第一話① 黒猫は二度、同じ道を通る
第一話「セオリア荘、はじめまして」
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前日の夕方、セオリア荘の縁側に、女の子が一人で座っていた。
庭の雑草が夕風に揺れている。塀の上を、黒い猫が右から左へ横切った。一拍おいて——同じ猫が、同じ場所を、同じ速さで、もう一度横切った。
女の子は驚かなかった。空になった麦茶のグラスを、少し体をひねって、よいしょ、と背中側の畳に置いた。それから猫が消えたほうを見て、ちょっとだけ笑った。
「うん、知ってる」
誰に言うでもなく、そう言った。
明日、この家に新しい住人が来る。男の子で、大阪から来て、玄関で靴の数を数えて、少しためらってから上がってくる。
彼女はそれを、誰よりもよく知っていた。ずいぶん長いあいだ、この夕方を待っていた。
二十一回目の「はじめまして」が、もうすぐ始まる。
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国立駅の改札を出たとき、風間律が最初に思ったのは「静かやなぁ」だった。
七月の東京はどこも暑い。大阪でも暑いのは同じだが、箕面の山から降りてくる風には湿気の中にも起伏があった。ここの空気は違う。平たくて、ぬるくて、まとわりつくように湿っぽい。駅前のロータリーにタクシーが一台だけ止まっていて、エンジンをかけたまま眠っているみたいに動かない。
一つ隣の立川駅とは全然違った。
さっきまでそこにいたのだ。新幹線で東京駅まで来て、中央線に乗り換えて、国立を一駅通り過ぎて立川で降りた。好きなアニメ映画の舞台がこの駅だった。聖地巡礼ってほどのことはしていない。駅から少し歩いた場所のドンキで当面の日用品を買い込んで、映画に出てきた階段をちょっとだけ歩いて、それだけ。でも主人公が毎日通っていた道を自分の足で歩いたとき、ほんの少しだけ胸の奥が動いた気がした。あの映画の主人公も苦学生だった。バイトと学業を両立して、それでも好きなことを手放さなかった子だった。
——まあ、俺は別にあの子みたいにかっこよくはないけど。
立川の駅前は人が多くて酔いそうだった。それが一駅戻っただけでこれだ。ロータリーの人影はまばらだ。風が、というよりは空気の層がそのまま動いたような、ぬるい微風が吹いている。
スマホの地図を開く。セオリア荘。徒歩十四分。
律は片手でキャリーケースを引き、もう片方の手で首の後ろを拭った。
駅から南に延びる通りは、どこまでも一直線だった。両側に大きな木が並んでいて、頭の上で枝が重なり合って、道全体にうっすらと影をつくっている。七月の昼間なのに、その木陰のおかげで少しだけ涼しい。桜かな、と思った。葉の形がそれっぽい。花の季節はさぞ綺麗だろうけど、今は緑が厚く重なっているだけだ。
「学園都市、か」
ネットで調べたときに出てきた言葉を、ぼそっと呟いてみた。一橋大学を中心に、大正から昭和にかけて計画的につくられた文教地区——とか、そういう説明が書いてあった。律にはあまりピンとこなかったが、古い建物が街並みの中で浮かずに立っていることだけは、歩いてみるとなんとなくわかった。
ふと、足が止まった。
「(……なんでわざわざ東京やったんやろ)」
思ったのは初めてではない。大阪にも予備校はある。箕面から通えるところにいくつもある。そっちのほうが家賃もかからないし、友達もいるし、母親の手料理も食べられるし、合理的に考えたらそっちのほうがずっと正しい。
なのに、律はここにいる。不動産サイトで見つけた異常に安い物件に惹かれて、一本の電話をかけて、あっさりと箕面を出た。もちろん、親の説得と引っ越しに伴う手続きはそれなりに大変だったが、どこからか湧き出るこの衝動を抑えることはできなかった。
「(家賃が安いから。そう思ってる。でも——なんかそれだけとちゃう気がするんよな、ずっと)」
何に引っ張られているのかはわからなかった。説明できないものを抱えたまま歩くのは落ち着かなかったが、かといって引き返す気にもならなかった。足はちゃんと前に出ている。キャリーケースの車輪がアスファルトの上で小さな音を立てている。それでいい。理由は後からついてくる。たぶん。
十分ほど歩くと住宅地に入った。道が細くなる。コンビニが一軒あって、その先は普通の家ばかりだ。地図の青い線は、そのなかの一本の路地に入るよう指示していた。
路地の突き当たりに、それはあった。
黒い板塀。瓦屋根。玄関脇に小さな庭——というより、手入れを諦めた空き地みたいな一角。雑草が膝の高さまで伸びていて、隙間からなにかの低木が首だけ出している。木造の二階建て。白い壁は経年でくすんでいて、ところどころに雨の染みが浮いていた。でも崩れている感じはない。ただ古いだけだ。六十年か、七十年か。それだけの時間がそのまま建物に溜まっている、そういう佇まいだった。
表札は出ていない。代わりに門柱の横に小さな金属のプレートが打ちつけてあって、「セオリア荘」と彫られている。字体が妙にしっかりしていて、建物の年季と噛み合わない。
律はキャリーケースを止めて、もう一度スマホを見た。不動産サイトのスクリーンショット。家賃二万二千円。水道光熱費・ネット込み。共用部ありのシェアハウス。個室八畳。
「……これで二万二千円は、さすがにおかしいやろ」
声に出して言ってみたが、誰も聞いていなかった。路地には律しかいない。
おかしいとは思っている。東京で、駅徒歩十五分で、個室があって、水道光熱費込みで二万二千円。学生向けの賃貸が多いとは言え、どこかに訳ありの理由があるはずだった。事故物件か、騒音か、大家が変な宗教をやっているか。そもそも内見をせずに決めた部屋なので、多少の不安は残る。でも不動産サイトの告知事項には何も書いていなかったし、サイトに掲載されていた写真では特に問題なさそうだった。契約のときに対応してくれた管理会社の人も普通だった。「いい物件ですよ」と言って笑っていた。あのあっさりした笑い方が少し引っかかりはしたけど。
でも、引っかかるのと払えないのとは別の話だ。
律の財布事情は控えめに言って厳しかった。箕面の家を出るとき母親に渡された封筒の中身と、去年の夏から貯めたバイト代。それで東京での生活費を払いながら予備校の現役生向けコースの授業料を捻出して、再来年の春に大学に受かる。計算上は不可能ではないが、余裕は一ミリもない。だからこの二万二千円は、おかしいとわかっていても、ありがたいとしか言いようがなかった。
母親には電話で「ちゃんとした環境やで」と言った。嘘ではない。たぶん。
キャリーケースを引いて門をくぐる。玄関まで三歩。引き戸に手をかけると、思ったより軽く開いた。建てつけが悪いのかと思ったが、逆だった。レールがなめらかに磨かれている。誰かが手入れしているのだ。
土間に入ると、靴が並んでいた。スニーカーが二足、革靴が一足、サンダルが一足。サイズはばらばらで、どれも女物に見えた。
「(……女の子しかいてないんかな)」
事前に聞いていなかった。管理会社の人は「他の入居者さんもいますよ」としか言っていなかったのだ。律は一瞬ためらったが、引き返すには遅すぎた。敷金・礼金・初月の家賃はもう振り込んでいる。
土間の奥に廊下が伸びていて、その先に居間があるらしかった。声が聞こえる。テレビではない。誰かが鼻歌を歌っている。音程は正確だが曲名がわからない。聴いたことがあるような、ないような——中途半端に耳に残るメロディだった。
靴を脱いで上がった。廊下は木の板張りで、足の裏にひんやりとした感触がある。壁は砂壁で、ところどころにひびが入っていた。天井が低い。律の身長は百七十二センチだが、手を伸ばせば届きそうだった。
廊下の突き当たりを右に曲がると、居間があった。
広い。十畳か、それ以上ありそうだ。畳敷きで、奥に縁側がある。縁側の向こうにさっきの庭——雑草だらけのあの庭が見えた。午後の日差しが縁側から入ってきて、畳の上に四角い光をつくっている。古い扇風機が一台、首を振りながら回っていた。
その扇風機の前に、女の子が一人、座っていた。
同い年くらいだった。髪は茶色がかっていて、肩より少し長い。頭のてっぺんからぴょんとひと束だけ跳ねた毛が立っている。Tシャツにショートパンツという格好で、扇風機の風を正面から浴びながら目を閉じて口を動かしていた。鼻歌の主だ。
律が一歩踏み込んだ瞬間、その子の目がぱちっと開いた。
目が合った。
彼女は律の顔を見て、ぴたりと止まった。鼻歌も止まった。扇風機だけが首を振り続けている。
二秒ほどの沈黙。
「……あれ」
最初の一言は、それだった。
「なんか、デジャヴ」
律は反応に困った。初対面のはずだ。会ったことはない。デジャヴと言われても、こちらには何の心当たりもない。
「……え?」
「うーん、なんかこの感じ前にもあったような……まあいっか!」
一秒だった。文字通り一秒で表情が切り替わった。さっきまでの怪訝な顔が嘘みたいに消えて、満面の笑みになった。
「ようこそセオリア荘へー!」
立ち上がって、律のほうに歩いてくる。距離がおかしい。初対面の人に話しかける距離の半分くらいまで来た。律は半歩だけ後ろに下がった。
「新しい人だよね? 今日から来るって聞いてた! 私、七瀬ななせ。ななせって呼んで!」
「……風間律です。大阪から来ました」
「はじめまして、律くん! 大阪! いいなー! たこ焼き作れる?」
「作れるけど、たぶんそこは今あんまり関係ないかなって」
「えー、作ってよ今度! あ、部屋どこ? もう聞いた? 二階? 一階?」
距離が近い。声も近い。近づくと、ふわりといい香りを感じる。日向ぼっこをした後の猫のような、焦げたような、不思議な太陽の香りにどきりとする。律は半歩下がったが、ななせはその分だけ前に出てきた。縮まらないのではなく、距離というものを気にしていないのだ。
仕方ないので、律は下がるのをやめた。
距離感がバグっている人間と付き合うコツは、こっちが相手のペースに入ることだ。引いたら追いかけてくるが、止まったら意外と落ち着く。
「一階の、奥から二番目って聞いてます」
「あ、私の隣じゃん! やったー!」
やった、の意味がわからなかったが、この子に深い意味はなさそうだった。ただ隣の部屋に人が来たことが嬉しい、それだけの反応に見えた。
律は居間を見回した。古い茶箪笥、テーブル、座布団が数枚。壁に時計がかかっているが、秒針が動いていない。止まっている。
「ここ、何人住んでるんですか」
「えーっと、私入れて四人かな。今日から律くんが来て五人!」
「全員女の子?」
「うん。律くんが初めての男の子だよ」
律は黙った。先に言ってほしかった。
「あ、でも大丈夫だよ! みんないい人だから! ちょっと変わってるけど!」
「ちょっと」がどの程度なのか、律はこの時点ではまだ知らなかった。




