫が草の間を飛んでいる。ブロック塀の上に蔦が這っていて、その先は隣家の瓦屋根だ。
背後で足音がした。居間のほうからだ。
振り返ると、女の人が立っていた。ふんわりしたナチュラルウェーブの髪。Tシャツの上にエプロンをつけていて、片手に古い柄杓を持っている。二十歳くらいに見える。
「あ、新しい子だ」
やわらかい声だった。特別に親しげなわけでも、よそよそしいわけでもない。ただ自然に笑っていて、律はその自然さに少し面食らった。初対面の人間にこの距離感を出せるのは、なかなかない。ななせとは種類が違う。ななせは距離をゼロにしてくるが、この人は距離を保ったまま温度だけを届けてくる。
「ようこそ。皆同一です。いっちゃんって呼んでもいいよ」
「風間律です。今日からお世話になります」
「律くんかぁ。よろしくね」
一はそう言いながら、律の横を通って縁側から庭に出た。サンダルをつっかけて、庭の水道へ。バケツから柄杓に水を汲んで、雑草の茂みのほうに撒き始めた。
律はその背中を見ていた。
「……何してるん?」
「水撒き。毎日やってるの。なんとなく」
一は振り返らずに答えた。二杯目の水を汲んで、今度は低木のほうに撒いた。慣れた手つきだった。雑草の隙間を狙って、丁寧に、ゆっくりと。
「植物って水あげないとだめでしょ。雑草でも」
「……雑草にも水やるんや」
「だって生えてるし」
一はそう言って、ふわっと笑った。
三杯目。四杯目。柄杓の水が庭に落ちるたびに、乾いた土が少しだけ色を変える。夕方の光の中で、水が染みていく地面は妙に綺麗だった。
律は縁側に座ったまま、その光景を眺めていた。
「(……不思議な人やな。雑草に水やってるんか。生えてるから、って)」
一の動きには迷いがなかった。自分のやっていることに疑問を持っていない人の動き方だった。毎日やっている、と言った。なんとなく、と言った。雑草に水をやることに特別な理由を持っていない——でもやめない。
一が水撒きを終えて、柄杓を水道のそばに立てかけた。サンダルを脱いで縁側に戻ってくる。
「律くん、ごはん何時ごろがいい? 今日は私が作るから」
「え、いいんですか? 俺、自分でなんか買ってこようかと思ってたけど」
「大丈夫大丈夫。一人ぶん増えるくらい全然平気だよ。ここにいる子たちのぶんはいつも作ってるし」
一はエプロンで手を拭きながら、居間のほうに歩いていった。振り返って、
「七時くらいにできると思うから、居間にいてね」
律は「ありがとう」と返した。一は小さく手を振って、台所のほうに消えていった。
「(……なんか、雰囲気あるな、あの人)」
庭に目を戻した。一が水を撒いた場所だけ、土の色が少しだけ濃い。もう夕暮れだ。雑草の先端が風に揺れていて、ブロック塀に影が伸びている。
律はしばらくそこに座っていた。理由は特になかった。
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初日の夜。
律は自室の布団に横になっていた。煎餅布団越しに畳の硬さが背中に当たる。窓は少しだけ開けていて、庭のほうから虫の声が聞こえてくる。国立の夜は静かだった。箕面の夜も静かだったが、種類が違う。あっちは山が近いから、木々のざわめきが遠くに聞こえた。ここは住宅地の静けさだ。人がいるのに音を出していない、という種類の静けさ。
一が作ってくれた夕飯は肉じゃがだった。じゃがいもが崩れかけぎりぎりに仕上がっていて、汁が染みていた。家庭の味、という言葉がぴったりだった。美味しかったと言ったら一はふわっと笑って、「よかった、量がわからなかったから多めに作っちゃった」と言った。
夕飯の場にいたのは律とななせと一の三人だった。好は自室で食べるらしい。もう一人の住人——ななせが「千ちゃん」と呼んでいた子——も、今日は部屋にいたらしく、一が後から部屋に皿を運んでいた。
まだ会えていない住人がいる。明日になれば顔を合わせられるだろう。
眠りに落ちる直前、最後に浮かんだのは、廊下の窓の外を二回横切った黒猫のことだった。
あの猫は——なんだったんだろう。
答えのないまま、律の最初の夜が終わった。




