第十二話④ 理由はわからなくていい
居間の窓から入ってくる光がオレンジに傾いている。テーブルの上に湯呑みが並んでいた。一が淹れたお茶の湯気が上がっている。ななせがテーブルの前で雑誌をめくっている。好がノートを広げている。千がテーブルの端で——今日は一のすぐ隣で、お茶を両手で包んでいる。
何の変哲もない夕暮れだった。八十六ヶ月前の律にとっても、今の律にとっても——同じ風景。ただ夕方の居間に全員がいて、お茶を飲んでいる。それだけのことが、前のループでは叶わなかった。前の前のループでも叶わなかった。十日目の夕方に全員が揃っていることが——律にとっては、もうそれだけで充分な奇跡だった。
律はテーブルの角に座った。いつもの場所。畳の感触が脚にある。お茶の温度が手のひらにある。ななせの指が律の湯呑みに当たりそうな距離にある。いつもの距離感。いつもの温度。
一が立ち上がった。エプロンをつけたまま。
「水撒いてくるね」
庭に出て柄杓を手に取る。いつもの動作。律がこの家に来た初日に見た動作。三日目に一緒に撒いた動作。三度のループの中で——何十回と見てきた動作。
一が柄杓を高く持ち上げて、弧を描くように水を落とす。雑草の隙間に水が広がる。夕暮れの光が水面に反射して、一瞬だけ庭がオレンジに光る。
その瞬間——
水の中から、小さな魚が跳ねた。
律は目をこすった。
見間違いではなかった。庭の地面に撒かれた水の中に——銀色の小さな魚が一匹、跳ねた。水面を割って空中に出て、落ちて、消えた。
ななせが雑誌から顔を上げた。息を呑む音が聞こえた。
一がもう一度水を撒いた。同じ動きで。同じ角度で。柄杓から弧を描いて落ちた水が庭の地面に広がって——
水面が、膨れ上がった。
律は立ち上がっていた。テーブルから離れて、縁側に向かって。
庭に撒いたはずの水が——海になっていた。地面の境界を越えて、塀を越えて、広がっていく。波が立っている。本物の波だった。潮の香りがした。雑草の代わりに海藻が揺れている。
巨大な影が浮上した。
海の底から。何匹も。何十匹も。
シロナガスクジラだった。
律の視界を埋め尽くすほどの巨大な体が、水面を割って背中を見せた。水柱が空に上がった。高く。家の屋根より高く。水しぶきが夕暮れの光を含んで散って——
空が変わった。
夕暮れのオレンジが消えた。一瞬で夜になった。紺色の空が広がって——満天の星が現れた。国立で見えるはずのない星空だった。箕面の山奥でも見たことのない密度の星。天の川が頭上を横切っている。クジラが星空の下で潮を吹いている。水柱が星明かりで光って——
ななせの声が聞こえた。
「——デジャヴ」
震えていた。ケロッとしていない声だった。ケロッとする余裕がどこにもない声だった。
「こんなの、見たことない」
ななせの声が裏返っていた。四十二年分の記憶。二十二回のループ。数えきれないデジャヴを見てきたななせが——「見たことない」と言っている。猫が二匹通るのも、何十匹も走るのも、全部見てきた。でもこれは——ななせが知らないスケールだった。
律は全員の波を見た。身構える。
ななせの二重波形が激しく揺れている。好の心拍リズムが速くなっている。一の波紋に——動揺が走っている。千の断片化が——
全員が構えていた。何かが来る。今まで見たことのないスケールのデジャヴの後に——何かが来る。定理過剰が。リセットが。声が。「定理過剰。リセット開始」が——
——来なかった。
すっと夕暮れに戻った。
オレンジの光が庭に落ちていた。一が柄杓を持って立っていた。庭に水が染みている。雑草が風に揺れている。シロナガスクジラはいない。海はない。星もない。
セオリア荘の庭だった。いつもの庭だった。
何も起きなかった。
長い沈黙が落ちた。
好が自分の胸に手を当てていた。心拍を確かめている。一が柄杓を持ったまま固まっている。千が一の腕に手を伸ばしかけて——止めている。
律は四つの波を見た。
揺れていた。全員の波が揺れていた。でも——暴走ではなかった。興奮の残響だった。
ななせの二重波形のずれが、少しずつ戻っていく。好の心拍が減速していく。一の波紋が広がりを取り戻していく。千の断片化が——いつもの周期に戻っていく。四つの波が、日常の揺れ方に着地していく。
蝉の声が聞こえた。ずっと鳴いていたはずなのに、あの光景の間は聞こえていなかった。世界が音を取り戻していた。庭の雑草が風に揺れている。屋根の向こうに空がある。国立の空。いつもの空。
「(何かが——終わったんや)」
律の中で、言葉が形を取った。
ループが止まった。なぜそうなったのか。律にはわからない。ななせにもわからないだろう。
でも——何かが終わった。それだけは、確かだった。
ななせの目から涙がこぼれていた。
ケロッとした顔のまま。表情は変わっていない。変わっていないのに——涙だけが流れている。頬を伝って、顎の先で止まって、落ちた。声はなかった。嗚咽もなかった。ケロッとした仮面の下から、涙だけがこぼれている。
律は小さく言った。
「ななせ、ごめん。お待たせ」
遅刻したときに友達に謝るくらいの軽さで。大げさにしない。感傷的にしない。八十六ヶ月を一緒に過ごした相手に、ただひとことだけ言う。——待たせた。それだけ。
ななせが律を見た。
涙が流れたままの目で。ケロッとした顔の上の、涙の跡が夕暮れの光で光っている。
ななせの目が——変わった。何かを聞いた目になった。律の声と、別の声が重なった目。二十回目のループで聞いた声。四十ヶ月前に飛んだとき、セオリア荘に来る前の時期に、顔も覚えていない誰かが言った声。「ここにいなさい。いつか来るから」。——あの声と、今の律の声が、ななせの中で重なっていた。
ななせが——初めてケロッとしていない顔で笑った。
律はその笑顔を見ていた。
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居間の蛍光灯がぽっと灯った。
夕暮れが縁側から流れ込んでいた。オレンジが薄くなって、藍色に変わろうとしている。庭の蝉が鳴いている。夜の虫の声が混じり始めている。
一が台所でお茶を淹れ直していた。「さっきの何だったんだろうね」と笑いながら。好が「集団幻覚の事例は心理学にあるけど、五人全員が同じものを見るのは珍しい」と言った。千が「……きれいだった」とぽつりと言った。
「(——そういえば、あれは海やった。千ちゃんが行きたいって言うてた、海。理由は、わからんけど)」
ななせは律の隣に座っていた。涙の跡はもう乾いていた。ケロッとした顔に戻っていた。でもその奥に——さっきの笑顔が仕舞われているのを、律は知っていた。
五人の声が居間に重なった。一のふわっとした笑い声。好の低い声。千の小さな声。ななせのケロッとした声。律の声。五つの声が混ざって、居間の空気を埋めていた。いつもの夜だった。昨日の夜と同じ夜。一昨日の夜と同じ夜。でも——ドミノが倒れなかった夜の、次の夜。
律は四つの波を見ていた。ゆっくりと揺れている。暴走の気配はなかった。安定しているわけではない。千の波は相変わらず断片化を続けている。一の波紋にはいつか鋭角が戻るかもしれない。好の心拍リズムはまた加速するかもしれない。ことわりつきは消えていない。呪いは消えていない。——でも、隣にいることはできる。崩壊が来るたびに。何度でも。
「(なんでここにいるのか、わからん)」
律はお茶を飲みながら思った。
「(なんで俺だけ平気なのかも、わからん)」
ななせが律の湯呑みに指を伸ばして、ちょいちょいとつついた。「律、おかわりは」。律が「まだある」と返した。ななせが「そっか」と笑った。
「(でも——ここにいる。それだけで、なんか十分な気がする)」
縁側から夕暮れの最後の光が入ってきた。居間の蛍光灯と混ざって、畳の上に柔らかい影を作っている。一が千にお茶を注ぎ足している。好がノートに何かを書いている。ななせのアホ毛が蛍光灯の下で揺れている。
ななせが「暇だから手相見てあげる」と律の手を引っ張った。昨夜と同じことを言っている。
「まだやるんかそれ」
「律の将来を当てます」
「昨日も聞いたわ」
ななせが真面目な顔で律の手のひらを覗き込んだ。アホ毛が律の手に触れた。
「律は将来——いいことがあります」
「ざっくりしすぎやろ。昨日と全く同じやん」
好が横から「また言ってる。バーナム効果の教科書に二度載るよ」と言った。一が笑った。千が小さく笑った。
律は——笑った。
四つの波が揺れている。
静かな夜だった。




