↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/42

第一話② 廊下で会った人が、目をそらす

 荷物を部屋に運ぶことにした。ななせが「手伝うよ!」と言ったが、キャリーケース一つとリュック一つしかないので断った。


 一階の廊下を奥に進む。部屋は引き戸で、取っ手の横に小さな表札を差し込む枠がついていたが、何も入っていない。隣の部屋の枠には手書きの紙が差してあった。「ななせのへや」と丸い字で書いてある。横にスマイルマークが添えてあった。


 部屋に入ると八畳の和室だった。押入れが一間、窓が一つ。窓の外はさっきの庭で、雑草の向こうに隣家のブロック塀が見えた。畳は新しくはないが、い草の香りがかすかに残っていた。


 キャリーケースを開けて中身を出す。衣類、参考書、充電器、最低限の日用品。立川のドンキで買った歯ブラシとシャンプーと、安売りになっていたバスタオル二枚。引っ越しというには少なすぎる荷物だったが、律にはこれで十分だった。


 押入れから布団を出して敷いてみる。煎餅布団だった。厚さが三センチくらいしかない。畳の硬さが背中に届く。まあいい。寝られればいい。


 参考書を窓際に積み上げたところで廊下に出た。台所を確認しておきたかった。


 居間を通り過ぎると古い台所があった。ガスコンロが二口、年季の入った食器棚、冷蔵庫は二台。一台は普通のサイズで、もう一台は小型だった。流しは広いが、蛇口の形が昭和だ。お湯と水が別のハンドルになっている。


 流しの前に立ったとき、背後でななせの声がした。


 「律くん、台所わかった?」


 振り返ると、廊下からひょこっと顔を出している。


 「うん、わかった。冷蔵庫二台あるけど、どっちが共用なん?」


 「右が共用で、左が好(このみ)さん専用ね。好さんの研究用の何かが入ってるらしいんだけど、見たことない」


 「好さん?」


 「橋渡好(はしわたりこのみ)さん。大学院生。ここで一番年上かな。すっごいクールな人だよ。でも怖くはないよ。たぶん」


 「たぶん」が気になったが、律は笑って流した。


 台所を出て廊下に戻ったとき、ななせが急に立ち止まった。


 律もつられて止まる。


 廊下の窓は庭に面していた。ガラス越しに雑草の茂みと、その向こうの木の枝が見える。午後の光が差し込んで、廊下の板の上に木漏れ日が落ちていた。


 その庭先を、黒い猫が横切った。


 痩せた猫だった。首輪はないが耳の先がカットされている。地域猫だ。しなやかな動きで雑草の間を抜けて、ブロック塀の方向に消えていく。


 一瞬の間。


 同じ猫が——同じ方向に、同じ速さで、もう一度横切った。


 律は目をこすった。今のは何だ。同じ黒猫が同じ動きを二回した。見間違いかと思ったが、確かに見た。二回通った。同じ猫が。


 「あ、またデジャヴ見えた」


 ななせが、なんでもないことのように言った。


 直後、庭先でぱきっと乾いた音がした。猫が通った草むらのあたりで、枯れた枝が折れたらしかった。


 律はななせのほうを見た。特に驚いた様子はない。ただ確認しただけ、という顔だった。


 「……今、猫、二回通らんかった?」


 「そう。私のことわりつきがデジャヴで」


 「ことわりつき……?」


 聞き返した。初めて聞く言葉だった。


 ななせは窓枠にもたれかかって、律のほうを向いた。


 「理憑き(ことわりつき)。心の法則みたいなのが、人に宿った状態のこと」


 言い方が妙に落ち着いていた。さっきまでの距離ゼロのテンションとは違う。説明し慣れている、というよりは、自分にとって当たり前のことを当たり前に話している、そういう感じだった。


 「私の場合はデジャヴ——『これ前にも経験した』って感じるやつ。何かが起きる前に見えるんだよね、私のは」


 律は黙って聞いていた。理解が追いついていないが、ななせの話し方があまりにも普通なので、否定するタイミングを逃した。


 「……それ、何かが起きるってわかるってこと?」


 「うーん、なにかが起きるとはわかる。なにが起きるかはわからない」


 ななせはそう言って、ケロッと笑った。


 一拍だけ間があった。


 「ちょっと、めんどくさいけどね」


 その一言だけ、声のトーンが少しだけ低かった。低い、というよりは、笑顔の厚みが一枚薄くなったような——そういう変化だった。律がもう少し鈍い人間だったら気づかなかったかもしれない。


 でも気づいた。


 律は何も言わなかった。ここで「大丈夫?」と聞くのは違う気がした。ななせ自身がケロッとしているのだから、こちらが深刻な顔をするのはお門違いだ。たぶんそうだ。


 でも頭の隅に残った。


 ——ケロッとしてるけど、それ、しんどくないんかな。


 ななせは一秒後にはいつもの調子に戻っていた。


 「あ、そうだ律くん! ほかの住人にも挨拶しといたほうがいいよ。好さん、たぶん自分の部屋にいるから」


 「好さんか。クールな人って言ってたっけ」


 「そう! でもね、慣れたら全然話してくれるから。最初だけちょっとドキッとするかも」


 「あと、一(いつ)さんと千(せん)ちゃん……えーっと、皆同一(かいどういつ)さんと十十木千(とときせん)ちゃんも。夕飯のときには会えるんじゃないかな」


 ななせはそう言いながら、もう居間のほうに歩き出していた。律は一瞬だけ窓の外を見た。庭に猫の姿はなかった。雑草が風に揺れているだけだった。


 二回通った黒猫のことが、まだ頭から離れなかった。


---


 廊下を歩いていると、女の人とすれ違った。


 律より背が高い。黒髪がまっすぐに腰のあたりまで伸びていて、前髪の下から切れ長の目がこちらを見た——一瞬だけ。目が合ったと思った次の瞬間には、もう視線がそれていた。


 律は足を止めた。


 「あ、こんにちは。今日から入る風間です」


 相手も足を止めた。でもこちらを見ない。視線が律の肩のあたり——顔ではなく、その少し横——に固定されている。


 「……橋渡好(はしわたりこのみ)です。よろしく」


 ぼそっと言って、そのまま廊下の奥のほうに歩いていった。背中が角を曲がって見えなくなる。怒っているわけではなさそうだったが、歓迎されている感じもしなかった。


 律は廊下に一人残された。


 「(……なんやったんやろ、今の)」


 考えてもわからなかった。初対面で目を合わせない人はいる。人見知りなのかもしれない。でもさっきの一瞬、最初に目が合ったときの反応は、人見知りとは少し違う気がした。見えたのに、慌てて逸らした。そういう動き方だった。


 まあ、初日だ。そのうちわかるだろう。


 台所に行くと、好がコーヒーを淹れていた。さっき廊下で別れたばかりだが、先に来ていたらしい。マグカップを片手に、もう片方の手でスマホを操作している。律が入ってきたことに気づいて——また視線が微妙にそれた。


 「……あ、すみません。水もらっていいですかね」


 「……どうぞ」


 好はマグカップを持ったまま、律の横を通り過ぎて台所を出ていった。すれ違いざまに、コーヒーの香りがした。ちゃんとしたコーヒーだ。インスタントではない。


 律は水道の蛇口をひねりながら、好が出ていったほうを見た。


 「(……なんやろ、あの人。目が合うたびにそらすの、なんか理由あるんかな)」


 考えてもわからなかった。でも、嫌われているわけではない気がした。嫌いなら、わざわざ「どうぞ」と言わないだろう。声に敵意はなかった。むしろ少しだけ躊躇っているような、そういうトーンだった。


 「(まあ、ええか。そのうちわかるやろ)」


 律はコップに水を入れて飲んだ。水道水は冷たくて、箕面よりもカルキの香りが少ない気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。