第一話② 廊下で会った人が、目をそらす
荷物を部屋に運ぶことにした。ななせが「手伝うよ!」と言ったが、キャリーケース一つとリュック一つしかないので断った。
一階の廊下を奥に進む。部屋は引き戸で、取っ手の横に小さな表札を差し込む枠がついていたが、何も入っていない。隣の部屋の枠には手書きの紙が差してあった。「ななせのへや」と丸い字で書いてある。横にスマイルマークが添えてあった。
部屋に入ると八畳の和室だった。押入れが一間、窓が一つ。窓の外はさっきの庭で、雑草の向こうに隣家のブロック塀が見えた。畳は新しくはないが、い草の香りがかすかに残っていた。
キャリーケースを開けて中身を出す。衣類、参考書、充電器、最低限の日用品。立川のドンキで買った歯ブラシとシャンプーと、安売りになっていたバスタオル二枚。引っ越しというには少なすぎる荷物だったが、律にはこれで十分だった。
押入れから布団を出して敷いてみる。煎餅布団だった。厚さが三センチくらいしかない。畳の硬さが背中に届く。まあいい。寝られればいい。
参考書を窓際に積み上げたところで廊下に出た。台所を確認しておきたかった。
居間を通り過ぎると古い台所があった。ガスコンロが二口、年季の入った食器棚、冷蔵庫は二台。一台は普通のサイズで、もう一台は小型だった。流しは広いが、蛇口の形が昭和だ。お湯と水が別のハンドルになっている。
流しの前に立ったとき、背後でななせの声がした。
「律くん、台所わかった?」
振り返ると、廊下からひょこっと顔を出している。
「うん、わかった。冷蔵庫二台あるけど、どっちが共用なん?」
「右が共用で、左が好さん専用ね。好さんの研究用の何かが入ってるらしいんだけど、見たことない」
「好さん?」
「橋渡好さん。大学院生。ここで一番年上かな。すっごいクールな人だよ。でも怖くはないよ。たぶん」
「たぶん」が気になったが、律は笑って流した。
台所を出て廊下に戻ったとき、ななせが急に立ち止まった。
律もつられて止まる。
廊下の窓は庭に面していた。ガラス越しに雑草の茂みと、その向こうの木の枝が見える。午後の光が差し込んで、廊下の板の上に木漏れ日が落ちていた。
その庭先を、黒い猫が横切った。
痩せた猫だった。首輪はないが耳の先がカットされている。地域猫だ。しなやかな動きで雑草の間を抜けて、ブロック塀の方向に消えていく。
一瞬の間。
同じ猫が——同じ方向に、同じ速さで、もう一度横切った。
律は目をこすった。今のは何だ。同じ黒猫が同じ動きを二回した。見間違いかと思ったが、確かに見た。二回通った。同じ猫が。
「あ、またデジャヴ見えた」
ななせが、なんでもないことのように言った。
直後、庭先でぱきっと乾いた音がした。猫が通った草むらのあたりで、枯れた枝が折れたらしかった。
律はななせのほうを見た。特に驚いた様子はない。ただ確認しただけ、という顔だった。
「……今、猫、二回通らんかった?」
「そう。私のことわりつきがデジャヴで」
「ことわりつき……?」
聞き返した。初めて聞く言葉だった。
ななせは窓枠にもたれかかって、律のほうを向いた。
「理憑き。心の法則みたいなのが、人に宿った状態のこと」
言い方が妙に落ち着いていた。さっきまでの距離ゼロのテンションとは違う。説明し慣れている、というよりは、自分にとって当たり前のことを当たり前に話している、そういう感じだった。
「私の場合はデジャヴ——『これ前にも経験した』って感じるやつ。何かが起きる前に見えるんだよね、私のは」
律は黙って聞いていた。理解が追いついていないが、ななせの話し方があまりにも普通なので、否定するタイミングを逃した。
「……それ、何かが起きるってわかるってこと?」
「うーん、なにかが起きるとはわかる。なにが起きるかはわからない」
ななせはそう言って、ケロッと笑った。
一拍だけ間があった。
「ちょっと、めんどくさいけどね」
その一言だけ、声のトーンが少しだけ低かった。低い、というよりは、笑顔の厚みが一枚薄くなったような——そういう変化だった。律がもう少し鈍い人間だったら気づかなかったかもしれない。
でも気づいた。
律は何も言わなかった。ここで「大丈夫?」と聞くのは違う気がした。ななせ自身がケロッとしているのだから、こちらが深刻な顔をするのはお門違いだ。たぶんそうだ。
でも頭の隅に残った。
——ケロッとしてるけど、それ、しんどくないんかな。
ななせは一秒後にはいつもの調子に戻っていた。
「あ、そうだ律くん! ほかの住人にも挨拶しといたほうがいいよ。好さん、たぶん自分の部屋にいるから」
「好さんか。クールな人って言ってたっけ」
「そう! でもね、慣れたら全然話してくれるから。最初だけちょっとドキッとするかも」
「あと、一さんと千ちゃん……えーっと、皆同一さんと十十木千ちゃんも。夕飯のときには会えるんじゃないかな」
ななせはそう言いながら、もう居間のほうに歩き出していた。律は一瞬だけ窓の外を見た。庭に猫の姿はなかった。雑草が風に揺れているだけだった。
二回通った黒猫のことが、まだ頭から離れなかった。
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廊下を歩いていると、女の人とすれ違った。
律より背が高い。黒髪がまっすぐに腰のあたりまで伸びていて、前髪の下から切れ長の目がこちらを見た——一瞬だけ。目が合ったと思った次の瞬間には、もう視線がそれていた。
律は足を止めた。
「あ、こんにちは。今日から入る風間です」
相手も足を止めた。でもこちらを見ない。視線が律の肩のあたり——顔ではなく、その少し横——に固定されている。
「……橋渡好です。よろしく」
ぼそっと言って、そのまま廊下の奥のほうに歩いていった。背中が角を曲がって見えなくなる。怒っているわけではなさそうだったが、歓迎されている感じもしなかった。
律は廊下に一人残された。
「(……なんやったんやろ、今の)」
考えてもわからなかった。初対面で目を合わせない人はいる。人見知りなのかもしれない。でもさっきの一瞬、最初に目が合ったときの反応は、人見知りとは少し違う気がした。見えたのに、慌てて逸らした。そういう動き方だった。
まあ、初日だ。そのうちわかるだろう。
台所に行くと、好がコーヒーを淹れていた。さっき廊下で別れたばかりだが、先に来ていたらしい。マグカップを片手に、もう片方の手でスマホを操作している。律が入ってきたことに気づいて——また視線が微妙にそれた。
「……あ、すみません。水もらっていいですかね」
「……どうぞ」
好はマグカップを持ったまま、律の横を通り過ぎて台所を出ていった。すれ違いざまに、コーヒーの香りがした。ちゃんとしたコーヒーだ。インスタントではない。
律は水道の蛇口をひねりながら、好が出ていったほうを見た。
「(……なんやろ、あの人。目が合うたびにそらすの、なんか理由あるんかな)」
考えてもわからなかった。でも、嫌われているわけではない気がした。嫌いなら、わざわざ「どうぞ」と言わないだろう。声に敵意はなかった。むしろ少しだけ躊躇っているような、そういうトーンだった。
「(まあ、ええか。そのうちわかるやろ)」
律はコップに水を入れて飲んだ。水道水は冷たくて、箕面よりもカルキの香りが少ない気がした。




