↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/42

エピローグ 花火

エピローグ「花火」


---


 七月の最後の土曜日、五人は電車に乗っていた。


 夕方の中央線は、浴衣の人たちで混んでいた。律たちの目的地は隣の市だった。国立から二駅。毎年この時期に開かれる、大きな花火大会。会場は広い公園で、五千発も打ち上げられるらしい。一が朝のニュースで見つけてきて、「みんなで行こうよ」と言い出したのが昨日のことだった。


 「海は遠いけど」


 一はそう言った。千のほうを見て。「花火なら、近いから。行けるよ」


 千は何も言わなかった。でも小さくうなずいた。海の代わりの花火。海そのものではないけれど、海に向かう前の、小さな一歩みたいなものだった。


 家を出るとき、律は一度だけセオリア荘を振り返った。


 夕方の光の中で、セオリア荘はいつもどおり、六十年選手の木造だった。門を出て、視線が何気なく二階へ上がって——止まった。


 二階の、端の部屋。律が来てから一度も開いたことのない硝子戸が、細く開いていた。窓辺に、真新しい簾(すだれ)が掛かっている。日に焼けていない、青い簾。昼すぎに洗濯物を取り込んだときには、なかったはずのものだった。


 「(……換気かな。一さん、ようやってるし)」


 そう思って、それきりにした。駅までの道で、ななせが三回話題を変えた。改札をくぐる頃には、青い簾のことは、律の頭から消えていた。


 律は吊り革につかまって、窓の外を見ていた。夕暮れの街が流れていく。電車の揺れが心地よかった。ループが止まって、まだ数日しか経っていない。当たり前の毎日が、当たり前に続いている。明日も、明後日も。それがどれだけのことか、律とななせだけが知っている。


 「(花火大会、か)」


 律はぼんやり思った。前のループでは、こんなふうに全員で出かけたことは一度もなかった。誰かが暴走して、誰かが壊れて、それどころではなかった。夏を、夏として過ごせたことがなかった。


 今年は、違う。


 ななせが律の隣で、つり革につかまりながら揺れていた。アホ毛が電車の揺れに合わせてぴょこぴょこ動いている。浴衣ではなく、いつもの私服だった。「浴衣は準備が面倒だから」と言っていた。好も私服。千も私服。一だけが浅葱色の浴衣を着ていて、「せっかくだから」と嬉しそうにしていた。


 「律、花火好き?」


 ななせが聞いてきた。


 「普通やな。嫌いやないけど」


 「ふーん。私は好き。ぱーって開いて、すぐ消えるとこが」


 「刹那的やな」


 「せつな……なにそれ。むずかしい言葉使わないでよ」


 「一瞬で消えるってことや」


 「あー。うん、そうそう。一瞬で消えるの。でも、覚えてるの」


 ななせが笑った。律はその横顔を見た。一瞬で消えて、でも覚えている。それはデジャヴの話でもあった。ななせだけが、消えたはずの時間を、全部覚えている。


 電車が駅に着いた。人の波が、ホームに流れ出していく。


---


 会場の公園は、とてつもない人出だった。


 芝生の広場に、シートを敷いた人たちがびっしり座っていた。屋台とキッチンカーが園路にずらりと並んでいて、ソースの焦げる香りと、綿菓子の甘い香りが混ざって漂っている。子どもが走り回っている。どこかでラムネの瓶を開ける音がした。


 「うわ、すごい人」


 好が目を丸くしていた。


 「集団の密度がすごい。パニックにならないのが不思議なレベル」


 「好さん、そういうのすぐ分析するよね」


 ななせが笑った。好が「……職業病」と小さく言って、視線をそらした。心拍が少し上がったが、暴走の気配はなかった。ただ少し恥ずかしいだけだった。律は視界の端で好の波を確認して、それ以上は見ないことにした。もう、四六時中見張る必要はない。


 一が屋台のほうを見て、「みんな、何か食べる?」と聞いた。


 結局、ばらばらに買うことになった。一はたこ焼き、好は焼きそば、千はりんご飴を選んだ。千がりんご飴を両手で持って、赤い飴を透かして夕暮れの光を見ているのが、律の視界の端に映った。穏やかな波だった。


 ななせは屋台の前でしばらく迷って、チュロスを買った。細長い揚げ菓子に、砂糖がたっぷりまぶしてある。


 律は何も買わなかった。「腹減ってへんし」と言うと、ななせが「じゃあ一口あげる」と言って、チュロスの袋を差し出した。


 「ええわ。ななせが食べ」


 「遠慮しなくていいのに」


 「遠慮ちゃうよ。ほんまに腹減ってへんだけやから」


 人の流れに押されて、律とななせは少しだけ、みんなから離れた。一と好と千は屋台の近くで食べている。律とななせは、園路の端の、少し空いた場所に立っていた。


 空はもう、藍色に近かった。花火が始まるまで、あと少し。


 ななせがチュロスを一本、袋から取り出した。


 「律、ちょっとみてみて」


 「どしたん」


 ななせが、チュロスをパクッと食べた。先端を、小さく一口。砂糖が唇についた。何の変哲もない動きだった。


 そして——ななせが、目を閉じた。眉間に、力を込めた。


 律の視界の端で、ななせの二重波形が——揺れた。いつもの、常にわずかにずれている二本の波。そのずれが、すっと重なっていく。二本が、一本に収束していく。見たことのない動きだった。


 次の瞬間。


 ななせが、チュロスをパクッと食べた。


 律は目を見張った。


 全く同じだった。同じ角度。同じ深さ。同じ一口。さっきと寸分違わない動きで、ななせはチュロスを食べた。まるで——さっきの一口を、もう一度、再生したみたいに。


 「……え」


 律の声が、少し掠れた。


 「うそやん。今の、デジャヴ?」


 ななせが目を開けた。ケロッとした顔で、でも得意げに、口の端を上げた。砂糖がついたままだった。


 「むふー。わたし、デジャヴマスターになったみたい」


 「デジャヴマスターて」


 「コントロールできるようになったの。まだ不安定なんだけどね。意識を集中したら、シンプルなデジャヴなら、自分で起こせるみたい」


 律は言葉が出なかった。ななせのデジャヴは、ずっと「勝手に起きるもの」だった。四十二年間、ななせを苦しめてきた、制御できない呪い。猫が二匹通る。スズメが飛ぶ。何十匹もの猫が走る。全部、ななせの意思とは関係なく、勝手に押し寄せてきた。


 それを——ななせが、自分で起こした。


 「いつから、そんなん……」


 律が聞くと、ななせは少しだけ、いたずらっぽく笑った。


 「あのときから」


 「あのとき?」


 「ほら。律がしくしく泣いて。わたしが抱きしめたとき」


 律の頬が、ぴくりと動いた。


 「……しくしく言うな」


 「ふふ。あのとき、なんか変わった気がするの。ずっと勝手に押し寄せてくるだけだったのが——あのときから、ちょっとだけわたしのものになった。うまく言えないけど」


 律は何も言えなかった。


 律が決壊して、ななせが受け止めた、あの夜。律の抑制能力が、ななせの何かに触れたのか。それとも、ループが止まったことで、ななせのデジャヴが別の形に変わり始めたのか。理由はわからなかった。


 「(……理由は、わからんでいいか)」


 律はそう思った。もう、わからないことに慣れていた。わからないまま、事実だけがそこにある。ななせは、デジャヴをコントロールできるようになった。それだけ。


 「でもさ」


 ななせが、チュロスの残りを見ながら言った。


 「これって、役に立つのかなぁ?」


 「……知らんがな」


 「むー。律なら何か思いつくかと思ったのに」


 「チュロス二回食べられるだけやろ、今んとこ」


 「たしかに! あ、でも、それはそれで嬉しいかも」


 「食い意地やん」


 ななせが笑った。律も、少しだけ笑った。


 役に立つのかどうかは、わからない。でも、四十二年間ずっと呪いだったものが、ほんの少しだけ、ななせの味方になった。それは——たぶん、悪くないことだった。


---


 花火が、上がった。


 最初の一発が、藍色の空に、大きく開いた。少し遅れて、腹の底に響く音が届く。会場から歓声が上がった。


 律は空を見上げた。


 次々と花火が上がっていく。赤。金。緑。夜空に大輪の花が開いては、散っていく。刹那的、とさっき自分が言った言葉を思い出した。一瞬で消えて、でも覚えている。ななせの言葉のとおりだった。


 みんなが空を見上げていた。


 一が「わあ」と声を上げている。浅葱色の浴衣が、花火の光で色を変える。好が花火を見ながら、「連続して見ると、一発ずつよりも感動が増幅する……知覚の加算効果かな」と呟いて、それから「……理屈っぽいの、やめよ」と自分で言い直して、ただ空を見た。千が、りんご飴を持ったまま、口を小さく開けて、花火を見上げている。「……きれい」と、ぽつり言った。海のときと同じ言葉だった。でも今度は、不安の影がなかった。ただ、きれいだった。


 律の隣で、ななせも空を見上げていた。


 律は四つの波を見た。全員の波が、花火に合わせて、静かに揺れている。暴走ではなかった。ただ、感動していた。壊れることのない、健やかな揺れだった。


 いい夏だ、と律は思った。


 ぱっと大きな花火が開いた。一尺五寸玉、というやつだろうか。空いっぱいに広がって、金色の枝垂れが、ゆっくりと降ってきた。会場中がどよめいた。


 その、次だった。


 律の目に——別の花火が見えた。


 みんなが見ている花火とは、違うものだった。夜空の隅に、薄く、淡く、広がっていく光。まるで水面に石を落としたときの波紋のように、同心円状に、ゆっくりと広がっていく。薄い花火。ほとんど透明で、他の花火の派手さの陰に隠れて、誰も気づいていない。


 でも律には、はっきり見えた。


 波のように広がる、薄い光。


 「(……なんや、あれ)」


 律は目を凝らした。花火にしては、動きが変だった。ぱっと開いて散るのではなく、ゆっくりと、じわじわと、波紋のように広がり続けている。律がこれまで見てきた——誰かのことわりつきの、波の広がり方に、似ていた。


 「なあ、ななせ」


 律は声をかけた。


 「いまの、波みたいな花火。あんまり見ぃへんよなぁ? 新種なんかな?」


 ななせが空を見た。首をかしげた。


 「えー、そんな花火あったっけ? 見逃したかも!」


 律はもう一度、空の隅を見た。


 薄い波紋は——もう、消えていた。他の花火の光に紛れて、どこにあったのかもわからなくなっていた。気のせいだったのかもしれない。花火の残像が、そう見えただけなのかもしれない。


 「(……まあ、ええか)」


 律は、それ以上は考えないことにした。


 花火は、まだ続いていた。会場の熱気が、夏の夜を満たしている。隣にななせがいて、少し離れて一と好と千がいる。五人で、同じ空を見上げている。それだけで、十分だった。


 律は、もう一度、空を見上げた。


 夜空に、大きな花が開いた。


 ——夏は、まだ始まったばかりだった。


(了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。